原 正子
税務大学校
研究部教授


要約

1 研究の目的(問題の所在)

 個人所得課税における所得控除の在り方を巡っては、「あるべき税制の構築に向けた基本方針」(平成14年6月、税制調査会。)において、諸控除については、できる限り簡素化・集約化し、中立的な税制を目指すとともに、課税ベースを拡大する方向でその在り方を見直す必要があるとされ、これを踏まえて、人的控除以外の控除に関しては、1社会保険料控除については、年金制度が多様化し、任意性の強い拠出も見られてきているので、その対象範囲を吟味していかなければならない、2政策的措置としての控除(生命保険料控除、損害保険料控除等)については、これらが税制の歪みを助長し、更には空洞化の一要因となっていることから、より厳しくその妥当性を吟味の上、廃止を含め見直す必要がある、とされた。
しかしながら、所得控除のうちいわゆる人的控除以外のものについては、上記の基本方針が示された後も改正が行われていない、又は、改正は行われたが簡素化・集約化や課税ベースの拡大に資する改正になっているとは言い難い状況にある。これは、理論的にみれば廃止すべきと結論付けられる控除であっても、幅広く適用されている現状等に鑑みれば現在においてもなお存在意義や必要性が全くないとは言い切れず、その廃止が容易ではないことなどが理由なのではないかと考えられる。
そこで、本研究においては、視点を変え、現行の人的控除以外の所得控除全てを存続させることを前提とした上で、各控除につき課税ベース拡大に向けて合理化できる部分はないか検討するとともに、所得控除の簡素化・集約化の一方策として、米国の標準控除のような概算的な所得控除制度を我が国に導入することの可能性について検討することとする。後者の検討に当たっては、我が国において昭和30年に租税特別措置法において導入されたが2年で廃止となった概算所得控除(以下「旧概算所得控除」という。)の制度に係る議論・批判を踏まえ、これを行うこととする。

2 研究の概要(現状等)

(1)各控除の合理化の可能性についての検討
現在の医療費控除制度は、足切限度額として定率基準(総所得金額の5%)と定額基準(10万円)とが併用されている結果、例えば総所得金額が1,000万円超の納税者については、医療費支出の金額が総所得金額の1%未満であっても医療費控除を受けることが可能となっており、「異常な医療費支出による担税力減殺を考慮する控除」と言えるか疑問なしとしないところである。
このような状況の原因は定額基準の存在・水準にあるところ、1制度創設時には定率基準のみであったこと、2医療費控除の趣旨や垂直的公平の観点からすれば定額基準には合理性が認め難いこと、3高所得であればあるほど定額基準の適用による課税所得金額減額効果が大きくなっており定額基準は所得再分配機能の低下に拍車をかける一因となっていると考えられること、4米国においては医療費控除の足切限度額として定率基準しかないこと、からすれば、定額基準は廃止すべきと考える。
また、基本的には任意性の高い支出については控除を認めるべきではないことから、各控除につき、控除対象範囲の見直しをすべきと考える。

(2)米国の標準控除制度

イ 標準控除制度の概要
標準控除は、項目別控除を選択しない納税者につき、課税所得金額算出に当たり、調整総所得金額から、人的控除等(納税者本人、配偶者及び扶養親族に係る控除)とともに控除することとされているものである。実際の支出額の多寡にかかわりなく選択することができるが、非居住外国人である場合など一定の場合には選択することができないとされている。また、その金額は、申告資格に応じて法定された一定金額(ただし物価水準に応じ調整される)となっている。

ロ 標準控除制度に係る議論
標準控除は、1944年、個人の低所得者である納税者の申告準備や申告内容の調査の簡便化を目的として導入されたものであり、項目別控除に係る負担を取り除く、いわば簡素化の手段として有益であるのみならず、一般的には税制の累進性を強化する面を有すると言われている。
他方、標準控除は、項目別控除の政策目的を妨げるものであるとも言われている。また、実際の支出額の有無・多寡にかかわらず選択できることから不公平な控除であるとの指摘もある。

