NETWORK租税資料

 写真は、明和9(1772)年に発行された年貢の領収書です。房山(ぼうやま)村(長野県上田市)の庄屋安兵衛が作成し、山口村(同前)安右衛門が受け取ったものです。本文中に「去卯之御年貢皆済」とあるので、前年の明和8(卯年)年分の全ての年貢を納めたことが明記されています。通常であれば、年貢の納期はその年の年末です。一年後の年末に領収書が発行されているのは何らかの事情があったと思われますが、詳しいことは分かりません。  山口村の安右衛門は住んでいる村とは異なる村の年貢を負担していたことになりますが、これについては、山口村の安右衛門は房山村に土地を持っていたため、房山村の年貢を負担していたものです。江戸時代にはよくあることで、山口村から見ると「出作(でさく)」、房山村からは「入作(いりさく)」と呼びます。

 江戸時代の年貢は村請制(むらうけせい)でした。年貢納入の責任を村全体で負うのです。領主から村に年貢総量と納期を記した「年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)」という納付指令書が出され、納入が完了すると「年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)」という領収書が領主から村宛てに発行されました。一方で、領主は村の中でどのように年貢が集められるかには関わりませんでした。村役人が実務を担ったのです。

 房山村と山口村は、上田藩の城下町に隣接した村でした。そもそも上田は、天正12(1584)年に真田昌幸が築城し、本拠地とした場所でした。元和8(1622)年に真田氏は松代藩(長野県長野市)に移り、仙石氏が上田藩の藩主になりました。真田氏は貫高制(かんだかせい)という土地制度を採用していましたが、仙石氏もその後の松平氏もその制度を引き継いでいきました。貫高制とは、年貢の賦課などに際し、土地を銭(ぜに)(金や銀と並ぶ江戸時代の基本通貨の一つ)の単位でもある貫文で表示する方式です。多くの藩では、戦国末や近世の初頭に検地を行い、石高制に移行していくのが通例でした。しかし、上田藩では戦国以来の貫高制を明治まで維持したのです。

 上田藩の貫高制では、村ごと土地ごとに貫高が設定されていました。年貢の勘定を行う場合、設定された貫高を村ごとに異なる換算率を用いて籾俵(籾摺り前の米を俵に詰めたもの)の数に換算し、さらに籾俵数を米に換算するという2段階の換算を行う必要がありました。江戸時代に「米」は、「玄米」を意味しました。年貢は玄米で納めるのが一般的でした。都市部の一部の小売を除いて、商取引も玄米の形で行われました。籾の形で取引が行われているのは、山梨県・長野県や九州地方の南部だけでした。ただし、その全貌はまだ解明されていません。

 写真の領収書の内容を見てみましょう。「一つ書き」(「一」で始まる箇条書きの部分)の肩書きに「高百文」(1000文=1貫文)とあります。これは、山口村安右衛門が房山村に貫高100文の土地(広くても24坪程度)を持っていたことを表しています。その下の「但」(但し書き)では、「貫ニ四俵代」とあり、房山村では、貫高1貫文あたり籾4俵の換算率だったことが示されています。そして、「一つ書き」に「八升」とあります。この土地の貫高100文を籾俵数に換算すると籾8升に相当するとされ、これがこの年に安右衛門が納めなければならない年貢なのです。しかしながら、「代八〇八文」と書かれており、更にその横に、「平均両九斗〜」と金1両あたりの米相場が注記してありますので実際には、籾を金に換算、さらに金を銭(ぜに)に換算し、銭で年貢を納めていたことが分かります。江戸時代の貨幣制度では、金銀銭はそれぞれ別な相場として変動していたので、金と銭の間の換算も必要でした。  このように、庄屋安兵衛は、年貢の勘定に際し、「貫高→籾(→米)→金→銭」などと金銭や米穀などを何度も換算していたことが分かります。前述したように、村請制の下では、領主が村の中で具体的にどのように年貢を集めるのかについて関わることはなく実務を担うのは村役人でした。村役人は、村内に土地を持つ者それぞれの年貢納入量を計算し、各自に通知しました。そして、実際に年貢を集め、領主の蔵にまとめて納入したのです。村役人は年貢を納めた者に対して、写真のような領収書を発行しました。写真の領収書の上部を見ると、割印があります。発行した村役人の手許には、全員分の文面を写した帳面があり、領収書を重ねて割印を捺したのです。

 年貢の領収書という一つの史料であっても、上田藩の特色とともに、村役人が行った年貢納入に関する事務の一端が窺えるのです。

(研究調査員 舟橋明宏)