1. 赤米(あかまい)とは?

 これらの史料は、吉村下分という村の庄屋の家に伝来した史料と推察されます。同村は佐賀県佐賀市(旧川副町)の筑後川支流早津江(はやつえ)川の河口間際の右岸にあり、湿田が多い水害地帯に属していました。同村を含む周辺地域は、中世以来行われてきた有明海の干拓によってできた土地と考えられています。江戸時代には、佐賀藩の本藩直轄領に属していました。
 筑後川のように、九州地方の大きな河川流域では、赤米と呼ばれる種類の稲を大量に栽培していました。水害や劣悪な環境に強い早稲種で、梅雨の前に背が伸び、台風の前に刈り入れることができました。現代の日本では珍しくなった米粒の細長いインディカ型の米でした。
 最近、地域おこしで「古代米」と呼ばれる赤米(黒米)があります。この米は前述の赤米とは異なり、ジャポニカ型の米です。こちらは、冷水や寒冷な気候に強く、全国の山間部や東日本に広く普及していました。これらの赤米はまったく異なる性質を持つ種類でしたが、食味や生産性が劣っていたので、農法が近代化し、灌漑施設が整った明治時代の途中から「雑草稲」として日本の稲作からは排除されてしまいました。

2. 吉村下分の地位

 吉村下分は、早津江村の枝村(小村)でした。完全に独立した村とはいえませんが、庄屋などの村役人は設置されていたようです。
 早津江川の河口付近の沿岸は、自然の良港を持つ港町として大きく発展していました。特に、旧諸富町の寺井津(てらいつ)から旧川副町の早津江までは三重津(みえつ)と総称され、藩の倉庫や御用船が連なり、大坂に年貢米を回漕する基地になっていました。「津」とは河川にある港の意味です。もちろん、藩の御用荷物だけではなく、商人が扱う商品についても、五島列島や対馬藩の海産物、佐賀藩・福岡藩・薩摩藩の農産物など、藩領内を越えた西九州全体の商品の集散地として栄えました。幕末期には、藩自らもこの地域の倉庫を活用して、「部入仕法(ぶいれしほう)」という直営の倉庫業も行っていました。
 吉村下分の周辺地域を含む周辺地域は、このような土地柄でした。

3. 史料の内容

 史料1は、安政2年(1855)の12月に、山崎源之允が吉村下分庄屋に渡した受取書(「切米(きりまい)受取手形」)です。この赤米3斗は「筈入米」となっています。「筈入米」とは、この年の年貢がまだ確定していない時期のやりとりなので、予定米という意味と思われます。
 次の史料2を見ると、この3斗の赤米を取り巻く諸関係が分かってきます。史料2は、吉村下分庄屋に対して出された、赤米払い出しの指令書です。史料1の前提となる文書です。
 払い出しの指示を与えているのは、牟田口利左衛門という人物です。山崎は佐賀郡の川副上郷に属する木原村に住んでいることが分かります。山崎が受け取る総量は米2.816石となっていますが、赤米3斗の他はどこから受け取るのか、この文書だけでは分かりません。吉村下分は佐賀郡の川副下郷に属しています。郷は佐賀藩が領内を支配するために設定した行政区画なので、山崎の家と吉村下分は別の郷に属していたことになります。赤米3斗は吉村下分のこの年度、安政2年(1855)の年貢米の一部です。庄屋から払い出された赤米は、山崎本人に直接渡されるのではなく、小嶋五郎大夫という者を経由します。また、この赤米3斗は隼人組の「切米」の一部とされています。
 この「切米」とは、幕府や大名が中下級の家臣に与えた年俸のことです。実際に領地を持つ家臣を「知行取(ちぎょうどり)」、年に数回に分けて年俸米を受け取る家臣を「切米取」、毎月一定の割合の米を支給される家臣を「扶持米取(ふちまいどり)」といいます。したがって、山崎は佐賀藩の切米取の下級家臣(武士)ということになります。おそらく足軽で、隼人組という足軽組に所属していたはずです。弘化2年(1845)の記録によると、佐賀藩に属する足軽の総数は2538人で、その7割を超える足軽が村々に居住していました。
 佐賀藩はいわゆる郷士(ごうし)制度を導入していませんでした。藩内には、村々に住み、半分武士で半分百姓という郷士身分の者はいませんでした。しかし、山崎のように郷士ではなく本物の武士である中下級の家臣を村々に住まわせていたのです。家臣は城下町に集めるのが一般的な形でしたが、九州地方や東北地方の諸藩では家臣を村々に住まわせる例が多く見られるのです。

4. 年貢米と切米支給

 家臣たちがどこに住んでいるのか、その居住形態により、年俸などの支払い方に違いが出てきます。
 幕府では浅草御蔵(浅草御米蔵)が切米支給の機能を果たしました。該当する家臣は「切米受取手形」を書替奉行(切米手形改役)に持参して署名捺印を受けて、切米支給を受けました。蔵には勘定奉行所配下の蔵奉行がおり、実際の管理・支給を行いました。全国各地に幕府領の年貢米を納める蔵が設置されましたが、最後は浅草御蔵に運ばれるのです。つまり、幕府の場合には、中央の蔵に機能が集中していました。
 諸藩では、城下町に中央の蔵が置かれ、領内各地に郷蔵(ごうぐら)と呼ばれる蔵が設置されます。家臣の切米は、城下町に集住している場合は城下町の蔵を中心に、郷蔵からも補足的に支給されるのです。必要な年貢米を引いた残りは、輸送に便利な蔵に集められ、巨大市場の江戸や大坂に回漕します。
 佐賀藩でも各地の郷というまとまりごとに郷蔵が置かれました。吉村下分が属した川副下郷にも郷蔵はありました。佐賀藩では多数の中下級の家臣が村々に居住しているために、城下町の蔵や郷蔵だけでは足りなかったのでしょう。特定の村役人が年貢として集めた米から切米を支給しているのです。庄屋の蔵が切米支給の機能を果たしているのです。
 史料1の「切米受取手形」に、村の庄屋が登場するのは一般的ではありません。佐賀藩のように領内に散在する形に対応し、庄屋の蔵で年貢米が切米にどんどん振り替えられていることの現われなのです。

(研究調査員 舟橋 明宏)


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