はじめに

本史料集は、明治十七年(一八八四)の地租条例から明治四十三年(一九一〇)の宅地地価修正法までの、地租制度に関する基本史料のうち、租税史料館に所蔵される史料を中心にまとめたものである。地租条例は、地租改正事業に終止符を打ち、その成果を固定化した。これにより政府は、安定した地租収入を確保できるようになり、財政基盤を確立することができたのである。

地租に関する基本法令は、明治六年(一八七三)の地租改正条例、明治十七年の地租条例、それに昭和六年(一九三一)の地租法である。地租は、昭和二十二年(一九四七)に国税から都道府県税に委譲され、シャウプ勧告後の昭和二十五年(一九五〇)に家屋税などとともに市町村税の固定資産税となり現在に至っている。

これまで租税史料館では、地租に関して以下のような史料集の刊行や特別展示を行っている。なお、特別展示の内容については、当館のホームページで公開している。

  • 租税資料叢書第六巻『関義臣文書・地租改正方法草案−明治六年地方官会同資料−』(平成五年)
  • 平成十五年度特別展示「地券の世界」
  • 平成十六年度特別展示「町と村の地租改正」

地租制度については、『明治財政史』や『明治大正財政史』など、大蔵省編纂の財政史のシリーズが通史的な叙述を行っており、現在も基本的な文献となっている。また昭和期には、明治期の地租に関する基本史料も刊行されている(1)。地租改正研究は、政策面から実態まで長年の膨大な蓄積があり、全国の自治体史などでも必ず項目が立てられている。しかし地租改正後の地価修正になると研究は少なくなり、明治期を通じた地租制度全般に関する研究は、大蔵省の財政史を除けばほとんどないのが現状である。

この史料集は、研究蓄積の少ない地租条例以降の地租制度に関する史料を編纂し、明治期の地租制度の研究に寄与しようとするものである。

一 地租条例以降の地租の沿革

地租は、明治期を通じてわが国の歳入の基盤となった税である。明治六年の地租改正法の公布によりスタートした地租改正事業は、紆余曲折を経ながら明治十四年に終了した。その結果は、明治十七年に作成が命じられた土地台帳に固定されるが、それは翌年から開始される全国的な地押調査事業により実現される。こうして地租は、明治末年に一時酒税にその地位を譲るものの、明治期を通じて歳入のトップを占め、第一次世界大戦後は所得税にその地位を完全に明け渡すこととなる。このような歳入に占める地租の割合の推移は、日本の近代化の過程を財政面から映し出すものといえる。

表1は、地租条例が公布された明治十七年度から明治四十五(大正元)年度までの、地租徴収決定額と歳入に占める割合を示したものである。地租改正事業が完了した明治十四年度の地租額は四三二七万四〇〇〇円で、歳入の七〇・二%を占めた。その後、地租の歳入に占める割合は、明治十年代後半は六〇%台を推移し、明治二十年代には五〇%台、さらに明治三十年代以降は比重を低下させて三〇%台から二〇%台となり、明治四十五年度には二〇%を下回るようになった。明治十八年度の地租率が前後の年度に比して突出しているのは、会計年度が七月〜六月から四月〜三月に変更になったためである。会計年度の変更により、明治十八年度の酒税はすべて翌年度に繰り入れられた。歳入の二〇%程度を占める酒税がなくなったため、地租の割合がこの年度だけ高くなったのである。地租は、課税標準である地価に一律に課税する制度であり、基本的には地価や税率の改訂により増減する固定的な税である。そのため地租の割合は、酒税などの間接税や所得税・営業税などの新税の導入による歳入の拡大のなかで相対的に低下していくことになる。

表2は、地租税率の一覧である。税率は地租改正条例により地価の三%となるが、その対象は江戸時代の年貢地である。地租改正法に先立つ明治五年、東京府の市街地に地価の一%の課税が布告された。東京府の市街地というのは、沽券地と称される売買が許可されていた町人地や旧武家地などで、いずれも地子免除地(無税地)である。地租改正は、江戸時代の不統一な地租負担の均一化・公平化を理念としており、農村の年貢地と同様に無税地である市街地へも課税することとなったのである。地子免除地への課税は、全国の城下町や宿場町などにも適用されていく。そして明治八年、市街地の税率は農村部と同様の三%に引き上げられ、同十年の減租の詔により一律二・五%に引き下げられたのである。

地租額の推移をみると、明治十年代後半の四千万円台から明治二十年代には三千万円台となるが、明治三十年代前半には四千万円台後半になり、日露戦争を境に八千万円台に急増し七千万円台へと推移している。これを地租制度と併せて概括すれば、以下のようになる。

明治二十年代の減収は、地租改正事業の修正をも意図した地押調査の過程で実施された特別地価修正と、明治二十二年の田畑の特別地価修正によるものである。帝国議会の開設前後は、地租軽減の世論が高まった時期であり、田畑の特別地価修正による減税が実施された。特別地価修正は、改租時の地価の不均衡是正という地租改正事業の補完の面と、改租後の土地の変化を把握する面をもっていた。帝国議会開設前後の全国的な地租軽減要求は、代替財源としての新税の検討だけでなく、地租制度そのものの見直しを課題とした。ヨーロッパの制度に倣った地租制度の検討が開始されるようになるのは、そのためである。

