継承された古文書の情報

 江戸時代の年貢は米納が原則でしたが、中には金納の地域もありました。例えば幕府領の場合、延享3年(1746年)9月時点で、但馬(=兵庫県北部)・飛騨(=岐阜県北部)・信濃(=長野県)・隠岐(=島根県の一部)・日向(宮崎県と鹿児島県の一部)・大和(=奈良県)・伊予(=愛媛県)の7ケ国に所在する幕府領全体に「皆石代納制」が採用されており、年貢は全て金納でした。
 租税史料室では、出羽三山の1つである月山の麓にある出羽国村山郡入間村(現在の山形県西川町)の幕府領の名主家の文書を所蔵しています。この中に、享保8年(1723年)から嘉永5年(1852年)までの年貢皆済目録(=年貢の領収証)の写しが1冊にまとめられた帳面があり、これによると当時入間村の幕府領における年貢は金納であったことが分かります。この年貢は、1年間の収穫高を基に出羽国内の山形他4か所の米相場に換算して納められていました。
 ところで、大飢饉があった時、例えば宝暦年間(1751〜1763年)には、入間村では2年分の年貢を20年の年賦で納めており、その他、米から金銭への換算率を下げる「安石代」という処置がとられました。また、入間村とその周辺の村々では、江戸に出府して代官役所に「安石代」を願い出たこともありました。
 安政3年(1856年)1月、入間村他近隣の11ケ村の幕府領は松前藩領となり翌年、東根役所(=松前藩の役所)から村々に、この年の年貢は米を買い求めてそれを納入する「買替米」とするよう触れが出されました。この際、入間村の名主は「買替米納惣代」となって年貢米の買い付けを行い、買替米は安政5年5月に酒田港に納められました。
 なお、安政5年1月9日に名主が東根役所に提出した文書には、安政4年11月から酒田港に出向いて米を調達しようとしたが果たせなかったことや、2月中旬に新庄藩が払米(=年貢米を売り払って換金すること)をする際に、その払米を購入するので、それまで買替米の納入を延期して欲しいとの願いが記されています。
 ところで、入間村の名主は、土生田村の遠藤三七という者に宛てて書状を出しており、この書状では、酒田港のほか新庄の様子について相談している様や、米の値段は日々高騰していて相場が思うままにならないことなどが記されており、米相場を勘案しつつ苦労して年貢米を調達していたことが見て取れます(写真1)。
 なお、遠藤三七という者は、安政5年3月21日付で「買替米精勘定并金子請取帳(=業務報告書のようなもの)」を名主に提出しており、実際に買替米の調達に動いた在郷商人であることが分かります。
 また、酒田において名主は、遠藤三七から紹介された小松長左衛門という商人の屋敷に滞在しており、当時この商人が名主に宛てて出した年賀状には米相場の情報が付されており、これ以後も米相場の情報を名主に伝えていました(写真2)。
 この「買替米」の後、伊達梁川(現在の福島県伊達市梁川町)の車屋吉郎兵衛という人物が名主に宛てて書状を出しています。松前藩は、幕府から入間村他出羽国村山郡3万石とともに、梁川を含む陸奥国伊達郡も領地として宛がわれていました。入間村の名主は、この書状を通して、松前藩領となった村々が松前藩に出した石代願(=前出の「安石代」の請願)に関する情報を収集していました。また、梁川はこれ以前にも松前藩領だった時代があり、この書状では当時との比較についても触れています(写真3)。
 このように、「買替米」のほか、年貢の納入の裏側には、様々な地域、立場の人たちが介在しており、名主家に残された書状からそのネットワークを見ることができます。

(研究調査員 堀亮一)