今回紹介する史料は、『国民の心得 納税之栞』という小冊子である。本書は、京都税務監督局の原田宗蔵(税務監督官)・柳井直四郎(税務監督局属)の2名によって著されたもので、明治42年(1909)に出版されている。緒言によれば、本書は当初、京都税務監督局によって見本が試刷され、管内の公的機関や学校・新聞社などに配布された。その後、振り仮名を加えるなど、さらに読みやすくして出版したのが本書であるという。納税思想の普及を目的に作成されたもので、納税に関する美談や諸外国の状況、税目ごとの納税上の心得などが記されている。
 では、本書が作成された時代背景はどのようなものだっただろうか。明治37年(1904)に開戦した日露戦争の戦費を調達するため、同年および翌年には税率の上乗せや新税の創設など種々の増税策がとられた。これらの非常特別税は、財源不足を理由として戦後も実質的に継続されており、本書でも、日露戦争前後における諸税・国債などの国民1人当たり負担額の増加が示されている。この点に関して本書では、諸外国の状況を示した上で、「我国が将来此等各国の間に伍して、国威を振張し国富を増進するには、尚国費の膨張、負担の増加を免れざる」との説明をしており、日清・日露戦争に勝利して「一等国」の仲間入りをしたとの自負が窺える。
 このような社会状況のなか、各地で税の滞納が問題となり、国税当局は納税組合の設置推進をはじめとする納税奨励策を積極的に行った。また、明治44年(1911)には国税徴収法の改正によって、滞納者から延滞金を徴収することが定められている。今回紹介する史料も、京都税務監督局によって行われた納税奨励策のひとつである。
 本書のうち、最もページが割かれているのが、「市区役所及町村役場と納税者」という章である。実は、明治29年(1896)に税務署が創設された後も、地租および勅令で指定した国税(所得税・営業税など)の徴収事務は、市町村に委託されていた。この市町村委託徴収制度は、昭和22年(1947)まで行われており、滞納の予防は市町村の重大な責務であった。本書でも「其の市町村に於て、一人も残らず全部の徴収を為して之を金庫に送付するにあらざれば、国家に対する職分を完(まっと)ふしたと云ふことにはならぬ」と記されている。また、税の徴収にかかる費用は市町村が負担することとなっており、国は徴収した金額に応じて市町村に交付金を交付した。そのため、税の滞納は、督促に費用・人員が必要となるばかりでなく、交付金の減少をもたらすものとして市町村の財政に直結する問題でもあった。本書は、納税義務履行の実益として大きく分けて5点を挙げているが、そのひとつに市町村費の減少と市町村収入の増加があるのはこのためである。
 以上の理由により、各地の市町村では、税の滞納を防ぐための工夫が種々行われた。それを紹介しているのが、先に挙げた章「市区役所及町村役場と納税者」である。では、いくつかの事例を紹介してみよう。
 富山県のある村では、納税義務の徹底を目的とした村民集会が村長によって開催され、その場でいくつかの協定が結ばれた。その内容は、1すべての公課は25日に納めること、2村内を2区に分かち、1区は午前、もう1区は午後に納付すること、3時間内に納付しない者がいた場合には、役場に出頭した納税者全員によって完納すること、などである。この協定によって、納税状況はすこぶる良好となり、以来、この村では毎年1月に集会所において前年の納税状況の報告と協定遵守者の賞揚を行うこととなった。さらに、25日は「税金日」と呼ばれ、小学生に至るまで周知されるようになったという。
 上の事例は、納期のうちの特定の日に一斉に納税するよう呼びかけたものであるが、納期の周知徹底は地域によって様々な方法で行われている。例えば、静岡県のある村では、従来、各小字の組長が組合内の村民を集めるときにほら貝を合図としており、納税にもこれを利用した。具体的には、役場は納税期日の1週間前に賦課令状を組長に送付し、組長は夜間適宜のときを選んでほら貝を吹き、村民を参集させた。その後、納期の1日前に組長は再度ほら貝を吹き、それを聞いた村民は税金を持参して組長に渡し、その翌日つまり納期初日の早朝に組長が役場に税金を納めることとなっていた。また、ほら貝の代わりに太鼓を用いた地域もあったことが紹介されている。
 以上のように具体的な施策が数多く紹介されていることから、本書は国税当局が発行した市町村のための納税奨励マニュアルとしての意味も持っていたと考えられる。当時、内務省の官僚を中心とした地方改良運動が進められており、そこでは勤倹貯蓄・地主小作協調・税金滞納一掃などの実現が模範とされた。市町村における納税奨励策と、国税当局によるその推進は、この一環と位置付けることができる。

 

(研究調査員 宮坂 新)