初期の帝国議会では、政費節減と地租軽減を要求する議会と政府が対立し、地租制度そのものの見直しは実現しなかった。変化が見られるようになるのは、日清戦後である。戦後の財政拡大や経済状況の変化を背景に、明治三十一年の第十二回帝国議会において地租の税率改訂が初めて実現する。全国的な田畑地価修正をともなう三・三%への税率引き上げがなされ、宅地については市街と郡村の税率に格差を設けることで都市と農村の負担の均衡が図られた。そのため明治三十二年には、税率変更に伴う措置として都市化した郡村宅地と衰退した市街宅地の地目組換が行われた。このときの改正は明治三十二年分から同三十六年分までの時限立法で、それが地租額に反映されることになる。そして明治三十七年と同三十八年の二度にわたる非常特別税法が、日露戦時の時限立法として成立し、再び税率の引上げがなされたのである。しかし日露戦後には戦時立法の見直しが必然化し、税制整理のなかで地租制度の修正が実現することになる。それが明治四十三年の宅地地価修正法である。宅地地価の基準を賃貸価格とすることは、地租制度の大きな修正であった。宅地の地価算定基準となった賃貸価格は、その後、大正十五年の土地賃貸価格調査法および昭和六年の地租法により、すべての土地の地価算定に適用されることになる。

二 地租条例の制定

地租改正条例後の地租に関する基本法令は、明治十七年の地租条例である。史料1の地租条例は、明治二十二年の大改正部分も併せて収録した。史料2は地租条例取扱心得書である。

地租改正条例を廃止して新たに地租条例が制定された理由として、三つの規定の存在が指摘されている(2)。一つは地租改正条例第六章の、将来物品税額が二〇〇万円以上に達したときには税率を一%まで減税していくとの減租規定である。二つは明治七年五月に追加された第八章で、地租改正後に売買などにより地価の変動があっても五年間は据え置くという内容である。これは地価据置の規定であるが、改租による地価の不均衡を訴える地域では五年後の地価再改訂の期待が高まっていた。地方官のなかには五年後の再改訂を公言して慰撫に努めたケースもあり、それは実質的には政府の公約であった。そのため、この二つの規定の存在は、地租改正事業の成果を不安定にしたのである。

地価の不均衡是正の必要性は、地域の民衆や地方官だけでなく政府当局者においても認識されていた。当の地租改正事務局ですら、地租改正結果は「充分ノ平準」を得るものではなく、「封建制度ノ余弊、各地慣例ノ異同」のため一回の事業により完璧を期すことは不可能であると明言している(3)。しかし同事務局は、第八章による地価修正には、官民の負担が大きいこと、地租収入が不安定になること、近年の米価上昇により地租負担が軽減していることを理由に反対であった。そのため第八章による地価修正期限が到来する明治十三年、さらに五年間の地価据置を延長し、地方官が地価不適当と認めたものについてのみ、一町村または一郡区限りで特別地価修正を認めることにしたのである。この規定による特別修正は明治十六年秋までに十八県で実施されたが、二府十五県が申請中で、申請は増加する勢いであった。各地の特別地価修正要求は、地方官を巻き込んで第二の地租改正にまで発展する可能性があったのである。

さらに三つは、明治十年に出された田租の半額の代米納を認める規定である。改租後の地租は金納が原則であったが、前年の米価下落により金納の場合の地租負担が重くなることから、半額の米納を許可したのである。米価下落の影響は地租改正反対一揆を発生させ、明治十年の減租の詔が出される要因となった。しかし西南戦争によるインフレで米価は上昇し、代米納の請願はなくなっていたのである。

地租条例の制定により、第六章および第八章の規定は削除された。代米納規定は、松方デフレの影響により米価が下落したため、元老院の反対で実現しなかったが、これにより法制的には地租改正事業の結果は固定されたといえる。しかし固定化を現実のものとするためには、地租賦課の基本台帳の整備が不可欠であった。それが明治十八年から同二十一年まで全国で実施された地押調査なのである。

史料3は、当時大蔵省主税官(明治十九年から地租課長兼任)として地押調査の先頭に立った目賀田種太郎の記録である。明治二十四年二月は第一回衆議院の予算審議で地租軽減の是非が大問題となっていた時期で、地押調査の経緯を示して、地租軽減要求への安易な対応を戒める意図から記されたものである。これを見ると、明治十八年の地押調査は長野県収税長の建議を契機とし、主税局地租課の主導で行われたことがわかる。その発端は、明治十七年十二月の大蔵省達第八十九号「地租ニ関スル諸帳簿様式」である。この大蔵省達は、府県庁・郡区役所・町村戸長役場が、それぞれ備え付けなければならない帳簿の種類を明記したものである。なかでも戸長役場に新たに備え付ける土地台帳は、その土地一筆毎の面積や所有者、地租額などを記載した基本台帳となった。それまでの基本台帳であった地券台帳には、改租以降の土地の異動が正確に反映されておらず、台帳の修正ではなく新台帳作成のほうが容易と判断される程であった。免租地から有租地への変換や地目変換、開墾などによる土地異動は届け出が必要であり、無届の場合の罰則規定もあったが、実態は台帳と大きく異なっていたのである。

明治十八年二月、地租改正時に作成した帳簿や地図をもとに町村単位での実地調査を命じ、その当否を収税官吏が点検するという大蔵卿訓示が出された。その際、無届などの犯則は問わないこととし、円滑な地押調査を目指した。しかし改租後の土地異動は激しく、地方官や町村には第二の地租改正を求める声も少なくなかった。安易な地押調査は、第二の地租改正となる危険性を孕んでいたのである。そのため目賀田は、早急に監査員参考書を作成して府県における調査体制作りに着手し、地押調査の早期完了を目指したのである。地押調査は戸長役場と地主総代による一筆調査が基本であったが、主税局−府県(収税課)−郡区役所−町村戸長役場による検査・監督体制が整備され、それを主導することになったのである。大蔵省主税局および府県収税課(収税長・収税属を配置)は、明治十七年に設置された国税の賦課・徴収機関である(4)

