岩淵 浩之
税務大学校
研究部教授


要約

1 研究の目的(問題の所在)

近年、取消訴訟係属中の課税処分等に係る差押財産の換価により、滞納者が「重大な損害」を受けるおそれがあるとして、裁判所が公売処分の執行停止を命じる事例が発生している。
 滞納処分に対する執行停止申立ては、その大部分が公売処分の停止を求めるものであり、公売処分が停止すると、高額・悪質な滞納事案の処理が停滞するなどその影響は小さなものではない。
 執行停止の申立てがあると、裁判所から短期間で意見書の提出が求められる。この場合、「重大な損害」等に関する申立人の主張に対し、迅速・的確に処分庁としての意見を述べる必要があるが、平成16年に損害に関する要件が緩和されたことや適法な滞納処分により発生する損害が「重大な損害」に該当する場合があるなど、何が「重大な損害」に該当するかについて、十分な整理がされていない状況にある。
 そこで、本研究では、執行停止に関する裁判例等を検証し、その内容を明らかにすることで、滞納処分における「重大な損害」等の具体的な適用関係を明確化したいと考えている。

2 研究の概要

(1)執行停止の意義等

イ 執行停止の意義(目的)
 わが国では、行政処分の取消訴訟が提起されても、当該処分の執行を停止しない「執行不停止原則」を採用している(行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)25条1項)。しかし、この執行不停止原則の下では、取消訴訟に勝訴しても、既に自己の財産に回復困難な事実が発生し、実効的な権利救済が図られない場合が生じ得る。
 そこで、行訴法25条では、取消訴訟の勝訴判決の価値及び効果を失わせないため、暫定的な救済措置として、申立人の権利利益を仮に保護する執行停止制度が規定されている。

ロ 執行停止の効果
 執行停止の効果は、決定時から将来に向かってのみ生じるもので、発生した損害の原状回復を命じたり、遡及的に処分を取消すものではない。すなわち、執行停止を求める処分が終了している場合、執行停止は認められない。

ハ 執行停止の内容
 執行停止には、1処分の効力の停止、2処分の執行の停止、3手続の続行の停止がある(2又は3で執行停止の目的が達成される場合、1をすることはできない。)。

(2)重大な損害を避けるため緊急の必要があること(積極的要件)

執行停止の成立には、処分により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があることが必要である。本要件の疎明責任は申立人が負っている。

イ 損害概念の変遷と裁判例の傾向
 本要件の「重大な損害」との文言について、戦後、執行停止制度が初めて整備された行政事件訴訟特例法(以下「行特法」という。)では「償うことのできない損害」と規定していた。その後、昭和37年に創設された行訴法では「回復の困難な損害」に、そして、平成16年には現在の「重大な損害」に順次改正されており、これらの見直しはいずれも損害要件を緩和したものとされている。

1 「償うことのできない損害」(行特法10条2項(昭和23年施行))
 「償うことのできない損害」とは、原状回復不能の損害または金銭賠償不能の損害を意味する(最大決昭27・10・15民集6・9・82頁)。

2 「回復の困難な損害」(旧行訴法(昭和37年施行))
 「回復の困難な損害」とは、原状回復不能の損害または金銭賠償不能の損害に加え、金銭賠償が可能でも、社会通念上それだけでは填補されないと認められる著しい損害も含む(東京高決昭41・5・6行裁例集17・5・463頁)とされている。「回復の困難な損害」への改正は、損害範囲の拡大により要件を緩和したものである。

3 「重大な損害」(新行訴法(平成17年施行))
 「重大な損害」は、損害の回復の困難の程度を考慮し、損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案して判断する(新行訴法25条3項)との解釈指針となる規定が新設されている。「重大な損害」への改正は、損害や処分全般を総合的に考慮すべきことを明記し、柔軟な解釈を可能とすることで、執行停止を認められ易くしたものである。

4 裁判例の傾向
 現在では、執行停止の損害要件を認定する事例であっても、行特法時代の裁判例では、より厳格に解釈し、損害要件を認定しない場合がある。

ロ 滞納処分に関する重大な損害の意義
 滞納処分に関する重大な損害の認定は、滞納処分の行政目的と申立人の損害を比較衡量し、行政目的を一時的に犠牲にしても救済する必要性の有無で判定する(大阪高決平24・3・12税資徴収関係判決順号24-16)。

滞納処分に関する重大な損害の意義の説明図

1 行政目的〔A〕
 滞納処分の行政目的(公益性)は、「国民の納税義務の適正な実現を通じて国税収入を確保すること」とされており、一般的な概念で、個別性はない。
 滞納処分の内容及び性質については、「高度の公益性を有する」(大阪高決平24・3・12税資徴収関係判決順号24-16)ものの、差押えにより国税債権を確保している場合、処分を急ぐ必要性は高くないとされている。

