この2枚の史料(写真1・2)は、忍町(埼玉県行田市)の商工会が作成し、会員に配付した大正2年(1913年)と大正6年(1917年)の「国税営業税納税一覧表」と題された印刷物です。この2つの史料は、営業税の納税者と納税金額について、納税金額が多い順にまとめられています。
 なお、営業税とは、現在の事業税の前身に当たる税目ですが、この時期には国税の一つとされていました。
 2つの史料の作成時期は4年しか離れていませんが、比較をしていくと行田に訪れた変化が垣間見えます。以下、表を用いて行田に訪れた変化を見ていきましょう。
 表1は、2つの史料から納税金額の上位10位までを抜き出したものです。
 1位の忍商業銀行は、日清戦争後の明治29年(1896年)に開業した銀行です。この地域を代表する豪農の松岡家、2位の橋本家(橋本喜助)、その他有力な大地主が発起人となって設立され、以後、行田の経済発展の核として重要な役割を果たしていきました。また、上位の忍貯金銀行は、忍商業銀行の傍系の貯蓄銀行として、明治30年(1897年)に開業しました。
 2位の橋本家(橋本喜助)は、行田で最古参の足袋製造業者で、近代に至っても最大の規模を誇っていました。また、橋本家は地域を主導する立場にあり、町会議員や県会議員、そして足袋関係組合の重役を輩出していきます。
 大正2年の3位、大正6年の4位である鈴木忠右衛門は、現在の株式会社イサミコーポレーションの創業者で、明治40年(1907年)に足袋製造業を開始しました。
 当時の行田の産業の中心は、全国的にも有名であった足袋の生産でした。言い伝えでは、江戸時代前期の17世紀末には足袋の製造が始まっていたようです。行田の足袋製造は、江戸時代に内職仕事として始まり、その後、家内工業へ、そして産業革命を経て、工場制工業に発展しました。最盛期の昭和13年(1938年)には、年間最高の8,400万足余を生産し、全国シェアの8割を超えるようになっていました。
 大正6年に鈴木忠右衛門を抜いて3位で登場するのが行田電灯株式会社です。大正2年分には同社の名称はありません。行田電灯は、明治43年(1910年)に町長・商工会長・大地主・足袋業者などの地元の有力者が協力し、設立した株式会社です(開業は翌1911年)。電力会社設立の主な目的は、足袋の製造に要する動力の電化です。大阪府の福助(当時は会社名ではなく商標名でした)など、全国のライバル足袋業者の方が先に電化が進んでおり、行田ではその対応に迫られていたのです。
 表2は、大正時代における行田電灯の規模を比較したものです。当初の行田電灯は自家発電でした。しかし、大正4年(1915年)から受電(買電)に切替え、大幅に電力供給規模を拡大していきました。
 自家発電時代の大正2年には表1に名前がなく、規模拡大後の大正6年の表1では納税金額3位になるのです。つまり、この4年の間に電灯会社が規模を拡大し、その納税額が増加したのです。
 また、表1の納税金額上位者の中に、行田馬車会社の名前があります。馬車鉄道は、欧米では蒸気鉄道の前の時期に活躍した乗物でしたが、日本では明治維新後に両者がほぼ同時期に導入されました。馬車鉄道は、軌道の上の客車を馬が牽引するものです。企業としては明治15年(1882年)開業の東京馬車鉄道会社が最初でした(明治36年電化により廃止)。その後、明治の後半期に全国各地に小規模な馬車鉄道会社が設立され、明治の終わり頃には48社もの馬車鉄道会社が作られました。
 この地域では、忍馬車鉄道が明治32年(1899年)に営業許可を得て、翌年に開業しました。そして、明治34年(1901年)に全線が開通しました。この忍馬車鉄道は、忍町の木綿織物業者や足袋業者が中心になって設立したものです。そして、明治38年(1905年)に行田馬車鉄道が新たに設立され、前身である忍馬車鉄道の事業が引き継がれました。その後、大正11年(1922年)に北武鉄道(現秩父鉄道秩父本線)が開通したことを受け、乗合自動車(いわゆる「バス」)の営業を始め、自動車収入が馬車鉄道の客車収入を上回るようになりました。そして、翌大正12年(1923年)には馬車鉄道を廃止し、乗合自動車専業へと完全に移行してしまいます。
 2枚の史料は、営業税の納税者と納税金額を記したランキングに過ぎません。しかし、大正時代の行田に訪れた新しい波、電化・鉄道・自動車が生活・生産・運輸に与えた影響の一端が窺えて興味深いのです。大正の終わりから行田は、電気動力を駆使して足袋を製造し、問屋に送る商品はトラックで出荷する時代になったのです。

(研究調査員 舟橋明宏)