地押調査を主張した地租課の中心人物は、当時の地租課長有尾重敬だったようである。有尾は地租改正事務局員として地租改正に従事し、その後も地租改正条例第八章による特別地価修正に当たってきた。「有尾重敬履歴」には、明治十四年に第二の地租改正を行う意向であったが、十八年までの延期の後、地租条例により規定が消滅してしまったため改租事業の整理が必要となり、土地台帳洩れの土地は違反になるとの「口実ヲ画策」して地押調査に着手したと記している(5)。目賀田が地押調査の限度を定めることを再三主張し、監査員参考書を起草して有尾と協議しているのはそのためであろう。有尾も第二の地租改正には反対だったと思われるが、第八章廃止後も改租の修正が必要と考えていたのであろう。地押調査が四年の歳月を掛け、しかも終局の明治二十年に特別地価修正を行っていることを考え併せると、地押調査は土地台帳作成の基礎調査というだけでなく、改租事業の修正という要素があったことがわかる。

全国で実施された地押調査については、その実態は明らかにはなっていない。史料4は宮城県の地押調査書で、管見の限り府県単位での地押調査をまとめた唯一のものである。租税史料館には、この草稿や地押調査時に作成された海岸測量図や地押一村絵図も所蔵されている。この史料の目次をみると、明治二十年八月一日の土地台帳調製審査細則第一、「土地台帳調製整理委員ハ、地押ノ視察・異動地検査ノ成蹟ヲ審査シ、土地台帳ヲ監査、之カ紀要ヲ作ルモノトス」という規定に従って作成されたものであることがわかる。第四には「紀事提要ヲ編纂スル要項」があり、冒頭の「沿革」が「総説」になっている以外は同じ項目である。他の府県の調査書が未発見であるので、とりあえず宮城県のみの規定と考えておきたい。府県は地押調査完了報告を大蔵省に上申しており、大蔵省が編纂した「地租関係書類彙纂」に収録されている「明治十八年地押調査始末」は、これにより作成されたと推測される(6)

宮城県の初代収税長心得は山田揆一である。主税局では、一等主税官の目賀田種太郎や主税局第二部長心得として有尾重敬も登場する。宮城県では、県の担当者として土地台帳整理委員(府県収税属)と郡区委員(郡区書記・御用係)が任命されている。調査の主体である町村では、戸長役場の筆生を町村委員とし、さらに選挙により地主総代人が選定された。府県および郡区吏員が戸長や町村委員と地主総代人を指導し、地押調査が「一ハ収税上重複遺漏ナキヲ期シ、一ハ人民土地所有ノ権理ヲ鞏固ニスル」目的であることが強調されている。府県には主税局の主税官や属官も頻繁に出張して県官との協議や巡回指導にあたっており、主税局と収税長以下の府県収税課員が総動員されていることがわかる。

宮城県は、明治七年七月に田畑・宅地の地租改正を完了した。全国でも早期に完了した府県の一つである(7)。県内では、明治十七年に桃生郡赤井村の特別地価修正が請願されていたが認可されなかった。同村の梨畑の地価は、麦ではなく実際に栽培されている梨の収穫高により査定したため、近隣の畑の八倍もの高地価となっていたのである。桑茶畑などの場合は収穫物により地価を査定するとの規定に従ったためで、この規定は宮城県の改租後に改正された。しかし改正前に改租を実施したため、このような結果になったのである。赤井村の特別地価修正は地押調査の過程で明治二十年に認可され、外に宮城郡六丁目村にも特別地価修正が認可されている。

宮城県赤井村の特別地価修正は、明治二十年九月二十七日付の総理大臣あて大蔵大臣の特別地価修正処分結了報告に掲載されている(8)。『明治財政史』第五巻は、これを明治二十年地価修正として独立した項目としているが、これは地押調査の過程で明治二十年に認可された特別地価修正による地租減額の報告であり、次に述べる地押調査完了を前提とする明治二十二年の特別地価修正とは異なるものである。地租条例により地租改正条例第八章は廃止されたが、この規定を根拠とする地価修正請願のなかには処分未了のものも少なくなかった。そのため地押調査と併行して不適当な地価の特別修正がなされたのである。

三 地価修正の時代

史料5と6は、大蔵省の地籍条例案関係史料である。地籍条例案は地押調査完了を目前にした明治二十一年に作成されたと推定できるが、この条例は実現しなかったためか、大蔵省編纂の地租関係史料集や『明治財政史』などでは全く触れられていない(9)

まず、地籍条例案の作成時期について、もう少し検討を加えておきたい。史料5には、閣議説明が付けられた法律案と、参考として地籍条例案の主要な項目についての大蔵省内の見解がわかる史料を付け加えた。地籍所設置及び地券廃止の説明資料には、中村の印が押印されている。中村は、明治十九年三月から同二十四年四月まで大蔵省主税局長を勤めた中村元雄と考えられる(10)。中村は、主税局長就任前の明治十八年十二月から同二十一年三月まで、ドイツ及びフランスに出張した経験を持っている。後述するように、地籍条例案はヨーロッパの地租制度を参考に作成されており、地押調査完了年の作成でもあることから、中村が帰朝する明治二十一年三月以降の作成と考えられる。また、枢密院での憲法審議と併行する時期であることから、枢密院設置の四月以降から憲法草案の第一審査が行われた六〜七月前後である可能性が高い。

