○ お酒の醸造
 お酒は米と水と麹で造りますが、銘酒という高級な酒を造るには、原料を精緻に吟味し、仕込みの各段階にも細やかな観察眼が必要で、造り手である杜氏(とうじ)には高い醸造力が求められます。
 杜氏による酒の仕込みは毎年秋に始まり、極寒の時期に本格化します。酒造りには大敵な雑菌に対処するため、寒い時期に大量に仕込む仕込み方を寒造りといい、江戸時代後期に灘で確立、その後、全国に普及した酒造法です。
 寒造りでは春の火入れを終えると、一部を新酒として販売します。
 さらにこの新酒を熟成させるために仕込んだ桶をむしろで囲い、腐敗や変味などを防いで暑い夏を乗り切らなければなりません。これが夏囲いで、夏を凌ぎ切れば熟成がすすみ、秋には色・香り・風味ともに申し分のない高級な銘酒ができ上がります。

○ 酒印(さかじるし)の利用
 江戸時代、お酒の生産地は灘(神戸市)が有名でした。一方で、最も大きな消費地は100万人もの人口を抱える江戸であり、樽廻船(たるかいせん)という専用の船で灘から江戸に運ばれていました。そして、その酒を「下り酒」(くだりざけ)と総称していました。
 当時の酒造家は、酒樽あるいは酒樽を包む菰(こも)巻きに自家の商品名の印を焼印しました。これが酒印(さかじるし)で、自醸の銘酒を天下に明示するシンボルマークです。酒印の起源は不明ですが、明和2年(1765)には、すでに関西の酒造家が多様な酒印を用いていたことが確認できます。
 この酒印は、明治17年(1884)に商標条例が施行されると、酒造家の多くは自家の酒印を登録し、商標としたのです。

○ 小印(こじるし)のはじまり
 江戸にあって下り酒を一手に取り扱うのが日本橋の新川(現在の中央区新川)に多い下り酒問屋でした。下り酒問屋は、灘の酒造家などから委託を受けて江戸市中へ下り酒を販売します。明治時代に入り、下り酒問屋が東京酒問屋と改まった後も、大正12年(1923)の関東大震災のころまでは、こうした委託販売が下り酒取引の主流となっていました。
 下り酒問屋仲間では仲間同士で、下り酒を評価し、「飛切・最上・極上・上・中・次」などと等級付けして、等級に応じた酒価を定め、販売を促進する手立てとしました。この等級が「小印」(こじるし)で、その起源は定かにできないですが、酒印(本印)の傍らに押すことから小印とよばれ、文化文政期(1804〜29)にはすでに「極上・次・下」などの呼称が確認できます。
 一方で、灘の酒造家は、次の新しい酒の仕込みが本格化する前の11月ごろから翌年の2月3月ごろまでに、歳末用、正月用の高級な酒として、江戸に出荷し、売り切らなければなりません。なぜなら、この売り切り時期を過ぎると古酒はおのずと変味や混濁などの劣化が進むからです。
 そのため、灘では銘酒造りを得意とする酒造家が多数いましたが、銘酒であることを強調するため、下り酒問屋仲間の考案にかかる「小印」などを参考にして、「飛切極上」など、高級ぶりを明示する独自の小印を各種考案し、酒樽などの酒印の傍らに印しました。

○ 昭和初期以降の小印(史料1)
 大正12年(1923)の関東大震災では新川の東京酒問屋も大打撃を受け、さらに昭和2年(1927)の金融恐慌、昭和5年からの昭和恐慌などにより、廃業者が続出しました。そのため、下り酒の委託販売方式は後退し、東京市場では灘の酒造家による仲買商や小売商に対する直売りが本格的になります。この時期、自醸酒の高級感を宣伝するため、小印の数が急増しています。
 昭和13年の松戸税務署管内の酒類販売価格表は史料2のとおりですが、昭和14年、灘の酒造家が東京市場で用いた「小印」を整理すると、優劣はよくわかりませんが、次のように多数となります。
飛切 特飛切 最飛切 代表飛切 飛切極上
撰 特撰 特上 特等 極上 優等
黒松 黒松鶴 金松 金稲 金紋 龍紋 銀鱗 鳳凰
丸辰 朱稀 記念紋 国の光 菊巻 キ褒紋 色紙
別吟 別吟造 吟醸 大吟醸 特吟 
 そして、昭和15年になると酒税法が施行され、酒類の公定価格を酒質に応じて全国統一的に実施することとなり、アルコール分、原エキス分などの成分規格を導入して、特等・上等・中等・並等などに区分、最高級の酒は特等としました。さらに昭和18年から始まる酒類の級別課税制度では、酒は第1級から第4級に等級付けし、最高級品は第1級としました。こうして酒質は法令により級別で表示することになったのです。
 現在は、お酒の格付制度は無くなりましたが、「吟醸酒」、「純米酒」、「本醸造酒」といった酒の製法により表示できる名称とメーカー独自の格付けである「特選」、「上選」などが表示されていることがあります。

(研究調査員 鈴木芳行)