ハ 標準控除制度についての私見
申告において標準控除を選択した者の割合は、近年は60%台半ばで安定しており、この制度が広く浸透し活用されていることがうかがえる。
また、調整総所得階層別に標準控除適用者数及び項目別控除適用者数を見てみると、実際に、低所得者は標準控除を選択する傾向にあることがうかがえるが、同時に、高所得者であっても標準控除を選択する者が少なからず存在する実態や、低所得者であっても項目別控除を選択する者が存在する実態が読み取れる。
これらのことからすれば、米国において、標準控除制度は、低所得者からのみならず高所得者からも、上記ロでみた問題点があることを踏まえてもなお有益な制度であると評価されているものと考えることができる。

(3)旧概算所得控除の制度

イ 概要
旧概算所得控除は、低額所得者について一層の負担軽減を図ることをねらいとして導入されたものであり、納税者(居住者に限る。)の選択により、社会保険料控除、医療費控除及び雑損控除に代えて、総所得金額等の5%に相当する金額又は1万5千円のいずれか少ない方の金額(以下、これらを併せて「旧概算所得控除額」という。)を所得から控除することを認めるものであった。
手続としては、この控除を受けようとする者は、所得税の予定申告書、確定申告書、損失申告書、準確定申告書又は予定納税額減額申請書、予定納税額更正請求書に、これを選択する旨を記載し、これらの申告書等を期限内に提出しなければならないとされていた。
また、納税者が旧概算所得控除を受ける選択をした場合であっても、選択した日以後、選択を取り消して、医療費控除などを受けることが可能とされていた。
給与所得者については、社会保険料控除の額(年額)が旧概算所得控除額に満たない者についてのみ、年末調整において旧概算所得控除額を控除して税額調整を行うこととされていた(申告により、医療費控除等を受けることも可。)。

ロ 廃止に際しての議論・批判(指摘された主な問題点)

(イ) この制度は、医療費控除、雑損控除及び社会保険料控除の合計額が1万5千円を超える者については、何ら負担の軽減をもたらすものではないこと。

(ロ) 事業所得者については、一部を除き被保険者として強制的に社会保険料を負担させられることはないが、給与所得者については、原則として強制的に社会保険料が徴収されているため、事業所得者に比してこの控除による負担の軽減を受けることが少ないこと。

(ハ) 医療費控除、雑損控除は、医療費支出等により担税力が減少したと思われる者について特別の控除をするものであるのに対し、旧概算所得控除は、これらの控除原因を有しない者についても一般的に控除を認めるものであること。

(ニ) 控除項目が非常に多くその立証が甚だ困難であるというアメリカの税制とはその実情を異にすること。

(ホ) 医療費控除、雑損控除及び社会保険料控除とは相互選択とする一方で、生命保険料控除は並行して認めており、税制及びその執行を複雑化していること。

ハ 旧概算所得控除の廃止に際しての議論・批判を踏まえた私見
昭和30年当時と現在とでは、所得控除の種類が増加しているほか、所得控除の適用に係る手続要件の変更、所得税の申告の仕組みの変更が認められるなど、所得控除制度を取り巻く状況は大きく異なってきており、当時問題とされた事項が全てそのまま問題となるとは限らない。7つの所得控除全てに代える控除とする方向で、概算的な所得控除の導入を検討する意義はあるものと考える。

(4)概算的な所得控除制度の我が国への導入可能性の検討

イ 導入の是非

(イ) 概算的な所得控除制度のメリット及びデメリット
概算的な所得控除制度に、1不公平な面があること、2政策目的控除の妨げになり得ること、3導入により税収減をもたらすおそれがあること、といったデメリットがあることは否定できない。
他方、1納税者にとっては、申告に係る事務負担を軽減できるのみならず控除額算出の基礎となる証拠資料の保存が不要となること、2税務当局にとっては、確定申告等における納税者対応に係る事務負担及び申告内容の調査に係る事務負担(いずれも申告1件当たり)を軽減できるほか、納税者提出書類の減量化によりそれら提出書類の保存に伴う負担・リスクを軽減できること、3所得金額に連動しない定額の概算控除額とすることにより、格差の是正や所得再分配機能の回復に資すること、等のメリットもあるものと考えられる。