地籍条例案の特徴は、第一に、地押調査により把握した土地の現況を将来に渉って管理する方法として提起されている。地租改正後の地券台帳のように、地押調査後の土地台帳の管理が充分でなければ地租制度は安定しないのである。また、地券制度は書き換えに手数や費用がかかることから廃止し、地籍所において謄本を発行することとされている。明治十九年の各省官制では、地籍や官有地は内務省地理局、地租は大蔵省主税局の管轄である。また司法省のもとには登記所も新設されている。これを官民有地ともに一括して大蔵省の地籍総監が統括し、府県には専門の地籍官を置いて郡区役所単位に地籍所を設置する制度へ改正する内容である。地籍官以下の地方吏員の新設費は府県徴税費から捻出するとしており、大蔵省主税局と府県収税部の関係がイメージされているようである。また、地籍条例案は史料6の原案からもわかるように、フランスやプロシア、ベルギーなどのヨーロッパの制度を参考にして作成されたものである。地籍総監制度は、市制・町村制を前提にしており、とりわけ土地台帳を管理する市町村長が公選であることを危惧し、帳簿の管理を地籍所に移管することとされている。

第二は、地租を配賦税に改正することである。配賦税は、歳入額を課税標準に基づいて市町村に配賦する方法である。課税標準である地価は土地の所得とし、原案では十五年毎改正としていたのを、法律案では地価改定の法律によるとしている。配賦税は政府が総額を決定し、その賦課・徴収を府県や市町村などに一任するものであるが、予算審議の上で帝国議会の権限との関係が生じてくる。それに地租額の増減、とくに増税の場合には大きな抵抗も予想される。大蔵省内では、歳入の過半数を占める地租額の決定を「不熟不鍛錬」な国会に委ねることを危惧すると同時に、枢密院の憲法審議を見守る段階とされている。

市町村を単位に配賦した地租の徴収は市町村の義務で、地租収入役の設置は徴収の責任主体を明確にしたものである。市町村に徴収義務を負わせるのは、古来より地租は町村が徴収してきた慣例に従ったものといえるが、さらに地租の滞納処分による土地喪失を防止することが期待されているのである。

地籍条例案は実現しなかったが、市制・町村制施行後の地租事務の取り扱いは大きく改正された。まず明治二十二年の土地台帳法により、市の土地台帳は府県庁、町村の土地台帳は郡役所が管理することになった。そして郡市役所所在地に府県収税部出張所を設置して収税属を配置し、地租を含む直接国税の事務を一般の地方事務と区別して取り扱うこととした。府県収税部出張所は明治二十二年七月以降順次開設され、基本台帳である土地台帳をはじめとする諸帳簿は、町村戸長役場から府県庁および府県収税部(出張所)へと引き上げられたのである。大蔵省主税局−府県収税部(収税長・収税属)−収税部出張所(収税属)という直接国税の賦課・徴収システムが、地籍所の代わりに整備されたのである。

地籍条例案は、ヨーロッパの制度に倣った地籍管理や地租制度の改正を提起したが、それと併行して収益税としての整備や減租の可否も論じられていた。地籍条例案には、地租軽減の可能性をにらんで、地価修正または二%への税率引き下げによる二通りの地租軽減策が添えられている(11)。府県の配当地租額は、明治十九年一月から同二十年六月までの平均米価により換算し直した田畑修正地価に基づいた数値になっている。もともと地籍条例案は減租案とは別の法律として立案されたが、政府の地租軽減策が現実化するなかで減税案とセットになったのである。ヨーロッパの財政論を参照し、地租を収益税として整備していくという議論が提起されていることは、後の地租制度を考える上で重要と考えられる(12)

史料7は、明治二十四年四月に目賀田種太郎が大蔵次官渡辺國武に提出した意見書で、『男爵目賀田種太郎』にも収録されている。当時の政府内外における減租論に対する目賀田の基本的な態度が示されており、次の史料8と共通する見解が示されている。史料8は、本文中に直税署が出てくることから明治二十四年のものと推定した。著者は目賀田種太郎と考えているが確証はない。ただ、当時政府の内外で巻き起こっていた地租軽減問題にたいして、大蔵省の採るべき将来を見据えた対応策として提言されたものである。

まず地租負担の軽減のために、田畑の地価修正が必要であることが主張されている。これまでの特別地価修正が高地価の下方修正のみであっため、低地価の上方修正が必要であり、改租後の土地の盛衰に対応した地価修正も必要とされている。また宅地については、「課税ノ原義」に適っていないと指摘している。地租改正における宅地地価は、明治九年の市街地租改正調査法細目により、貸地料と売買価格を斟酌して宅地の地位等級を調査し、町村から区単位に地位等級の権衡を図って設定された。しかし郡村宅地は、江戸時代と同様に単に田畑の最上級の地価としたため、理論上「課税ノ原義」に適っていないと指摘しているのである。市街地地価は郡村に比して高価であるため、土地丈量も坪を単位に正確性が期されているが、郡村宅地は必ずしも厳密な規定はなかった。宅地については改租後の地価修正が未着手であるばかりでなく、賦課方法そのものの検討が必要であるとしているのである。地租軽減論が主張する土地の収益に応じた課税は、土地の純益への課税により実現するが、それを現実の制度としてどのように作り上げていくか。基礎となる正確な町村図の作成、そして土地の「純益量定法」は現行地価(法定地価)の廃止を展望しているが、その具体的な方策は将来の課題なのである。

