明治元年(1868)2月、成立したばかりの明治政府は貢士(こうし)制度(政府が諸藩に命じて代議員を差し出させる制度)を定めました。公議輿論に基づく政権運営を掲げた明治政府は、諸藩から推挙される貢士に諸政策を諮問することとしたのです。これは、才能や学識ある人物を地方から中央政府に推薦した中国の貢士制度にならったもののようで、とくに優秀な貢士は徴士(ちょうし)として政府出仕を命じられました。五箇条のご誓文にある、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」との趣旨は、こうした公議輿論を重視する政府の姿勢を表明したものです。
 貢士制度は、二院制の下院に相当する機関で、明治元年(1868)5月に貢士対策所が開設され、毎月5の日が対策定日(たいさくていじつ)とされました。租税、駅逓(えきてい)、貨幣、度量衡(どりょうこう(計量手段・方法))、外国との条約など政府から諮問された重要案件についての建策(答申)が命じられたのです。しかし、明治政府発足時の議事機関である貢士制度は充分な機能を果たさず、名目だけに終わったとされています。
 ここで紹介するのは、分部若狭守(わけべわかさのかみ)貢士八田良介の「租税之章程対策(そぜいのしょうていたいさく)」(史料)です。分部若狭守は大溝藩2万1千石の小大名で、城郭ではなく陣屋を近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)に構えていました。政府が下問した租税之章程に対する、この大溝藩の対策(答申)は、貢士からの建策内容が判明するたいへん貴重で珍しい史料です。
 大溝藩の答申は、6月25日付の「租税之章程対策」と題するものですが、文章は冗長で具体的な内容には乏しいものです。一言でまとめれば、戊辰戦争が関東から奥羽越に拡大する状況なので、鎮定までは従来のまま節倹(節約)をして歳出を抑えるという内容となっています。そして、会計官に「聚斂ほう克」(しゅうれんほうこく(重税を課し厳しく取り立てること))を禁じ、民が飢えることのない政策を立案できる人選をすることが重要と記しています。
 租税之章程対策の提出日は、最初の貢士対策定日が6月5日でしたので、大溝藩の答申は20日も遅れたことになります。もっとも初回の対策定日は無断欠席が多かったようで、以後は必ず定日に忌憚のない対策を建言するよう各藩に申し渡しがなされています。おそらく大溝藩も欠席し、後から答申を提出したと想定できます。
 貢士対策所は、制度改正により明治2年(1869)に公議所となります。ここでの租税改革の議論を見ると、農民の負担を軽減して商人に課税するという論調が多いものの、やはり具体性には乏しいと言わざるを得ず、これらの建議が議案として採用されることはありませんでした。
 それでも、後の地租改正法の原型となる田畑売買解禁や沽券(こけん)値段への定率課税などの新提案も出されており、また、租税の新設や増減などには公議所の議決を必要とすることなど、租税法律主義の考え方も提起されています。これらの西洋の制度を踏まえた近代的改革案を実際に提出したのは、いずれも後に明六社(めいろくしゃ(明治初期の開明的知識人の結社))に結集する、森有礼(もりありのり(後の文部大臣))、加藤弘之(同、東京帝国大学総長)、神田孝平(同、元老院議官)などの政府官員たちであり、諸藩の優秀な人材は政府出仕となっていたことが分かります。
 貢士対策所や公議所についての議事機関としての評価は低いのですが、時代をリードする啓蒙思想家たちの新知識を、各藩の公議人へ啓蒙する場とはなり得たようです。ちなみに実際の租税改革は、民部省(後に大蔵省に併合)に結集した渋沢栄一などの旧幕臣グループにより立案され、神田たちの議論も取り入れながら、明治6年の地租改正法制定へと繋がって行くことになるのです。

(研究調査員 牛米 努)