今回は、明治9年(1876)三重県の奄芸(あんき)郡一身田(いしんでん)村(現在の三重県津市一身田)の沽券地の地図を紹介します。
 この史料は、おそらく地租改正事業の際に作られた図面で、市街地である沽券地を対象としていることに特徴があります。「市街地を対象とした」と説明しましたが、ほかのものと、どのように違うのでしょうか。
 地租改正について説明する前に、まず沽券地について確認しましょう。江戸時代は住む場所、身分などにより土地に関する区分がありました。まず郡村部と市街地とに分けられます。市街地は、その形成により城下町、宿場町、門前町などに分かれていました。基本的に郡村部は、寛永20年(1643)の田畑永代売買禁止令などがあるように、土地の所有売買が許されていないのに年貢(地子)が課税されていましたが、市街地では土地の所有売買は認められ、かつ、年貢(地子)は免除されていました。この市街地で、売買を許されていた土地を沽券地と呼びました。そして、その土地の売買の際に使われたのが沽券状です。ちなみに沽券の「沽」とは、売買の意味です。よく、体裁やメンツにかかわることを指して、「沽券に関わる」といいますが、その語源でもあります。
 さて、明治になり、この格差を是正することが急務となりました。
 まず着手したのが、沽券地に地子を課税することでした。明治5年、沽券地に沽券高(売買高)の1%を沽券税として課税することとなりました。その際に土地の所有者=納税者に発行されたのが、市街地券です。一方、郡村部でも土地の所有者を明確にするため、土地の所有者に対して地券が発行されました。こちらは郡村地券です。この市街地券、郡村地券を合わせて、壬申地券といいます。同じ地券でも発行された当初は、その目的が異なっていたのです。
 翌明治6年、明治政府は地租改正条例その他の法令から構成される地租改正法を出します。これにより、すべての土地の所有者には地券を発行し、記載された地価の3%を地租として課税することとなりました。これ以降、発行されたのが改正地券です。しかし、当初の地租改正法の対象は郡村部のみでした。つまり、明治6年の段階では郡村部が3%、市街地が1%と、税率に差がある上、課税標準である地価も統一されていなかったのです。
 明治8年、郡村部の地租改正事業に一定の目途が立ち、ようやく市街地の地租改正に着手します。まず、市街地の地租率も郡村部と同じ3%に引き上げられ、翌年から地価の算定事業が本格化しました。
 今回の史料は、この市街地の地租改正の際に作られたものです。当時、一身田は村でしたが、真宗高田派の本山である専修寺(せんじゅじ)の門前町でもありました。そのため、一身田村の中に町地が形成され、江戸時代から沽券地があったのです。ピアノの鍵盤状に並んだ町並の一画ごとに地番、地目と面積、所有者の名前が書上げられているのが確認できます。地価を算定する前に、土地の所有者と面積を把握するために作られたのです。特徴的なのは、土地の面積が坪と反の2つの単位であらわされていることです。
 通常、宅地の面積は坪単位で、田畑の面積は反で表します。この史料に出てくる土地のほとんどは宅地ですが、一部に畑も含まれています。田畑と宅地との均衡を図るためにわかりやすいよう両方の単位が書かれたのでしょう。
 地租改正事業での市街地調査に関する史料は当室にあまり所蔵されておらず、かなり貴重なものといえます。地租改正事業とは、江戸時代から続く土地制度の是正の過程でもあります。この史料は市街地での地租改正事業の第一歩を示すものといえるでしょう。

(研究調査員 今村 千文)