史料9〜11は、地租軽減を求める福島県(会津五郡)・三重県と対馬国の請願書である。福島・三重両県からの請願は明治二十四年二月付の印刷物、壱岐の請願は明治二十五年十二月付の原本である。福島県の請願は、低地価地域である会津地方の非地価修正論である。一方、三重県の請願は、地価の不均衡是正を優先させる地価修正論である。一般に東北地方などの低地価地域は、地価修正ではなく税率の引下げによる減租を主張していた。第一回帝国議会の貴族院には、福島・青森・岩手・新潟、それに山口・奈良・京都の一府六県から非地価修正請願が提出されている(13)。史料9の発行兼編集者の生江孫太夫は、同年二月付の両院への地租軽減請願書にも会津地方の農民達とともに署名し、地租五分一の減額を主張している(14)。三重県では、地価を収益に改正する地租再改正論と地価の不均衡是正を求める地価修正論とが県の南北を二分していた(15)。しかし帝国議会への請願にあたっては県単位での一致した運動が必要との認識から、明治二十四年二月に三重同盟倶楽部を結成し、郡ごとに請願委員を選出して地価修正請願運動を行ったのである。史料10の末尾には請願委員の一覧と、帝国議会への請願件数が記載されている。この二つの請願を見ると、地租軽減の請願にも負担の公平の観点から収益課税方式が主張されていることがわかる。

史料11の対馬国の請願は、とくに島根県隠岐島との比較により地価低減を求める内容である。対馬は明治二十二年の特別地価修正により低減されたが、隠岐島との比較を通して対馬の特殊事情を訴え、一層の低減を求めたのである。対馬の島民からは第一回の貴族院に、吉田八助外三五一一名による田畑宅地地価低減の請願が出されていたが却下されている(16)。なお、後述する明治三十一年の田畑地価修正法の衆議院の審議で、対馬も対象地域に追加されている。

四 地租条例改正と宅地組換

明治二十年代後半から三十年代にかけて、幹線鉄道網の整備などにより各地の経済情勢は大きく変化し、農村からの人口移動により都市の拡大も進行した。明治二十二年の市制施行地は三十九都市であったが、明治三十三年には五十三都市に増加している。

政府は、明治三十一年の第十二回議会に宅地組換法案と地租税率の引上げ法案を提出した(17)。地租率を市街宅地五%、郡村宅地三%、田畑等三・七%とし、さらに市街・郡村の宅地組換を行って課税の公平を図る内容である。宅地組換が必要な市町村等は、勅令により別途定めることとした。この法案の意図は、これまで地価修正が実施されてきた田畑と異なり、改租以降一度も地価修正が行われていない宅地の負担の公平を図るところにある。改租後、都市化の進行により市街宅地の地価と時価の較差は大きくなっていた。そのため市街宅地と郡村宅地の税率を別にし、地価の上昇に応じた負担を求めたのである。しかし衆議院は地租の過重と地価の不公平を理由に否決し、議会解散となった。次いで第十三回議会に、再び地租増徴案は提出された。政府案は、地目に拘わらず税率を二・五%から四%に一律に引き上げるもので、今度は田畑地価特別修正法案とセットになったものである。議会に根強い田畑の地租増徴反対論に配慮した内容である。政府案は、衆議院において田畑等を三・七%、市街宅地を五%、郡村宅地を三%とし、さらに明治三十二年分から同三十六年分の五ケ年間に限定する修正がなされ、貴族院においても可決された。そして貴族院の審議過程で、市街宅地の税率が倍増されるため、市街と郡村の宅地地価の公平を図るため宅地組換法案を勅令で定めるとの議員提案がなされた。政府もかねてより宅地組換法案を提出した経緯もあり、政府の了承のもとに貴族院は議員提案の宅地組換法案を可決したのである(18)。この法案は衆議院も通過して成立した。これにより明治三十一年度の改正は、田畑地価修正と市街・郡村宅地の組換を前提とする地租増徴策となったのである。史料12と史料13〜14は、地租条例改正および宅地組換法である。なお、明治三十一年に公布された田畑地価修正法は、スペースの関係から割愛した。

地租増徴案の提出理由は、近年の土地売買の実況は、土地台帳の価格と比較して二倍から十倍以上になって収益が増加している。これは社会の発達と物価の騰貴、交通機関の整備などによるものである。そのため現在の収穫または貸地料を算出し、改租時の負担を超過しない程度の増税を求めるとしている(19)。収穫の算出には明治二十一年以降十年間の平均米価を用い、利子も六%で統一して修正地価を低減し、修正後の地価に課税するものである。

また、宅地については市街と郡村で税率を異にするため、市街地化している郡村と衰微している市街宅地の地目の組換を行う必要があった。宅地組換法には、郡村から市街へ組換分と市街から郡村へ組換分の市町村名が指定されている。たとえば大阪市の場合、大阪市成立当初はすべて市街宅地であったが、明治三十年の第一次市域拡張により西成郡と東成郡の一部が市域に編入された。これらの地域は市街化の進行により市域に編入されたにもかかわらず、宅地の地目は郡村宅地であり、今回の税制改正により旧市内の市街宅地と負担が大きく異なってしまうのである。このような状況は大都市だけのものではなく、市制施行地に市街と郡村宅地が並存しているのは普通のことであった。

一方、市街宅地から郡村宅地への組換は、江戸時代の城下町や宿場町として発展していた町村が多い。旧城下町の町地や武家地は市街宅地であり、主要街道の宿場町も地子免除地であったため市街宅地となったのである。しかし旧城下町でも大藩の城下町は県庁所在地や地域の中核都市として発展していくが、小藩の城下町や宿場・河川交通の要衝であった湊町などには発展から取り残されていった地域も少なくないのである。宅地組換に関する調査史料は、こうした地域の経済発展の状況を具体的に示すものといえる。

