納税イロハ双六

  かつて、酒税が日本を支えた時代があった。明治32年(1899)に酒税は、国税の税収第1位になり、その後昭和10年代まで国税の中心に位置していたのである。酒税が国税の中心だった時代には、酒税及び酒造に関する様々な制度・社会的な変化が見られた。酒造関係者や税務当局は、その都度、情報発信を通じて健全な酒類業の発展に努めていた。
 明治29年に開催された全国酒造組合連合会大会の報告書である「第6回全国酒造組合連合会報告」では、酒造組合連合会理事より「朝鮮北支那及台湾ニ於ケル日本酒試売報告」を行った旨を伝えている。明治初年以来、酒造業者は地方に乱立したが、銘醸地にふさわしい酒質の向上と酒税の増徴に対する生産及び合理化が図られる中、零細な酒造業者は酒造経営から消えていった。こうした中、日本のアジア進出を起因として、海外へ販売市場を拡張する動きも見られるようになっていたころである。こうした背景をふまえて行われた大会の結果を酒造業者に発信していたのである。
 一方、明治時代以降、酒造技術には科学的な手法が導入されたが、税務当局による酒造業者に対する情報発信もあった。大正4年(1915)5月の「清酒の火入及貯蔵に関する注意要項」は、東京税務監督局より発せられた注意書で、例えば火入(清酒などの腐敗を防ぐために熱を加えること)の時、鉄釜の中に防腐剤として用いるサリチール酸が混ざると清酒に色が付いてしまう、としている。こうした注意書は、税務監督局の他、県でも作られている。
 この他、「密造に関する注意」は、密造酒防止のため柏崎税務署が発行した「壁新聞」状のもので、漢字の文章の横に一般の者にも分かり易いようルビで説明が付されており、酒税は税収1億円以上に上る国家の重要な財源であること、密造は犯罪であること、密造酒は非衛生的であることのほか、税務署は密造を知らせた人に謝金を出したり、廉価で酒が買えるよう酒造家に交渉をすることなどが書かれている。
 ところで、酒税の担い手であった酒造業者は、平穏に営業を続けていたわけではなかった。例えば、『酒造組合中央会沿革史』第2編に所収されている「関東大震災における酒造業者の被害場数(表)」によると、関東大震災による被害は、東京・神奈川・千葉・山梨・埼玉・静岡で被害場数269、酒類の損害は16,000余石に達している。酒造業者は、こうした自然災害に直面することもあった。こうした時代に、酒税は国税を支え続け、その一方で情報発信が酒税の確保と同時に酒造技術の向上を図るために活発に行われていたのである。
 現在、税務情報センター(租税史料室)では、「酒税が国を支えた時代」と題した特別展示を行っている。今回の特別展示では、主に酒税が国税の中心だった明治時代後期から昭和10年代までの酒税と酒造を取り上げ、当時の酒税の変遷、税務行政や酒造業者の様子、酒造に関連した技術の変遷について、今回取り上げた史料の他、様々な史料や写真、グラフ・図を用いて紹介している。是非一度来館し、本物の史料をご覧いただきたい(展示は平成23年9月まで)。

(研究調査員 堀 亮一)