峪 和生
税務大学校
研究部教育官
平成27年1月以後に開始する相続については、相続税の基礎控除が引き下げられた。この改正に伴い、相続税の課税対象となる者が大幅に増加している。
他方、相続税の税務調査の内訳を見ると、非違財産は現金預貯金が多く、金融資産は申告漏れになりやすいことがうかがえる。
近年、上位の富裕層を中心に国外への資産移転や一般社団法人等を利用した租税回避が行われており、それらを防止するための対策を講ずることは重要であるが、それ以外にも、経済社会の構造変化、資産価値の上昇により、多額の金融資産を有する富裕層も増加していると言われている。金融資産の蓄積が進みその運用の範囲の多様化やいわゆるタンス預金の増加により金融資産の把握が困難になっており、また、個人の権利意識の高まりにより相続人間の紛争が増加していることから相続税の申告や税務調査においても相続人の協力が得にくくなっている。これらの状況と課税件数の急増とが相俟って、相続税の税務調査を巡る環境は厳しくなっている。
とりわけ、金融資産については、相続開始直前に多額の預金が引き出されているにもかかわらず、相続開始時に誰がどのような形態で保有していたのか特定できない事例も多く、課税要件事実の確認が不十分となることがあるが、これらの使途を解明することは税務調査においても重要な論点となる。
そこで、適正公平な課税を確保する観点から、このような事例への対応策も検討する必要があるため、我が国及び外国の既存の制度を参考にしつつ、相続財産の把握の精度を上げ、納税者のコンプライアンスの向上に資する手法を検討する。
(1)所在不明財産の課税等の状況
被相続人が生前のある時期に広い意味で有していた財産は、相続開始時には、被相続人名義で被相続人が管理していたもの、
他人名義だが被相続人が管理していたと認められるもの、
所在が不明のもの、
費消・贈与されたもの及び
被相続人名義だが由来・管理ともに他人のものに類型化できる。ここで、
は当然課税対象である。
はいわゆる名義預金のように実質課税の原則により課税対象となる。
については、
との判別も含め把握できず課税が困難な部分である。
と
は、相続開始日において被相続人の財産ではないため、一定の加算措置がある場合を除き相続税の課税対象にはならない。本稿では
が問題となる。
(2)財産の所在を把握するための仕組み
課税当局による財産の把握を向上させるためのインフラ整備として、近年、財産債務明細書から財産債務調書への改編、
海外財産等に対する課税の強化(国外財産調書の創設、共通報告基準(CRS)に基づく自動的情報交換制度の導入、納税義務の範囲の拡大、富裕層PTの創設)及び
マイナンバー制度の導入・拡充などが行われている。これらの整備は、相続財産の所在確認に一定の効果があると考えられる。
(3)課税要件事実の確認が不完全なものに対する課税
質問検査権を行使し課税資料を収集しても、課税要件事実を完全に把握するには不十分となる場合がある。そのような場合に課税当局が行う課税方法として、推計課税と移転価格税制における独立企業間価格の推定規定がある。
イ 所得税等における推計課税
(イ) 制度の概要
推計課税は、納税者の協力が得られない場合など、課税のための直接資料が入手できない場合に、負担公平の観点から、各種の間接的な資料を用いて所得を認定する方法であり、主要な方法として比率法、効率法を中心に資産増減法などがある。その適用は、必要性及び合理性がある場合に可能と解されている。また、推計課税は明文の規定がなくとも適用可能とされており、明文の規定がない消費税においても推計課税が行われる。
(ロ) 相続税との差異
所得税等の推計課税は、所得の帰属者が確定していること、
期間損益の算定に際し不足する資料を埋めるためのものであることという特徴があるのに対し、相続税の場合は、
財産の取得者が不明であること、
個別性が強く、同業者との比較によることができないことという点が異なる。
ロ 移転価格税制における独立企業間価格の推定
(イ) 制度の概要
移転価格税制において、独立企業間価格を算定するために必要な書類を求めた場合においてその提示等がなかったときに行われる推定は、取引価格の決定根拠や他の通常の取引価格に関する情報について納税者側から資料提供という形で協力が行われることが極めて重要であること、
仮に納税者から協力が得られない場合に課税当局が何の手だてもなくこれを放置せざるを得ないこととなれば、移転価格税制の適正公平な執行を担保し難いことから、認められているものである。
なお、独立企業間価格を算定するために必要と認められる書類(ローカルファイル)については、BEPSプロジェクトを踏まえ、平成29年4月1日以後に開始する事業年度から作成・保存が明確に義務付けられている。
(ロ) 相続税との差異
相続税との差異は、上記イの推計課税の場合と同様である。
ただし、一義的には納税者が論点を解明(合わせて書類を作成保存)したうえで申告し、更なる問題があれば税務当局が更正を行うという手法は相続税においても採用可能と思われる。
ハ 小括
所得税等では、必要性があり合理性が確保される場合には推計を用いた課税を行うが、相続税では合理性の面で推計による課税が困難であると考えられる。このため、納税者が非協力的であった場合などは、課税当局が完全に所在を把握できた資産についての課税にとどまり、適正な課税ができているかという懸念が残る。