宅地組換法案は、明治三十一年五月、第十二回議会に初めて提出された。このときは否決されたが、政府において準備調査は行われていた。史料15の郡山税務管理局(福島県)と史料16の芦屋税務署(福岡県)の史料は、いずれも法案成立後の最終調査結果であるが、郡山局については準備調査の内容も判明する。調査項目は主税局を通じて税務署に指示されており、人口五千人以上の市町村を対象に、掲載史料の項目以外にも、町村図が作成され、田畑・宅地の売買価格調査や所得税と営業税の納税者数や税額、貨物の輸出入量などが報告されている。掲載史料の記述は準備調査を取りまとめたものであり、郡山局の史料には税務署から提出された調査結果が綴られており、より具体的な状況を知ることができる。

福島県の鉄道は、明治二十年の日本鉄道会社の東北線(東京−仙台間)開通が最初である(20)。明治三十年には常磐線(水戸−平間)が開通し、翌年には小高まで延長された。常磐線の開通により、常磐炭鉱の石炭の東京への大量輸送が可能となった。また、明治三十年には岩越鉄道(現在の磐越西線)が着工している。同線の郡山−喜多方間の開通は明治三十七年である。また、明治三十二年には奥羽本線(福島−米沢間)が開通する。宅地組換調査が行われた頃の福島県は、南北を縦貫する東北線を中心に鉄道網の整備が進められていた時期であり、それによる変化が顕在化しつつある状態であったといえる。

五 宅地地価修正

日露戦後、非常特別税法の継続をめぐって税制整理が必要となった。当初政府は、非常特別税法の継続を求めると同時に、官民の委員による税法調査会を設置し、二年以内に税制整理を実施することを表明した。しかし税法調査会の設置は貴族院で否決されたため、大蔵省内に税法審査委員会を設置して税制整理の調査が行われた。税法審査委員会の設置は明治三十九年四月の閣議で決定され、五月の第一回を皮切りに会議を重ね、同年十二月に税法整理案を含む審査報告書を大蔵大臣に提出した。そして政府は、税法整理案審査会を設置して税法整理案の検討を行ったのである。税法整理案審査会は明治四十年四月から七月まで審査し、基本的には原案を承認しつつも法案修正を行った。こうして成立した租税整理案は増税案とともに、明治四十一年一月の第二十四回議会に提出された(21)。地租関係法案は、地租条例改正法案と宅地地価修正法案である。市街・郡村宅地の地目を宅地に統一して、宅地は二・五%、それ以外は五%とし、宅地地価を賃貸価格の十倍とする内容である。しかし租税整理案は成立せず、地租制度の改正は個別に成立が図られていくことになる。そして地租条例改正法案と宅地地価修正法案は、明治四十三年の第二十六回議会で若干の修正を受けて成立した(22)。史料17と史料18に、地租条例改正法と宅地地価修正法を掲げた。市街・郡村宅地は宅地に統一して税率を二・五%に引き下げ、地価は賃貸価格の十倍となったのである。田畑は五・五%から四・七%に引き下げられた。

明治四十三年に成立した宅地地価修正法案の原案は、明治三十九年二月の第二十二回議会に提出された法案と同じである。明治三十二年の宅地組換は、市街と郡村宅地の組換により負担の公平を図ろうとしたものであるが、都市化の進行にともなう宅地地租負担の較差の増大には対応しきれなかった。その根本的な対応策が、賃貸価格を基準とする宅地地価の修正であった。賃貸価格とは、貸主が公課や修繕費などの土地の維持に必要な経費を控除した収益である。しかし宅地地価の基準変更には、全国的な準備調査が必要であり、準備不足の面は否めなかった。その後、非常特別税法により市街宅地の税率は五%から八%、さらに二〇%に増徴されたため、宅地地価の不均衡はますます拡大していったのである。

税法審査委員会の議論は税制全般にわたる広範なもので、後の税制に引き継がれるものもある。地租制度改正の基本的な方向性は、税制整理の以前に打ち出されていたものと同じであるが、当時の地租についての議論がわかるように、史料19の税法審査委員会審査報告と史料20の税法整理案審査会審査要録については、地租に関する部分をすべて収録した。

税法審査委員会は、第一次に各種の租税についての利害得失を検討し、第二次では第一次の決定をもとに作成した草稿を審査して法案作成に至るという順序で進められた。その際に参考とされたのは、ヨーロッパの租税制度である。地租の場合、課税方法、宅地地価修正の可否及びその方法、税率と審議が進められている。たとえば課税標準については、その前提として時価及び評定とするか、毎年改正するか一定期間継続するかを討議し、それぞれ評定による価格を一定期間継続して適用すると決議し、次の具体的な課税標準の問題に移っている。課税標準としては六通りの説が上げられているが、そのうち実際に検討されたのは売買価格・小作料・純益の三説である。委員同士で賛否の討議がなされ、全会一致で純益課税と決している。さらに申告制とするか台帳制とするかを議論し、従来の土地台帳方式を維持することになった。なお、地租の配賦税方式や、地租を廃止して土地と家屋を対象とする不動産税、宅地と家屋を対象とする家屋税など、幅広い検討も行われている。

