新案 戦後増税の財源

『新案 戦後増税の財源』
(明治39年、法令館)
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 韓国および満州の支配をめぐって明治37年(1904)2月に始まった日露戦争は、翌年9月に講和条約が結ばれるまで約1年半におよぶものであった。この戦争は高度化した兵器によって戦われたことなどから20億円あまりの戦費を要し、日清戦争(明治27年から翌年まで)のそれが2億円あまりだったのと比べると約10倍であった。
 戦争の財源は、戦中に二度の非常特別税法が施行された(地租・所得税・営業税などの税率を上げ、相続税や通行税を新設するなど)が全体の10%ほどにすぎず、主に国内外の公債に頼っていた。
 戦況はよく知られているように、明治38年1月、日本軍が遼東半島の旅順を占領し、さらに奉天を占領したが、兵力・弾薬を消耗し尽くした日本軍は講和工作を始める。そして5月、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本艦隊に敗北すると、アメリカのルーズヴェルト大統領が講和に乗り出し、9月日本・ロシアの間で講和条約が調印される。大勝利の報道だけを聞かされ、重税や国債の負担に耐えてきた国民は講和条約において賠償金を放棄したことに怒りの声を上げ、東京日比谷の講和反対国民大会が暴動化したことは有名である。
 以上のような背景を念頭に入れつつ、明治39年1月に発行された『新案 戦後増税の財源』を紹介したい。
 この史料は「血達磨憤慨生」が著したものである。実名でないことはすぐにわかるだろう。著者は判明しないが、日露戦争後の増税に怒りが冷めやらない者であったことがその名前と史料の内容からうかがえる。
 史料の冒頭には「惟(ひと)り泣寝入とならざるは国民の負担なり」として、日露戦争後も戦争中の国債の利子・戦後の軍備拡張・戦死者の遺族扶助料や戦功者の年金などで負担が続いていることを述べる。そして「我国民は其義務として六億位の国費を年々政府に納めざるべからず。之(これ)実に容易の業に非ず…」として、国民が増えた分も納めたいが困難であることを述べる。しかし、一生懸命思案すると「実に無類飛切上等(むるいとびきりじょうとう)舶来の名案を絞り出すを得たり」ということで、その名案を刊行することとした経緯が記されている。
 著者が記した案は31種類に及ぶ。その中からいくつか紹介すると、マッチの専売がある。マッチは「人民の是非とも必要とする所」なので、政府がマッチを製造して全国4800万人の家に1個5厘で売れば163万7千円の利益を生むと計算し、「之豈(これあに)一寸(ちょっと)した財源に非ずや」と評価している。他には、明治の文明開化の世で「矢鱈苦鱈(やたらくたら)に名誉と云うことが欲しくなり、イヤ何処(どこ)そこの園遊会でござれ宴会でござれ顔を出さねば気が済まぬ様になって」いる人間がいる。そのような「出来合(できあい)紳士」から紳士登録税をとることを提案する。方法は上中下の三等(上等は1ヶ月30円位、中等は15円、下等は5円)を設けて、代議士・府県会議員・市町郡村会議員や所得税調査委員・商業会議所議員・同業組合重役などから税金を徴収すると、全国50万人の紳士から1年で500万円の収入があるだろうと推測している。
 また、男子が妻や情婦の惚気(のろけ)話をしようとするなら、1ヶ月1円の税金を政府に納め、あらかじめ鑑札をもらっておくという惚け税や、喧嘩場を設けて警部巡査に見張られた中で喧嘩をするという喧嘩税(1分間1銭として官吏が計算、入場料も徴収)、婦人の好物である芋や南瓜に税金を課す芋南瓜専売や、体裁を繕うだけの髯に税金を課す髯税、猫や鳥を飼って気楽に遊ぶものに対して禽獣税を課すなどの多くの「名案」を載せ、総額2億7328万7千円の増税を見込んでいる。
 これらの提案は、いずれも実際に運用するとなると現実離れしたものばかりであり、財源を提案する書物というよりも日露戦争後の公債・利子の支払いや軍備拡張のための増税に苦しむ人びとの立場から政府に意見するものとして出版した著作といえるだろう。

(研究調査員 片桐廣美)