(ロ) デメリットの対応策等
デメリットの1点目については、「公平」と「簡素」の両立は困難であり、また、いかなる制度にしたとしても不公平さを完全に排することは不可能であると考えられることから、ここで検討すべきは、どのような内容・程度の不公平であれば許容され得るかであると考える。具体的な対応策としては、制度設計に当たり、所得水準が同じであれば所得稼得形態の差異によらず概算的な所得控除から同様の恩典が受けられるようにすることや、所得水準が異なる者の間の不公平の存在はやむを得ないとしてもその不公平につき正当化され得るものにすることなどが考えられる。
デメリットの2点目については、米国における標準控除による政策目的(控除)の阻害の程度も明らかではないことから、概算的な所得控除制度導入後、その導入による影響を分析した上で対応策を検討していくべきと考える。
デメリットの3点目については、上記(1)に述べた医療費控除制度の合理化などにより見込まれる税収増を財源とする方策を提案したい。

(ハ) 導入の是非に関する私見
年末調整制度が存在する我が国の現行の所得税制の下では、概算的な所得控除制度自体の有益性が限定的なものとなることは否定できないが、制度設計いかんにより、また所得控除の合理化と併せて導入するなどにより、その有益性を高めることは十分可能と考えられ、その導入を検討すべきと考える。

ロ 導入の可否
旧概算所得控除の制度が廃止された際の議論を踏まえれば、また、現在の社会経済情勢に鑑みれば、概算的な所得控除制度の導入の前提として、不公平さの最小化のほか、最低限以下の2点はクリアできていなければならないと考える。

(イ) 納税者及び税務当局における申告に係る事務負担増大のおそれがないこと
概算的な所得控除制度の導入により、申告1件当たりの納税者及び税務当局における申告に係る事務負担が軽減したとしても、申告件数自体が現行所得税制度下におけるそれより増加してしまうのであれば、総合的に見た納税者及び税務当局における申告に係る事務負担は、むしろ増大してしまうかもしれない。
したがって、現行所得税制度の下で年末調整により課税関係が完結する一定の給与所得者については、概算的な所得控除制度の導入後においても年末調整により課税関係を完結させられるような仕組みとすべきと考える。具体的には、年末調整の際に、源泉徴収義務者において、現在年末調整において税額計算上考慮されている4つの所得控除の合計額と概算的な所得控除額とを比較し、後者の方が大きい者についてのみ概算的な所得控除を適用するという方法が採り得るのではないかと考える。

(ロ) 財源の確保
上記(1)で述べた医療費控除等の合理化による税収増を財源に充てるという方法が採り得るのではないかと考える。

(ハ) 導入の可否に関する私見
以上のような方法により、概算的な所得控除制度の導入は可能と考える。

ハ 制度の仕組みについての試案

(イ) 所得税法第72条から第78条までに規定する実額による所得控除を原則とし、概算的な所得控除は、これら全てに代えるものとして納税者の選択により認めるものと位置付ける。なお、当該選択は、課税年分ごとに、確定申告書や還付を求める申告書にこれを選択する旨記載することにより行うこととする。

(ロ) ただし、年末調整の場面においては、源泉徴収義務者は、社会保険料控除等の合計額が概算的な所得控除額に満たない場合は納税者により概算的な所得控除が選択されたものとみなしてこれを適用することとする。なお、この場合であっても、納税者は実額による所得控除の適用を希望するときには、確定申告等によりそれを適用することができることとする。

(ハ) 概算的な所得控除を選択できる者は、1年を通して居住者であった者とする。

(ニ) 概算的な所得控除額は、所得金額に連動しない一定金額(定額)とする。この金額の設定については、この金額が小さ過ぎれば制度がほとんど適用されず制度自体の必要性が疑問視されることにつながり、他方、この金額が大き過ぎれば財源の確保が困難になるほか制度に対する不公平感も大きくなることから、詳細かつ慎重な検討を要すると考える。この金額設定の具体的な方法としては、例えば、概算的な所得控除制度の適用につき、どの所得階層をターゲットにするかを定めた上で、その所得階層における実際の所得控除の適用状況を実証的に分析し定めるなどの方法が考えられる。