地租の課税標準については、宅地については改租以降の土地の変化に応じた地価修正が全会一致で必要と決議された。田畑の地価修正については、明治二十二年と同三十二年に実施されており、田畑までを対象とすると地租改正の大事業となるため否認された。そして純益を売買価格とするか賃貸価格とするかが議論された。両者ともに純益に比例しないが、売買価格よりも把握が容易であること、宅地の場合は賃貸価格が純益を代表するとの意見により賃貸価格と決している。地価を賃貸価格の一〇倍としたのは、地租(地価の二・五%)、地租以外の公課(同一%)、修繕費(賃貸価格の五%)、地主の純益(地価の六%)とし、これを元本価格に還元して算出すると賃貸価格の約一〇倍となり、現在の地租額とほぼ同額になるという理由である。宅地地価修正は増税を目的とするものではなく、改租以降一度も修正されてこなかった宅地地価の公平を期すものであることを明確にするため、賃貸価格の一〇倍が現在の地価の二〇倍を超える場合は、地価の二〇倍にとどめることとなった。突出した高地価の宅地については、土地増価税などの意見も出されている。

そして賃貸価格により地価を算出するため、市街宅地と郡村宅地の地目を廃止して宅地に統一することとした。また、宅地地価改定の期限については、状況の変化により予め定めた期限での改訂は困難であり、地租改正条例の五ケ年毎の地価改定規定のように「空文」となる恐れがあるため、改訂期限は定められなかった。

税法審査委員会が作成した地租条例改正案は、市街・郡村宅地を二・五%、その他を五・五%とし、北海道は宅地二・五%、その他四%、沖縄県はすべての土地を五・五%とするものである。これらの法案は、税法整理案審査委員会においてもほぼ承認され、明治四十三年の第二十六回議会に提出された。そして田畑を四・七%と修正して可決された。史料17が、法律の全文である。

宅地地価修正法は、明治三十九年の第二十二回議会に提出され、第二十六回議会で成立した。史料18が、その全文である。宅地地価を賃貸価格にするという方向性は、政府と税法審査委員会とも同一であったため、その間にも宅地賃貸価格の準備調査は継続された。準備調査は法案提出にあわせて合計四回実施され、その意味では周到な準備がなされたといえる。そして法案成立後、それまでの準備調査を基礎に五回目の調査が実施され、宅地地価修正法に基づく宅地賃貸価格調査委員会に提出されるのである。

この宅地地価修正事業の経緯と結果をまとめたのが史料21である。後の土地賃貸価格調査事業では、主税局及び各税務監督局の事業史が作成されているが、これはその前史にあたるものといえる。

宅地賃貸価格の調査は郡村と市街に区分し、郡村は税務署、市街は税務監督局が担当した。郡村については市町村毎にいくつかの等級を設定し、標準地を定めて賃貸価格を調査し、市町村および大字・字単位、そして税務署単位での権衡を図り等級を決定する。税務監督局は税務署単位の市町村の郡村宅地の権衡と、市街宅地の市町村の等級・権衡を図る。最終的には主税局において全国的な権衡が図られる。こうして作成された賃貸価格は、税務署毎に開設される宅地賃貸価格調査委員会において調査され、政府決定に至る仕組みである。調査委員の選挙は複選制で、宅地地租納税者の選挙により調査委員選挙人が選出され、調査委員選挙人が調査委員を選挙した。税務署管内に市制施行地がある場合は、市部と郡部の調査委員会がそれぞれ設置された。

調査委員会の会期は六〇日で、税務署長が管内の宅地賃貸価格原案を提出し、調査委員会が原案を調査して決議することとなった。調査委員会が不成立か、会期中の決議に至らない場合、政府が調査委員会の決議を不当とする場合は政府が決定することとなった。調査委員会の決議を不当とする場合には二〇日間の再議期間があるが、この間に決議に至らない場合、または再議をも不当とする場合は政府決定となった。宅地賃貸価格は、決定後に市町村に通知され、二〇日間の縦覧期間の後、三〇日間の異議申立期間が認められた。

これまで宅地賃貸価格調査については、その仕組みや結果については説明されてきた。しかし調査委員会の具体的な活動については、まったくわかっていない。そこで、宅地賃貸価格調査を実際に担当した税務監督局と税務署の史料を収録した。

史料22と23は、東京税務監督局管内の宅地賃貸価格調査委員名簿と調査委員会ごとの状況をまとめたものである。主税局は、税務監督局を通じて各税務署に調査委員会についての細かな指示を出し、委員会の状況を逐一報告させている。また調査委員会に提出する参考資料を限定し、それ以外については監督局の承認が必要とされた。調査委員にも調査内容の守秘義務が課されている。会期内に調査委員会の決議が終了できるよう、かなり神経を使っていることが窺えるのである。

また税務署では、宅地賃貸価格調査委員会の状況をまとめた「秘録」が作成されている。調査委員会の具体例として、史料24に群馬県富岡税務署の「秘録」を掲載した。富岡署管内では、所得調査委員を中心に地域の有力者や町村長等が協議して選挙区を確定し、選挙区ごとに公認候補者まで決定している。調査委員の選挙にあたっては、選挙競争が激烈とされた福井市では、有権者確保のため一筆を百名・数十名の共有地として虚偽の登記を行ったため首謀者が検挙される事件が起こっている。こうした事例は奈良・和歌山両県の一部など全国に波及しつつあり、主税局長から激しい選挙競争が予測される地域では事前の警告を発するよう、税務署長への通牒も出されている(23)。富岡署の場合、東部と中部は希望者が多く調整がなされているが、地域の有力者の調整により「公認候補」が全員当選している。ただし、このような事例が一般的かどうかの判断はつかない。

