「税金預リ人」と大蔵省為替方

 本年も確定申告の時期となりましたが、それにちなんで今回は昔の納税についての史料を紹介しましょう。
 史料には、24センチメートル×16.5センチメートルの紙に「大蔵省為替方」(写真の史料では、「大蔵省為換方」と表記されています。)と書かれ、「税金預リ人」4名の印鑑と納税切符割印が捺されています(写真1)。
 この史料が何のためのものなのか考えるには、まず、明治前期の日本における租税の徴収・収納制度の変遷をひも解く必要があります。
 江戸時代に約300もの藩などに分かれていた日本は、明治になると中央集権化、近代化を図りますが、租税の徴収・収納制度の整備も重要な課題となっていました。明治維新直後、租税の徴収は「旧慣」によるとされ、府県に委任されていましたが、次第に制度が整備されていきます。
 明治11年(1878年)、地方三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の3つからなり、地方行財政の整備が図られた。)が定められ、地方行政組織が整備されます。特に郡区町村編制法やその関連法令によって郡区長に国税の徴収事務が委任されることとなり、これに伴って国税金領収順序が定められ、国税の徴収・収納制度が整備されました。
 この国税金領収順序は短期間に何度も改正されているのですが、制定直後の明治11年当時の制度の概要を確認してみましょう。
 まず、郡区役所において各町村の納税額と納税期限が記入された納税切符が作成され、各町村に置かれた戸長へ送られます。これを基に戸長は町村内の納税者からの税金を取りまとめ、「税金預リ人」へ納めるとともに納税切符も提出します(写真2)。これを受け取った「税金預リ人」は、納税切符に捺印・割印をして戸長へ返却します。戸長は、捺印・割印を受けた納税切符を郡区長へ提出し、郡区長は管内の戸長から提出された納税切符を取りまとめて納税証書を作成し、併せて収税委員へ送付します(写真3)。郡区長は、この際収税委員から代わりに発行される領収証書(写真4)を地方官庁(府県)へ上納し、皆済報告をします。そして、収税委員から発行された領収証書と郡区長による皆済報告を受けた地方官庁が、税表などを作成して大蔵卿へ決算報告を行うという制度でした。
 さて、この「税金預リ人」とはどのような者だったのでしょうか。国税金領収順序では、大蔵省が各地方適宜の場所に「税金預所」を設置し、そこに「税金預リ人」を任命して、戸長から集められた税金の鑑定・収入・逓送などを担当させることとして定められていました。つまり、税金として納入された現金の収納を実際に行っていた者で、主に、その地域の銀行や銀行がない場合は地元の有力者が任命されていました。この税金預所には大蔵省租税局(後の主税局の前身)から収税委員も派遣され、税金の徴収の監督などに当たっていました。
 なお、「税金預リ人」は、その所掌する業務が国税の収納以外にも広がったため、明治12年に「大蔵省為替方」という名称に替わっています。翌13年には、この広がった職掌などを整理するため、大蔵省為替方条例および大蔵省為替方当務心得などが11月に出されます。それによると、「大蔵省為替方」の名代人の印鑑や納税切符へ割印する印鑑については、府県庁及びその大蔵省為替方が受け持つ区域内の郡区役所へ差し出すことが義務付けられており、この史料はこれに基づいたものと考えられます。
 これらのことを踏まえて、この史料を確認してみましょう。
 まず、「大蔵省為替方(上記のとおり、写真の史料では「為換」と表記されています。)」と書かれ、一行置いて第二十二国立銀行名代と書かれています。史料中の美作国西北條郡津山堺町は現在の岡山県津山市、英田郡(あいだぐん)倉敷村は同じく現在の美作市に当たります。この地域での「大蔵省為替方」に、第二十二国立銀行が当たっていたこと、その「名代」すなわち代理人が、三村氏、橋本氏、岡本氏、佐分利氏の4名だったことが確認できます。「大蔵省為替方」と「税金預リ人」両方の名称が使われていますが、この4人の「大蔵省為替方」の代理業務のうち、特に国税の収納に特化させるためか、又は「税金預リ人」から「大蔵省為替方」へ改称して間もない時に混乱をきたさないようあえて並列して使ったのかもしれません。
 なお、この第二十二国立銀行は、明治10年に旧岡山藩主の池田家が出資の中心となり士族授産事業の一環として設立されました。明治12年には美作地方の官金取扱を命じられましたが、津山銀行創立の影響もあり、15年には津山地方から撤退したようです。つまり、この史料は明治13年〜15年の間のものといえそうです。明治30年1月には株式会社第二十二銀行となり、大正12年(1923年)に保善銀行(のちの安田銀行)に合併され、現在のみずほ銀行に至っています。また、「税金預リ人」は、官金を扱うためその担保をあらかじめ払う必要があり、一定の財力がある地元の有力者が担いました。なかでも三村久吉は、豪農で県会議員などを務めたり、自由民権運動にも積極的に加わるなど地元の有力者でした。
 ところで、「大蔵省為替方」は明治16年に日本銀行が国庫金を取り扱うようになり廃止され、代わりに国庫金取扱所が設置されました。津山地方の国庫金取扱所は、津山銀行が担当しています。徴収制度についても、国税金領収順序に基づく制度から、明治22年、市制・町村制の実施とともに制定された国税徴収法に基づく制度へと替わっています。
 以上のように、この史料が作成された明治10年代は、地方制度や国庫金制度の確立に伴い日本の税金の徴収・収納制度が成立・整備されていった時期に当たります。今回紹介した史料は、めまぐるしく変化を遂げた日本の租税徴収や国庫収納制度の確立過程を表すものといえるでしょう。

(研究調査員 今村千文)