(4)韓国における「相続推定財産」制度
所在不明財産に対する課税漏れに対抗するものとして、韓国では所在不明財産を相続財産と推定して課税する制度が導入されている。
イ 制度の概要
預金を引き出し、現金などの把握が困難な資産に変換して相続税を免れようとする者に対し、相続税の不当な軽減を防止するため、被相続人の生前1年以内に2億ウォン(約2,000万円)以上又は2年以内に5億ウォン(約5,000万円)以上の預金の引出し等があった場合において、相続人がその使途を証明できないときは、その差額を相続により取得したと推定して相続税を課税する規定である。
ロ 日本と韓国の相続税の課税方式等の差異
(イ) 課税方式の差異
日本の相続税は遺産取得課税方式であるのに対し、韓国の相続税は遺産課税方式である。したがって、遺産そのものに着目して課税されるので、所在不明財産についても、その取得者を特定する必要はない。ただし、遺産課税方式でありながら相続人個々の事情に配慮した人的控除が存在し、贈与税は取得者課税である。
(ロ) 税額確定方式の差異
日本の相続税は申告納税方式であるのに対し、韓国の相続税は賦課課税方式といえる。ただし、申告期限内に情報申告を提出し、税額を自主納付した場合には相続税額を減額する規定がある。
ハ 小括
日本の相続税は韓国の相続税と課税方式及び税額確定方式が異なることから、推定課税の仕組みをそのまま導入するのは理論的に困難との考えもあろう。
ここで、諸外国の立法例を見ると課税方式と整合的に制度の細部までが定められているわけではない。また、「財産」自体は課税当局によって確認されていないという点は両方式に共通であり、適正公平な課税のために許容されるかどうかの問題であろう。また、申告納税方式か賦課課税方式かという差異は税額確定手続に関する差異であり、相続推定財産制度に決定的な差を生じるものではないと考えられる。
(5)所在不明財産に適切に課税する仕組みの検討
以上を踏まえ、相続税において所在不明財産を少なくし、かつ、適正に課税財産に取り込むためには以下のような対応策が考えられる。
イ 法定調書の活用等による納税者コンプライアンスの向上
(イ) 法定調書の活用
財産債務調書については、新制度での提出が始まって日が浅いため、その効果を注視する必要がある。加算税の増減という効果を生じさせる法定調書として、できる限り詳細に記載させるべく引き続き誘導する必要がある。
(ロ) 法定調書の充実
高額の資金移動を把握しやすくするため、金融機関での口座開設の際や高額の出金があった際に提出される新たな法定調書制度を創設することも有効である。
ただし、基準等については、検討を要する。
(ハ) 番号制度の拡充
課税当局が死亡者のマイナンバーを自動的に入手できる仕組みを構築する必要がある。また、将来的には、各国で活用可能な国際的な番号制度も有効であろう。
ロ 使途の自主的解明による納税者コンプライアンスの向上
(イ) 納税者から使途を申告する仕組み
相続開始前1年前から相続開始日までの間において預貯金口座から一定金額以上の金銭の引出しがあった場合には、納税者(相続人)がその使途を解明した書類(使途解明書類)を申告書に添付することを制度化する。申告納税の趣旨、立証責任、課税方式との関係など、現行の考え方を大きく変更することなく、納税者のコンプライアンスの向上も期待できる。実務上は、相続税の場合、現在でも税理士関与割合が高く、また、税理士法33条の2の書面を添付した事案も増加していることから、新たに過重な負担を求めるものではないと考える。また、これにより課税当局は税務調査において使途確認に要する時間を一定程度削減し、他の調査に振り向けることができる。
(ロ) 担保措置としての加算税の加重措置又は軽減措置
上記(イ)の使途解明書類の適正な提出を担保するため、使途解明書類に記載されていない部分について、税務調査において更なる解明ができた場合には、その部分に係る相続税額については、過少申告加算税を通常より割増しする仕組みを検討する。他方、記載されている部分について申告漏れがあった場合には、加算税を軽減することも考えられる。
ハ 推定で課税する仕組み(相続推定財産課税制度)
相続開始前1年以内の一定金額以上の支出額から使途解明書類で明らかになった金額を控除した差額を被相続人から相続により取得した財産と推定して課税する。推定規定であることから、納税者は反証により推定を破ることができる。
その場合、法律に推定規定を置いたうえで、一義的には納税者にその規定に基づく申告・納付を求め、それがない、または金額に疑義がある場合には税務署長が更正をすることが考えられる。
ニ 納税者の権利の保護
(イ) 適用要件の明確化
上記ロの措置は、適用要件は明確である。過少申告加算税の加重措置の対象となる財産の原資の認定などの技術的問題は残るものの、特段の問題は生じない。
上記ハの相続財産推定課税は、「相続開始前一定期間内に一定金額以上の預貯金口座からの金銭の引出しがある場合には、その出金額から使途解明書類によって使途が明らかにされた金額(及び一定の金額)を控除した差額については、被相続人からの相続により取得したものと推定して課税価格を計算する」とし、加えて各相続人が法定相続分で取得したものと推定すれば、法令上の適用要件としては明確である。