富岡署では署長が先頭に立って第四回調査をもとに町村役場を巡回するなどして参考資料を収集し、実際の調査は署員二人一組で行っている。その後、監督局長以下の実況見分があり、これによる修正を経て監督局に提出されたものと思われる。そして明治四十三年十月十日に開会された調査委員会に、主税局の裁定による宅地等級及び賃貸価格表が提出された。調査委員会は委員の互選により会長を選出し、二十日まで休会となっている。この間に議案の検討がなされたのであろうか。議事再開初日の二十一日には基本的に是認している。そして調査委員の分担を定めて実地調査に移り、富岡町と下仁田町の最高等級を一等級下げ、それをもとに町村の権衡を調整している。この結果、署の同意を得て賃貸価格の総額において五千五百円余の減額を決議し、十一月五日に閉会した。

なお、表3に全国の調査委員会閉会期日の一覧を掲げておく。調査委員会の決議を不当として再議となったのは、全国で五つの調査委員会である。このうち熊本局の平戸・中津の調査委員会は、再議後の決議で決定された。しかし京都局の上市・魚津両署と仙台局の白河署の調査委員会は、再議も不当として政府決定になっている。

おわりに

この叢書の構成に従って、地租条例以降の地租制度の概要を記してきた。史料集には、地租に関する新しい史料を提供することを目的に、これまで利用される機会が少なかった租税史料館所蔵史料を可能な限り全文掲載するようにした。ただ、地租制度そのものについての理解も必要と考え、地租条例などの法令や税法審査委員会報告などの比較的入手し易いものも、あえて収録している。この史料集が、地租制度の研究に利用され、新たな地租制度の研究が発展することを期待したい。また、スペースの関係で掲載を見送らざるを得なかった多くの史料についても、今後の研究のなかで利用が進められることを願っている。               

(牛米 努)

(1) この史料集の時期にかかわる、大蔵省編纂の明治期の地租に関する基本文献は、以下のとおりである。
  • 明治財政史編纂会編『明治財政史』第五巻(明治三十七年、丸善株式会社)
  • 大蔵省編『明治大正財政史』第六巻(昭和十二年、財政経済学会)
  • 大内兵衛・土屋喬雄編『明治前期財政経済史料集成』第七巻(昭和八年、改造社)
(2) 地租改正および地租条例の制定については、福島正夫『地租改正の研究(増訂版)』(昭和四十五年、有斐閣)を参照のこと。地租改正研究の代表的な業績である。
(3) 前掲註(1)『明治前期財政経済史料集成』第七巻、三五七頁。
(4) 主税局および府県収税機構については、牛米努「国税徴収機構形成史序説―租税出張所から税務管理局まで―」『税務大学校論叢』39(平成十四年、税務大学校)を参照のこと。
(5) 「有尾重敬履歴」一八頁(有尾重敬『本邦地租の沿革』一九七七年、御茶の水書房)。
(6) 前掲註(3)『明治前期財政経済史料集成』第七巻、四〇〇頁。なお、鈴木芳行「明治前期福島県作成の更正地図」『税務大学校論叢』35(平成十二年、税務大学校)には、福島県の「地押事業顛末上申」が全文引用されており、福島県の地押調査の概要が判明する。
(7) 地租改正資料刊行会編『明治初年地租改正基礎資料』上巻(改訂版)四六一頁(昭和四十六年、有斐閣)。
(8) 前掲註(1)『明治財政史』第五巻、六九三頁。
(9) 牛米努「明治21年の地籍条例案について」(『租税史料館報』平成17年度)を参照のこと。
(10) 大蔵省百年史編集室編『大蔵省人名録―明治・大正・昭和―』一二五頁(昭和四十八年、大蔵財務協会)。
(11) 「目賀田家文書」第五号(ゆまに書房『近代諸家文書集成』マイクロフィルム版)による。なお、原史料は、現在は国立公文書館に所蔵されている。
(12) 現行の地価課税に対しては、地租条例制定前後より収益課税とする考え方が政府内外において出されている。それは元老院における地租法審議や、立憲改進党の尾崎行雄『地租改正私議』(明治十六年)などでも明らかである。尾崎については、林茂「尾崎行雄の地租軽減論」(宇野弘蔵編『地租改正の研究』上、一九五七年、東京大学出版会。後に同『近代日本政党史研究』みすず書房、一九九六年に再録)を参照した。
(13) 「第一期帝国議会貴族院事務局報告」(『帝国議会貴族院事務局報告』1一九九九年、クレス出版)。
(14) 『福島県史』第四巻、五九一〜五九二頁(昭和四十六年、福島県)。
(15) 黒田展之『天皇制国家形成の史的構造―地租改正・地価修正の政治過程―』四七〇〜四七四頁(一九九三年、法律文化社)。なお、史料10の本文のみは、『三重県史』資料編近代一(昭和六十二年、三重県)にも収録されている。
(16) 前掲註(12)「第一期帝国議会貴族院事務局報告」。
(17) 『帝国議会衆議院速記録』一三(昭和五十五年、東京大学出版会)。
(18) 『帝国議会貴族院速記録』一四(昭和五十五年、東京大学出版会)。
(19) 「公文類聚」第二十二編、第二十一巻(国立公文書館所蔵)。
(20) 丸井佳寿子他編『福島県の歴史』二六七〜二六八頁(一九九七年、山川出版社)。
(21) 『帝国議会衆議院速記録』二二(昭和五十五年、東京大学出版会)。
(22) 『帝国議会衆議院速記録』二四(昭和五十六年、東京大学出版会)。
(23) 「宅地ニ関スル例規綴」(昭53 東京 127)。

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