NETWORK租税史料 税務情報センター(租税史料室) 江戸時代の年貢と訴訟
示談内容を記した「為取替申議定書之事」(1845年)

示談内容を記した
「為取替申議定書之事」(1845年)

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 租税史料室では、江戸時代に作成された古文書を数多く所蔵しており、これらの史料によって年貢をはじめとする税と人々との関係をうかがうことができる。今回はそのなかから、年貢納入をめぐる訴訟一件を取り上げてみたい。 この騒動の舞台となったのは上州山田郡大間々町(現・群馬県みどり市)である。同町は交通の要衝に位置し、農民だけでなく多くの商人・職人が存在した。また近世初期から月に6度の市が開かれ、特産品である絹や生糸のほか様々な品物が売られていた。
 では、訴訟の経過を見ていこう。写真の史料によれば、大間々町の百姓6名は同町住民の代表者として、同町の運営を行う町役人8名を相手に訴えを起こした。そして、その裁決が出る前に今度は近隣村の百姓幸左衛門が、同じく大間々町の町役人を相手取って訴訟を起こしたのである。2件の訴訟が起こった契機は詳しくは分からないが、結果として両件は示談が成立し、訴えは取り下げられることとなった。その際、示談内容が、訴訟方・相手方をはじめ、仲介人や立会人など関係者26名の間で取り交わされており、それが弘化2年(1845)に作成された本史料である。
 示談内容を見る前に、後から訴訟を起こした幸左衛門について述べておきたい。彼は山田郡天王宿村(現・桐生市)の百姓であり、同村および山田郡蕪町村・須永村(共に現・桐生市)の計3か村の「入作惣代」として訴えを起こした。入作とは、他村の者が村内の土地を耕作することを言う。つまり、上記3か村(すべて大間々町の近隣に位置)の村人のなかには大間々町の土地を耕作している者が少なからずおり、幸左衛門は彼らの代表者として大間々町の町役人を訴えたのである。
 史料によれば、示談によって確認された内容は年貢や雑税などの負担方法が中心であった。ここで確認しておきたいのが、江戸時代の村における課税方法である。江戸時代、年貢などの税は個人ではなく村を単位として課税された。領主は各村に対してその年に村全体で納めるべき年貢量を通達し、村内での割付(家ごとの納入額決定)は、村内における所持地の面積・地目などをもとに村役人によって行われた。つまり、他村に居住する者であっても、大間々町内に所持する土地については、大間々町の町役人の指示を受けて年貢を納める必要があったのである。
 示談によって取り決められた内容には、例えば次のようなものがある。1.年貢を割り付ける際には、入作人の代表者1〜2名が立会って領主からの通達文書や年貢関係帳簿などを確認し、その承認が得られた上で割付を行うこと、2.米で納める税を銭で代納する場合には、そのときの公定相場に基づいて換算すること、3.今後町役人を決める際は世襲などではなく投票によって選ぶこと、などである。
 以上の点から、2件の訴訟は大間々町で年貢・諸税を負担する町内百姓と入作人たちが、課税徴収を担当する町役人の不正を追及したものであったことが分かる。さらに上記1の点が取り決められていることから、特に入作人に対して不公平な課税(村内の者よりも高い税率で課税するなど)が行われる実態があったことが推測できる。江戸時代の人々が公平・正当な課税を求めて戦った一事例である。

(研究調査員 宮坂 新)