○ 公金貸付とは
 幕府による公金貸付は江戸時代の初めから行われていましたが、領主たちの財政危機が深刻化する18世紀の末から19世紀の初めにかけて急速に拡大します。貸付の対象は、村や町の庶民はもちろん、大名・旗本などの領主にも及びます。文化14年(1817)の調査によると、大名207家に金114万両余り、旗本2210家に金106万両余りを貸し出しています。18世紀末の旗本の総人数は、約5200人です。そのうち「地方知行取(じかたちぎょうどり)」と呼ばれる実際に村を支配している旗本が約2260人です。かなりの割合で旗本が公金貸付を利用していることが分かります。
 幕末期にはほとんどの旗本財政は逼迫していました。このような幕府の公金貸付に頼ることも多かったのです。借り入れはもちろん無担保ではありません。旗本の領地の今後の貢租(こうそ)収入を抵当にしたのです。したがって旗本の領地の村々が、年貢の何割かを公金貸付の返済として幕府に払っていくのです。返済が長期間にわたり領民たちは苦しめられることも珍しくありませんでした。また、村役人にとって、ただでさえ通常の年貢の計算でも大変だったのに、公金貸付が加わることで会計事務はより複雑になります。そのために、領民同士、領主と村の間でさまざまなトラブルを生むことになりました。

○ 史料の解説
 写真は、旗本斎藤覚右衛門(かくえもん)の家臣武田伴右衛門(ともえもん)が作成した使途不明金に関する願書です。その根拠として年貢収納と貸付金の調書が付いています。提出先は、「筒井伊賀守(いがのかみ)様御役宅御掛り中田与一右衛門(よいちえもん)」です。筒井は、19世紀前半に名奉行として有名な江戸町奉行筒井政憲のことで、その部下に提出しています。当時の江戸町奉行所は、時代劇で見るような警察署・裁判所であると同時に、(江戸町内に限らない)公金貸付の窓口でもありました。
 具体的に、文政6年(1823)の部分を見てみましょう。
 まずは、上総国長柄郡(千葉県いすみ市)和泉村が納めなければならない年貢諸掛の計算です。この年は凶作のために作柄が半分なので年貢も半減したようです。取米(領主の取分)は丸1米10.74石(=金8両2分2朱+鐚(びた)525文)です。ここでいう鐚は、鉄の一文銭のことです。この他に夏成(なつなり)・小物成(こものなり)が丸2金2両2分+鐚725文です。夏成は収穫前(夏)に納める先納金で年貢(銭納)の一部です。小物成は山野河海の収穫物などにかかる租税です。丸1丸2の合計が丸3金11両1分2朱+374文となります。合計の丸3が納めるべき総額(表1のA)です。
 次に、貸付金の返済です。領主が抵当に入れたので、村の年貢の何割かが返済に充てられます。村が年賦の形で毎年定額の金銭を幕府の担当役所に直接金銭で返済するのです。そして年貢と年賦金を相殺し、「残高」を自分の領主(和泉村の場合は旗本斎藤氏)に年貢として納入します。年賦返済と「残高」の納入の両方で、「年貢皆済」(すべての納付完了)となります。
 実際の年貢・返済金の決算を見てみると、文政6年(1823)には金2両3分等の「残高」が生じています。これは旗本の領主役所に納入しなければなりません。

表1 文政6年(1823)和泉村の年貢関係の概算表
  費目 金高 銭高 備考
A 年貢関係の請求額合計 金11両1分2朱 鐚374文  
B 貸付金の返済額 金8両2分2朱    
C ABの相殺「残高」 金2両3分 鐚374文 「残高」

 では実際の返済金の方はどうだったのでしょうか。旗本斎藤氏の年間の返済額は金28両です。和泉村が金8両余り、上総国望陀(もうだ)郡(千葉県袖ヶ浦市)野里村が金19両余りを分担していたようです。しかし、この年はHにあるようにお金を出し過ぎたようで、「過金(かきん)」が生じています。

表2 文政6年(1823)和泉村・野里村の貸付金返済の概算表
  費目 金高 銀高 備考
D 同年の返済総額(請求額) 金28両    
E 和泉村返済予定額 金8両0分2朱    
F 野里村返済予定額 金19両2分 銀6匁  
G EFの合計 金27両2分2朱 銀6匁  
H D−(B+F) 金2朱 銀6匁 「過金」

 旗本斎藤氏家来の武田によると、この「残高」Cと「過金」Hが行方不明になっているというのです。そして、史料の最後尾では、このような行方不明の資金が、6年間で金57両余りもあると主張しています。旗本斎藤氏の家来武田は、「請取書などの証拠書類をそれぞれ明らかにして旗本領主役所に提出するように」と捜査と調査を江戸町奉行所に願い出ているのです。
 江戸時代は、村単位に年貢が賦課されて、村が年貢納入の責任を負い、実際の事務も担当する年貢村請制でした。名主を中心とした村役人が計算をし、村人から集めて納入しました。このような仕組みになっていたので、江戸時代には年貢の計算をめぐる村方騒動(村役人と村人の争い)が頻発しました。
 和泉村の使途不明金の場合、その真相は分かりません。しかし、責任者の名主に同情すべき点もあります。貸付金の返済は金銭なので年貢米を換金しなければなりませんでした。個別の村が地方の市場で換金することは不利な条件に立たされます。また、普段から複雑な年貢諸掛の計算・割付・収納の業務が、換金の工程が加わることによって、さらなる負担となったはずです。

表3 幕末期の和泉村の領主たち
領主 石高(石)
旗本吉良氏 121.6981
幕府領 33.5655
旗本竹田氏 219.5989
旗本小田切氏 144.5010
旗本小長谷氏 105.3710
旗本加藤氏 100.0000
旗本斎藤氏 100.0000
旗本森氏 69.8560
旗本川井氏 55.6570
旗本多田氏 60.0000
旗本多田氏 40.0000
【合計】 1049石余

 また、現在の千葉県や神奈川県には旗本の領地が多く配置されていました。その特徴は「相給(あいきゅう)村落」と呼ばれるもので、複数の領主でひとつの村を支配するという形でした。和泉村も例外ではなく、幕末期には10〜11の領主がいました(野里村は4人の領主)。領主ごとに土地も人も分割されていて、それぞれに村役人が置かれていました。しかし、実際の耕作状況と支配関係は入り組んで交錯していました。例えば、旗本(甲)の支配下の村人が旗本(甲)の他に(乙)と(丙)の土地を耕作していて、(甲)(乙)(丙)の村役人にそれぞれ別個に年貢を納めるということは、いくらでもあることです。しかも、斎藤氏以外の旗本も幕府の公金貸付を利用していると考えるのが自然でしょう。ひとつの村の中で、別口の年貢や年賦金返済ルートが複数あり、それが錯綜しているのです。負担自体の重さはもちろんですが、事務処理を担当する村役人はかなり苦労したことは容易に想像できると思います。
 写真を一見すると、数字がたくさん出てくる細かな記載が多いのですが、旗本領が多く相給村落が基本的な姿であるという千葉県の地域的特色が窺える史料なのです。

(研究調査員 舟橋 明宏)