2 申立人の損害〔B〕
 滞納処分による損害の性質は、財産的損害(事後的な金銭賠償による救済が可能な損害)とされ、原則として、執行停止の対象とならないが、その損害の程度が著しく大きい場合(申立人の資産・事業規模等と相対的に比較)は、重大な損害が認定され易くなる。
 損害回復の困難の程度とは、「重大な損害」の前に「回復の困難な損害」として損害判定の基準とされていたものであり、これまでの裁判例では「事後的な金銭賠償だけでは償いきれない損害」が認定された場合に、執行停止の損害に関する要件が認定されている。

3 重大な損害の判定〔C〕
 滞納処分に関する裁判例では、行政目的〔A〕と申立人の損害〔B〕を比較衡量し、申立人の損害に「事後的な金銭賠償だけでは償いきれない損害」が認められる場合に重大な損害の発生(救済の必要性)を認定している。

ハ 滞納処分に関する認容裁判例(38件)における損害等の態様
 本研究のために収集した滞納処分に関する裁判例は130件(公租公課全般を対象)であり、うち認容決定をした38件の損害等の態様は次のとおりである。

損害等の態様 件数 備考
1自宅を失う損害 8 自宅の喪失自体に損害を認定
2生活困難 2 農地公売により主要な収入を失うもの
3事業継続困難 7 工場、生産設備の重要な機械等の公売
4生命・身体に対する損害 1 病院の医療設備の公売による重症患者等の損害
5本案理由あり 12 本案訴訟で処分取消し等となる可能性が高いとみられるもの
6僅少な滞納額に比べ高額な財産の公売 3 3件とも昭和28年〜31年の発生で、超過差押えの禁止規定のない旧国税徴収法時代のもの
7その他 5 特殊事情があるもの、内容不明等
合計 38

滞納処分により生ずる損害について、上記のうち、1自宅を失う損害、2生活困難、3事業継続困難、4生命・身体に対する損害が認められる場合は、「事後的な金銭賠償だけでは償いきれない損害」に該当し、「重大な損害」が認定されることになる。なお、本案に理由がある場合(本案訴訟で処分取消し等となる可能性が高い場合)は、損害が認定される可能性が高くなると考えられる。

ニ 損害要件を否定した主な裁判例

(不動産関係)

1 居住用不動産の公売について、申立人が居住していない(申立人の従業員が居住している)こと又は申立人の生活の本拠でないこと。

2 本社事務所を失うこと(事務所の移転は滞納処分に限らず生じ得るとの理由)。

3 申立人等が多額の資産を有し、滞納税額の完納(滞納処分の回避)が格別難事ではないこと。

4 公売財産(田)以外に田地を有し、他に収入もあるため生活に支障が生じないこと。

(その他財産)

1 預金債権の差押えにより弁済を受けられない債権者の損害(申立人以外の第三者の損害が執行停止の損害の対象となることを否定)。

2 滞納会社が事実上事業を停止していること。

3 申立人は倒産に瀕しており、執行停止をしても申立人の運命を左右しないこと(倒産に瀕している経営状況が回復しないこと)。

4 愛着があり再取得困難な美術品、高級外車等のぜいたく品を失うこと。

ホ 緊急の必要があること
 重大な損害があれば緊急の必要性もあるとして、裁判例では一体として判断されている。

(3)執行停止申立てが一般的訴訟要件を具備すること(積極的要件)

執行停止の成立には、その申立てが当事者適格や申立ての利益など一般的訴訟要件を具備することが必要である。本要件の疎明責任は申立人が負っている。
 特に、申立ての利益は、1滞納処分が終了している場合、2拒否処分の場合又は3執行停止をしても損害を避けられない場合は存在せず、不適法な申立てとなる。

※ 課税処分と滞納処分は行政目的が異なり違法性は承継しないが、課税処分の取消訴訟を本案とし、滞納処分を続行処分として執行停止を求めることは適法とされる。

(4)本案が適法に提起され係属していること(積極的要件)

執行停止の成立には、1執行停止決定時までに本案訴訟が提起され係属していること及び2本案訴訟が当事者適格や不服申立て前置等の一般的訴訟要件を具備することが必要である。本要件の疎明責任は申立人が負っている。

(5)公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあること(消極的要件)

執行停止により、公共の福祉(公益性)に重大な影響を及ぼすおそれがある場合は、執行停止は認められない。執行停止による公益性への影響は、重大な損害判定時に申立人の損害と比較衡量されるため、本要件の適用は、処分により生ずる損害との比較衡量の余地がないような極めて重大な影響を及ぼす場合に限られる。滞納処分の場合、公益性(国税収入の確保)への影響は限定的であり、本要件を適用する場面は基本的にないと考えられる。本要件の疎明責任は、相手方行政庁が負っている。

(6)本案について理由がないとみえること(消極的要件)

