「温泉と税」―江戸時代の大安寺温泉―

 秋は行楽シーズンであり、温泉に行かれる方も多いのではないだろうか。そこで、今回は温泉と税との関わりを示す史料を紹介したい。現在、温泉に関する税としてまず思いつくのは入湯税であろう。入湯税とは、温泉等の鉱泉浴場の利用者に対して、その浴場所在地である市町村が課税するもので、地方税のうち市町村税に含まれる。利用のたびに徴収するのではなく、利用した日数につき一定額を徴収するのが特徴で、温泉旅館などでは宿泊代と共に請求されることも多い。私たちにとって身近な税の一つと言えるだろう。
 さて、今回は租税史料室で所蔵する古文書によって、江戸時代における温泉と税との関わりを見てみよう。舞台となるのは、現在、福井県福井市にある大安寺温泉である。福井市街の北西約6キロメートルの位置にあり、神経痛・慢性関節リュウマチなどに効能があるといわれる。名前にある大安寺とは近くにある寺院であり、当地を治めていた福井藩の4代藩主松平光通によって万治2年(1659)に創建された。
 では、早速写真の史料を見ていこう。冒頭に「隆芳院様御代」とある。隆芳院とは、福井藩3代藩主である松平忠昌の戒名であり、その在職期は寛永元年(1624)4月から正保2年(1645)8月である。史料の続きによれば、この3代藩主忠昌の治世期に「天菅生村之湯御普請」が仰せ付けられたという。天菅生(あますごう)村は現在の福井市域にあった村で、幕末には戸数18軒・人口86人を数えた。本史料は、この村で17世紀前半に、福井藩による温泉の開発が行われたことを示しているのである。
 史料の続きを読むと、この開発の際、天菅生村の石高158石余のうち19石余が、年貢等を免除されたことが分かる。これは、温泉用地などとして使用するために課税地から除外した処置であったが、結果的に「湯成就無之(これなく)」、つまり温泉の開発は失敗に終わった。そのため、課税免除となっていた高19石余のうち10石余は本高に戻され、残りの高8石余は「湯守」に与えられることとなった。湯守とは、藩などからの任命を受けて温泉を運営し、入湯客から徴収した代金の一部を運上金として上納する存在とされている。福井藩では、天菅生村の温泉運営を湯守に委任する代わりに、湯守分である8石分の土地の課税を免除していたのである。このことは、今回開発が失敗に終わった温泉以外にも、天菅生村内にすでに温泉があったことを窺わせる。大安寺温泉がいつ頃から存在したのかは分からないが、このとき湯守が管理していた温泉が現在の大安寺温泉につながると考えられる。
 史料の後半部分を見ていこう。以上の経緯により、17世紀前半に湯守分8石の課税免除が認められたことを受け、ここではその確認が行われている。本史料が作成された享保9年(1724)は免除が認められてから100年程度が経過しており、その年4月には9代藩主宗昌が死去している。本史料は、藩主の代替りの機会に改めて土地を確定し、年貢諸役の永久免除を再度確認したものであろう。恐らく、差出人の松尾源五左衛門は福井藩士、宛所の小木鍋次郎は湯守であると思われる。
 以上のように、江戸時代の大安寺温泉では、福井藩が温泉の管理・運営を湯守に委任し、その代わりに湯守分の土地の課税を免除していた。現代とは異なる形で、温泉と税には関わりがあったのである。

(研究調査員 宮坂 新)