しかしながら、課税要件事実の存否については原則として課税当局が立証責任を負うとされる我が国の租税制度においては、受け入れられにくい可能性がある。また、納税者の反証は「ないことの証明」となる。
(ロ) 真に財産の取得を知らない者
過少申告加算税は正当な理由がある場合以外は賦課されるため、上記ロ(ロ)の過少申告加算税の加重措置も、現行の過少申告加算税と同様、基本的には全ての相続人に適用されると考える。国外財産調書及び財産債務調書に係る過少申告加算税の軽減措置についても、軽減部分の特段の扱いは定められていない。
上記ハの推定課税を行う場合、一定額を控除することとすれば、推定課税により課税される税額は実際の不明額に対応する税額より小さいものとなるため、実質的な緩衝策となると考えられる。
利益同一集団である各相続人間であれば、消極的にせよ各納税者の関与が推定されるが、納税者が何らの関与もないことを立証すれば推定課税は適用されない、という対応が可能ではないか。その場合、納税者は、自らが関与していないことを、おそらく間接資料の積み上げによって立証すれば良いと考えられる。それにより相続人相互間での牽制が働き、コンプライアンスの向上にもつながる。
本稿では、相続税の課税要件事実の確認が十分でない場合への対応案を検討した。
まず、財産債務調書を詳細に記述すること、マイナンバー制度を更に有効に活用することを提案した。
次に、相続税の申告書に使途解明書類の添付を義務付けることとし、その適正な提出の担保のための措置として、過少申告加算税の加重措置及び軽減措置を講ずることを提案した。
最後に、預貯金口座から引き出された金銭の額から使途解明書類により解明された金額及び一定金額を控除した差額を相続により取得したものと推定して相続税を課税する措置を提案した。
については、我が国の租税制度においては課税要件事実の存否については原則として課税当局が立証責任を負うとされること、真に取得の事実を知らない納税者にとってその反証は「ないことの証明」とならざるを得ないことにも留意する必要があるが、他方、被相続人が既に死亡していることを奇貨として申告をしない納税者が存在することもまた事実であり、租税負担の公平の観点から、このような納税者への課税を放棄するわけにはいかないと考える。
導入の難易度はから
の順に高いと思われるが、具体的にどの程度の措置を講ずべきかについては、近年充実してきている納税環境整備の効果や税務執行の状況を見極めたうえで定められるべきであり、納税者の意識の変化も踏まえ、その時代に適した対応を取る必要があろう。
項目 | ページ |
---|---|
はじめに | 97 |
第1章 所在不明財産の課税の状況等 | 100 |
第1節 具体的事例の検討 | 100 |
1 相続税の課税対象財産の構成 | 100 |
2 事例 | 101 |
3 所在不明財産の申告実務(実務家の見解) | 104 |
第2節 財産の所在を把握するための仕組み | 105 |
1 財産債務調書 | 106 |
2 海外財産等の課税の強化 | 108 |
3 マイナンバー制度 | 112 |
第2章 課税要件事実の確認が不完全なものに対する課税 | 117 |
第1節 所得税等の推計課税 | 117 |
1 所得税及び法人税の推計課税 | 117 |
2 消費税の推計課税 | 119 |
3 相続税との差異 | 121 |
第2節 移転価格税制における独立企業間価格の推定 | 124 |
1 概要 | 124 |
2 相続税との差異 | 126 |
第3章 韓国における「相続推定財産」制度 | 128 |
第1節 制度の概要 | 128 |
1 韓国相続税の概要 | 128 |
2 相続推定財産制度の概要 | 129 |
3 相続推定財産制度の趣旨 | 132 |
第2節 日本と韓国における相続税の課税方式等の差異 | 133 |
1 課税方式(税額計算の方式)の差異 | 133 |
2 税額の確定方式の差異 | 136 |
3 小括 | 137 |
第4章 所在不明財産を適切に課税する仕組みの検討 | 140 |
第1節 法定調書の活用等による納税者コンプライアンスの向上 | 140 |
1 法定調書の活用及び充実 | 140 |
2 個人番号の活用 | 141 |
第2節 使途の自主的解明による納税者コンプライアンスの向上 | 142 |
1 納税者から使途を申告する仕組み | 142 |
2 記載内容と立証責任 | 145 |
3 加算税の調整 | 146 |
4 他の論点 | 151 |
5 小括 | 153 |
第3節 相続財産の推定課税導入による納税者コンプライアンスの向上 | 153 |
1 相続税の推計課税の可否 | 153 |
2 相続財産の推定課税 | 154 |
3 留意点 | 158 |
第4節 納税者の権利の保護 | 160 |
1 適用要件等の明確化 | 160 |
2 真に財産の取得を知らない者への対応 | 161 |
3 その他 | 164 |
おわりに | 165 |
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