本案訴訟について理由がないとみえるときは、執行停止は認められない。具体的には、1申立人の主張に明らかに理由がないとき又は2行政庁において係争処分が適法要件を具備し、瑕疵のないことを疎明した場合が該当する。本要件の疎明責任は、相手方行政庁が負っている。

3 結論

滞納処分による損害が「重大な損害」に当たるか否かの判定は、次のとおり(1)の「重大な損害となる可能性が高い損害」に該当し、(2)の「重大な損害を否定する事実」に該当しない場合に「重大な損害」として認定することになる。
 なお、「重大な損害」に当たらないとした場合も、本案に理由がある場合(処分取消し等となる可能性が高い場合)は、重大な損害が認定される可能性が高くなる。

(1)重大な損害となる可能性が高い損害

1 自宅として使用する居住用不動産を失うこと(申立人が居住していない、生活の本拠ではない等実質的に申立人の自宅と認められない場合を除く。)

2 生活困難

3 事業継続困難

4 生命・身体に対する損害

※ 申立人の資産・事業規模等と比較し、損害の程度が著しく大きい場合は、上記の損害が認定されやすくなる。

(2)重大な損害を否定する事実

A 申立人が事業を停止(事実上停止を含む。)している場合

B 執行停止をしても申立人の事業停止を回避できない場合

C 申立人が滞納税額を完納できる十分な資産等を有するなど、滞納処分を回避することができる場合(申立人が滞納者以外の第三者である場合を除く。)

D 公売財産以外に資産や収入等があり、生活(事業の継続)に大きな支障が生じない場合

E 申立人以外の損害である場合


目次

項目 ページ
はじめに13
第一章 執行停止制度の意義と沿革15
第一節 執行停止の意義15
1 執行不停止原則15
2 執行停止制度の目的16
3 執行不停止原則の例外規定17
第二節 執行停止の沿革18
1 明治憲法下の執行停止規定18
2 行政事件訴訟特例法の制定18
3 行政事件訴訟法の制定19
第三節 平成16年改正の経緯と内容20
1 平成16年改正の経緯20
2 平成16年改正の概要(仮の救済関係)21
3 平成16年改正行訴法の施行5年後の検討結果22
第二章 執行停止の要件25
第一節 執行停止の要件(概説)25
1 手続的要件25
2 実体的要件25
第二節 執行停止の手続的要件26
1 執行停止申立てが一般的訴訟要件を具備していること26
2 本案が適法に提起され係属していること38
第三節 執行停止の実体的要件41
1 処分の執行等により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があること41
2 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあること52
3 本案について理由がないとみえること53
第三章 執行停止の審理手続及び効力等55
第一節 執行停止の審理手続55
1 手続の開始55
2 審理55
第二節 執行停止の効力57
1 自縛力(羈束力)57
2 形成力58
3 拘束力59
第三節 執行停止決定に対する不服申立て61
1 不服申立て制度創設の経緯61
2 即時抗告等の概要61
第四章 その他の仮の救済制度63
第一節 国税に関する不服申立てと仮の救済(徴収関係)63
1 国税に関する不服申立てと徴収との関係(概説)63
2 換価の停止64
3 徴収の猶予等65
4 差押えの猶予66
第二節 行政不服審査法における不服申立てと仮の救済66
1 執行不停止原則の採用66
2 裁量的執行停止67
3 義務的執行停止67
第三節 仮の差止め制度68
1 仮の差止め制度の趣旨68
2 仮の差止めの要件69
3 執行停止と仮の差止めとの関係73
第五章 滞納処分における執行停止の裁判例75
第一節 滞納処分における執行停止裁判例の概況75
1 発生・決定状況75
2 執行停止事件の特徴76
第二節 重大な損害等に関する裁判例77
1 損害概念の変遷と裁判例の傾向77
2 滞納処分に関する重大な損害の意義82
3 具体的な事例における重大な損害等の判断(裁判例概観)86
第三節 公共の福祉に関する裁判例116
1 公共の福祉に関する裁判例の概況116
2 滞納処分に関する具体的な裁判例117
第四節 本案について理由がないとみえることに関する裁判例118
1 本案について理由がないとみえることに関する裁判例の概況118
2 滞納処分に関する具体的な裁判例118
第六章 滞納処分における執行停止の適用関係124
第一節 執行停止要件の判定124
1 「執行停止申立てが一般的訴訟要件を具備していること」の判定124
2 「本案が適法に提起され係属していること」の判定127
3 「重大な損害を避けるため緊急の必要があること」の判定128
4 「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあること」の判定131
5 「本案について理由がないとみえること」の判定131
第二節 差押処分の効力停止申立てに関する考察132
1 問題の所在132
2 差押処分の効力停止について考慮すべき事項133
3 本事例についての考え方134
第三節 滞納処分前の執行停止申立てに関する考察134
1 問題の所在134
2 本事例についての考え方(考慮すべき事項)134
結びに代えて136

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