江戸時代には、酒造業者の人数は徳川幕府によって制限されており、明治4年(1871)に自由化されたことをご存じだろうか?また、酒税は、現在では移出高に課税されるが、明治時代には酒造高に対して課税が行われていた。さらに、酒税を多く納めている県ベスト5は、平成12年(2000)時には兵庫・茨城・愛知・福岡・神奈川(収納済額)だが、明治11年は兵庫・大阪・愛知・愛媛・石川だった。この結果は、一概に比較出来るものではないが、明治11年の場合は江戸時代からの主な生産地の流れを引く所が多いのであろう。
 このように、明治時代の酒及び酒税をめぐる様相は現代とは大きく異なるが、これは酒税の担当部署や酒造組合においても同様であった。酒造組合中央会が昭和17年(1942)に編纂した『酒造組合中央会沿革史』第1編(ここでは、日本酒造組合中央会による昭和47年10月の復刻版を使用、以下『沿革史』)によると、灘五郷の酒税の担当部署は、明治17年に租税局出張所から府県の収税課に変わった際に国から府県に移っている。この後、明治29年に税務管理局ができ、税務署が誕生すると再び国が酒税行政を担当している。
 今回取り上げる写真は、この『沿革史』第1編の口絵で、大正3年(1914)5月に行われた第7回全国酒造家大会の記念写真である。明治37年(1904)に醸造試験所が、酒類醸造の試験と講習に関する事務を行う大蔵省の施設として設立された。この大会では、醸造試験所が緊縮財政によって廃止されそうになったため反対運動を行い、その存続が決まった旨が報告されている。醸造試験所は、現在、東広島市において独立行政法人酒類総合研究所として存続しているが、その背景にはこうした歴史の1コマがあったのである。
 ところで、明治32年に酒造業者によって作られた酒造組合は、酒造組合規則によって官制的な組合となり、明治38年の酒造組合法によって法的に酒造組合連合会を設置することになった。しかし、こうした動きとは別に酒造業者の間では、団体を結成し全国化に向かう動きを見せていた。明治22年12月5日・6日、関西酒造家大会(京都府・大阪府・22県が参加)が大阪中之島洗心館で開会され、第2回大会では自家用料酒免許税を金3円に、減税、濁酒醸造の禁止、納期を4回とするなどを決定議案としている(ただし、灘五郷・堺組合は不参加)。これに対して、東日本酒造家連合会(東京府・19県)は、発起者中に酒造家でありかつ政治家が多いのが特徴で、明治23年、24年に減税その他を帝国議会に陳情請願を行っている。これらが全国酒造組合連合会となり、明治24年2月に第1回東京発起大会が行われ、第2回名古屋大会では現行の酒税率の軽減、自家用料酒の取締り、及びこれらの達成のための条項の決議が行われた。全国酒造組合連合会は、この後明治36年から休会時代に入り、明治41年から全国酒造家大会となった。これは、明治37年に醸造試験所初代事務官の上林敬次郎を名誉理事に起用し、大阪から主産地の有力者に対して連衡の勧説を努めた結果によるものであった。酒造家大会は、大正4年から全国酒造組合連合会となり、昭和4年から酒造組合中央会となっている(『沿革史』第1編)。
 現在、税務情報センター(租税史料室)では、「明治時代の酒税」と題した特別展示を行っている。今回の特別展示では、主に明治時代の酒税を取り上げ、明治時代の酒税の変遷、官・民、及び官民共同による酒造及び酒税に対する取り組みについて、この写真の他様々な史料や写真、グラフ・図を用いて紹介している。是非一度来館し、本物の史料に触れていただきたい(展示は平成22年9月まで)。

(研究調査員 堀 亮一)