商品券税はあるの?

所得調査委員・補欠員の当選礼状
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 申告納税制度が導入される以前、個人の所得金額を決定する際の諮問機関として所得調査委員会が設置されていた。調査委員は納税者の代表として、選挙で選出された。
 調査委員会は明治20年(1887)の導入当初から、制度を変えながら昭和22年(1947)の申告納税制度導入により廃止されるまで存続した。しかし長期間継続した調査委員会の全体像については、意外にわかっていないのが実状である。ここでは大正以降の調査委員会制度を前提に、その一端を考えてみたい。
 掲載した史料は、昭和5年の、埼玉県秩父税務署管内の所得調査委員と補欠員連名の当選御礼である。この礼状は当選者の連名であるが、史料としては珍しいものではない。しかし、何故個人名ではなく連名なのか、疑問を感じるのも事実である。
 所得調査委員選挙は、市会議員、府県会議員、衆議院議員選挙の「前哨戦」とする見方がある。調査委員会は税務署ごと、市部と郡部にそれぞれ設置された。市や郡が選挙区であったため、町村会議員選挙と府県会議員選挙の中間に位置するとみられたようである。選挙資格を得るには申告書の提出が必要で、選挙の年には申告数が増加する。納税者の関心は高かったが、他の選挙と違い政治色は薄かったようである。
 調査委員の選挙関係史料をみると、定員や有権者数を勘案して、事前に候補者の調整が図られる例が少なくない。同じ年の岩手県水沢税務署管内の選挙では、事前に「予選協議会」が開催されている。予選会は以前からあり、郡単位での調整が図られている。
 このような調査委員選挙のありようは、記名・連記制から無記名・単記制へと選挙方法が変化する過程で、それぞれ地域の事情を背景に成立したと考えられる。また、立候補制ではないため、地域の納税者の代表にふさわしい人物を選出するためには、逆に調整が必要となったようである。
 あらためて史料を見てみよう。この礼状は、秩父署管内の調査委員・補欠員の当選者全員が連名したものである。投票結果をみても町村単位で票割がなされたことがわかり、候補者の事前調整を窺うことができる。こうして選出された委員は、代表に相応しい見識を持った地元の名士であり、地域の代表であることを意識して調査委員会に臨むことが期待されたのである。当選者の中には、当時、埼玉県の金満家番付で第2位の大地主の名前も見える。
 調査委員は地元の名士というイメージであるが、昭和9年の委員の職業調査がある。この全国調査によれば、酒・醤油醸造業を筆頭に、会社・銀行重役、農業・地主、呉服太物商、米穀商や医師・薬剤師などが上位にランクされる。府県会議員や町村長、弁護士などもいる。それだけではない。大正期の神奈川県横浜税務署管内ではイギリス人貿易商マーシャル・マーチンが委員に当選しているのである。調査委員は、納税者であれば女性や外国人にも選挙権・被選挙権が認められている。残念ながら女性の調査委員は存在せず、外国人も彼が唯一の委員である。彼に投票したのは在留外国人ではなく、市内の吏員や教員であった。国際都市横浜には1名くらい「国際サラリーマン代表調査委員」が必要と、その理由が記されている。
 調査委員の選出には、地域の多様な実態が垣間見えるのである。

(研究調査委員 牛米努)