郵便税之心得
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 今回紹介するのは明治13年(1880)に駅逓局が作成した「郵便税之心得」である。郵便料金割引制度に関する事件に注目が集まっているが、この郵便料金、郵便税と言われていた時期があったのである。
 同じ種類で一定重量以内の郵便物なら全国どこでも均一の料金とする近代郵便制度が日本で始まるのは、「郵便の父」前島密の立案により、明治4年に東京-京都-大阪間で新式郵便が開かれた時まで遡る。しかし、このときはまだ郵便料金はただ「賃銭」と呼ばれ、旧来の飛脚なども参入しており、全国均一の料金ということは実現されていなかった。そこで明治6年に郵便規則が改正され、信書の重量を基準に遠近を問わず全国統一の逓送料金とすること、同時に郵便事業は政府の専掌とされた。この改正の際に、西洋にならって郵便税という名称が採用されたのである。もしかすると、業者が思い思いに料金を設定していた「賃銭」に対抗して、「税」という語句を使うことによって全国一律料金という性格を際立たせたかったのかもしれない。
 なおこの史料の作成者である駅逓局は、明治元年に設置された駅逓司から始まる。明治4年には駅逓寮となり、10年から駅逓局となった。所管は民部省、大蔵省、内務省など転々としていたが、18年に逓信省の所管となり、20年には駅逓局が廃止され、逓信省の中の内信局、外信局、為替貯金局などに変わっていた。
 さて、史料の内容を見てみよう。この史料は、封書の郵便税額や切手の貼り方等を図入りで説明したものであるが、葉書は対象となっていない。当時の封書の郵便料金(郵便税)は、一般的な書状では目方2匁(1匁=3.75グラム)までのものは2銭切手を貼付することと書かれている。ただしこれは、届け先に郵便局がある地域についてであり、郵便局がない地域については、「市外配達」として1銭「増税」するとも書かれている。逆に同一市内の場合は、郵便税は半額とされた。重要な書類については「書留」と朱書きして、書留手数料6銭の上乗せ(郵便局が無い地域はさらに1銭の増額)、至急の書状の場合は「別配達」と朱書きして別配達料金(地方によって異なる)の上乗せ、郵便局が無い地域の場合は「別仕立」として、1里につき10銭加算するとされた。これら、それぞれの場合の金額や貼付法を記したものである。
 つまり全国一律料金の制度を謳っていても、まだ郵便局の設置など不十分であり、料金は市外配達と市内配達の差額が存在していたのである。
 この差額が解消されるのは明治16年の郵便条例からである。郵便局の有無による増額が廃止されたが、「郵便税」という名称は残ったままとなった。この郵便税という名称には、当時郵便局を管轄していた逓信省も違和感を覚えていたらしく、23年に逓信大臣が郵便税の名称を郵便料へと改称する法律案を作成、閣議提出していた。理由は、郵便料金は一般的な租税とは性格を異にしていること、また、電報については電報料と呼称されており、それとの整合性を持たせるためであった。しかし、この提案は、西欧でも郵便税という呼称が使われていること、その性格が純然たる租税なのか手数料なのか学説も国内外で諸説分かれていること、また、同様のものとして鳥獣猟免許税などもあり、それらとの整合性を持たせる必要があるが、明治憲法が発布され帝国議会が開かれるようになった現在、法律を改正するには議会の協賛を経なければならず、名称変更だけの法律改正ならば急を要さないと判断され却下された。おりしも第一回帝国議会の開催が目前に迫り、自由党や改進党などの民党が多数を占める衆議院と藩閥政府とが厳しく対立することが予想されていたのである。結局、郵便料と改称されるのは明治33年の郵便法公布まで待たねばならなかった。

(研究調査委員 今村千文)