3 結論

 人的控除以外の所得控除については、その全てを存続させるとの前提に立った場合でも、課税ベース拡大に向けて合理化できる部分はあると考えられ、合理化すべきと考える。他方、概算的な所得控除制度については、年末調整制度が存在する我が国の現行の所得税制の下では、それ自体の有益性が限定的なものとなることは否定できないが、上述の所得控除の合理化と併せてこれを導入することとすれば、所得控除の簡素化・集約化に資するとともに低所得者対策にもなり得るなど、その有益性は高まるものと考えられ、同制度については、そのような形での導入を検討すべきと考える。
なお、以上の結論は現行の我が国の所得税制を前提としたものであるが、仮に我が国において年末調整制度が縮小・廃止されることとなった場合には、概算的な所得控除制度は、米国におけるのと同様、我が国においても非常に有益なものになると考えられる。したがって、その場合には、概算的な所得控除制度の導入を積極的に検討すべきであろう。


目次

項目 ページ
はじめに 77
第1章 所得控除制度の概要及びそれを巡る議論 79
第1節 現行の所得控除制度の概要 79
第2節 所得控除の分類 81
1 基礎的人的控除 81
2 特別人的控除 82
3 担税力調節控除 82
4 強制保険料等控除 83
5 保険奨励控除 84
6 寄附奨励控除 84
第3節 所得控除の適用の状況 85
1 平成21年分における適用状況 85
2 平成11年分における適用状況 87
3 医療費控除、生命保険料控除(個人年金)、寄附金控除の適用状況の傾向 90
第4節 所得控除を巡る議論及び改正の状況 95
1 平成14年6月「あるべき税制の構築に向けた基本方針」 95
2 平成17年6月「個人所得課税に関する論点整理」 97
3 基本方針公表後の所得税改革 99
第2章 各所得控除の意義・妥当性の検討 102
第1節 所得控除制度の意義 102
第2節 包括的所得概念からの検討(全般) 104
1 包括的所得概念 104
2 包括的所得概念と租税公平主義(公平負担原則) 105
3 包括的所得概念と所得再分配機能 107
4 包括的所得概念と景気調整機能 108
5 小括 109
第3節 各所得控除に係る包括的所得概念からの検討 110
1 米国における議論 110
2 各所得控除の検討 116
3 小括 123
第4節 医療費控除制度の合理性についての検討 126
1 現在の仕組み 126
2 医療費の総額に係る要件(足切限度額) 127
3 医療費控除額に係る制限(上限) 129
4 医療費控除の適用状況の分析 129
5 医療費控除制度の合理性について 131
第3章 米国における所得控除制度の概要 133
第1節 米国における個人に係る所得税制度の概要 133
1 特徴 133
2 申告資格(filing status) 133
3 申告義務 134
4 税額の計算方式 136
第2節 標準控除制度 137
1 標準控除とは 137
2 標準控除の仕組み 139
3 標準控除の適用状況 140
第3節 項目別控除制度 143
1 項目別控除とは 143
2 適格住宅に係るローン利子控除 145
3 支払税額に係る控除 146
4 災害等損失控除 147
5 慈善寄附金控除 147
6 医療費控除 149
7 雑控除 150
第4節 米国の医療費控除制度について 152
1 米国の医療費控除 152
2 米国の医療費控除と我が国の医療費控除の比較検討 157
第4章 今後の所得控除制度の在り方 162
第1節 医療費控除制度の合理化策 162
1 足切限度額の設定方法について 162
2 足切限度額の水準について 166
第2節 概算所得控除制度の導入可能性の検討 171
1 旧概算所得控除の制度 171
2 概算的な所得控除制度導入の是非 174
3 概算的な所得控除制度導入の可否 176
第3節 今後の所得控除制度の在り方
−概算的な所得控除の仕組みについての試案−
178
1 内容面 179
2 手続面 185
3 小括 188
終わりに 190

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