浅井 要
税務大学校
研究部教授


要約

1 研究の目的(問題の所在)

 我が国の所得税は申告納税制度を採用しており、この制度は納税者自身による税額の確定とその自主的な納付を内容とするものである。この申告納税制度の下、納税者は自らその課税標準と税額を計算するための資料として、記帳や帳簿書類等の保存が必要となるが、これまでの記帳制度は、小規模零細事業者の事務負担に配慮し、その年の前年分又は前々年分の事業所得等に係る所得金額が300万円以下の白色申告者には、記帳義務は課せられていなかった。しかしながら、平成23年度税制改正において、理由附記の見直しを踏まえ、白色申告者にも全面記帳義務化が図られたところである。
こうした状況を踏まえ、今後、事業所得者の記帳水準を高度化させていく必要があるが、そのうえで、記帳をしない者に対する経費のあり方や概算経費控除の導入等を検討することを通じ、今後の事業所得者の記帳水準のあり方など事業所得者に対する課税のあり方について研究を行うものである。

2 研究の概要

(1)白色申告者の全面記帳義務化に伴う今後の検討課題
平成23年度税制改正において、白色申告者の記帳・帳簿等保存義務の拡大が行われ、平成26年1月1日以後において適用することとされた。ここに個人の白色申告者の全面記帳義務化という大きな一歩を踏み出したわけであるが、今回も記帳義務違反があった場合の罰則等は設けられていないことから、その実効性には依然として問題が残っている。
なお、平成23年度税制改正大綱において、以下の点について、今後検討を行うこととされている。

1 必要経費を概算で控除する租税特別措置のあり方

2 正しい記帳を行わない者の必要経費の控除のあり方

3 白色申告者の記帳水準が向上した場合における現行の専従者控除について、その専従の実態等を踏まえた見直しのあり方
本研究においては、事業所得における概算経費控除の導入、具体的には、実額での必要経費は正しい記帳に基づく場合に限ることとし、記帳もしない、原始記録も保存しない、あるいは、調査に一切協力をしないという「不誠実な納税者」に対しては、実額よりも低額な概算経費しか認めないといったペナルティ的な概算経費による課税の導入の検討を中心に、適正・公平な課税を実現するための制度上の手当てを行うことを検討したいと考えている。

(2)概算経費控除の納税者による選択を認めることの可否
概算経費控除を導入する場合には、まず、納税者の選択を認めるかどうかということが大きな論点となる。
この点については、現行の事業所得等に係る概算経費控除の特例として、1社会保険診療報酬の所得計算の特例(措法26条)、2家内労働者等の事業所得等の所得計算の特例(措法27条)、3山林所得の概算経費控除(措法30条)があるが、特に、1の特例については、不公平税制の典型とされ、経費率の法定が適正な記帳を基礎とする申告納税制度のあり方等からみて適当でないと批判されている。また、会計検査院からも、見直しをすべきと指摘され、改善を求められており(1)、平成24年度税制改正大綱の検討事項とされている。
こうしたことからも明らかなように、概算経費控除に納税者の選択を認めると、結局、実際の経費と概算経費とを比較して有利な方を選択することになり、すべての業種に新たな不公平税制を作ってしまうおそれがあることから、基本的には、納税者の選択を認めるべきではないと考える。
以下では、納税者の選択を認めない場合と認める場合の概算経費控除について、どのような制度が考えられるか検討する。

イ 納税者の選択を認めない概算経費控除制度
納税者の選択を認めず、税務当局のみに概算経費控除を認める、つまり、納税者が記帳しない、帳簿等も保存しない、あるいは、納税者が調査に協力せず、帳簿等を見せないという場合には、税務当局は、低率の概算経費率により更正・決定できるという制度を創設するというものである。これは、言い換えれば、新たに概算経費率による推計課税の規定を設けるということである。
所得税の理想が、直接資料を用いて所得の実額を把握する「実額課税」であることはいうまでもないが、直接資料が入手できないからといって課税を放棄することは、公平負担の観点から適当でなく、ここに推計課税が認められる根拠がある(2)。そもそも、推計課税は、納税者の非協力に起因するものであり、税務当局の所得調査は困難を極めているのみならず、推計課税を行うためには、その必要性を充足し、かつ、合理的な計算方法を選択したうえでなければならないので、限られた人員の中で、税務当局の苦労、事務負担は相当なものになっているというのが現状である。そして、今後、それは、さらに厳しくなっていくことが予想される。
推計課税に関する法的整備についての提言としては、南博方教授が、「納税者が正確な実額資料を整えて申告したのであれば、推計による課税をする必要は全くなかったはずであり」、「推計課税は、納税者の側の責めに帰すべき事情に起因するものである。端的にいえば、申告納税制度の下においては、推計課税は、一種の制裁措置として位置づけられてもやむを得ないと言うべきである」として、推計課税の本質を標準率に求め、「その法的基準性を明確にするとともに、申告納税制度の下においては、推計課税による不利益は甘受せざるを得ないとの認識に立って、一定の不利益措置を定め、かつ、推計項目についての争いを遮断する方向での法政策の樹立が必要である」(3)と述べられているが、本研究も、基本的には、同様の考え方に立つものである。

ロ 納税者の選択を認める概算経費控除制度
納税者の選択を認める場合には、新たな不公平税制を作り出してしまわないように、実額に比して有利にならないような経費率を定める必要がある。
そして、その際には、小規模零細事業者に対して何らかの配慮を検討する必要が生じてくるが、それでは、全面記帳義務化後に配慮すべき小規模零細事業者とは、どういう者なのか。この点については、我が国には、税法上の記帳義務と商法・会社法上の記帳義務があり、それぞれ法目的が異なるので、記帳義務も異なっているが、商法上では、「小商人」は商業帳簿の作成が必要でないこととされており(4)、一定の配慮がされているといえる。
一方、税法には、「家内労働者等の事業所得等の所得計算の特例」があるが、この特例の対象者である家内労働者等は、まさに「小規模零細事業者」に該当するといえよう。もちろん、この特例は、家内労働者等とパート労働者とのバランスを考慮して設けられたものであり、法の趣旨は全く別なものではあるが、見方を変えれば、記帳がなくても65万円の概算経費控除を認める特例ということができる。そこで、家内労働者等でなくても記帳を求めることが困難であると思われる他の業種の事業者もいることから、この特例を家内労働者等に限定するのではなく、一般的な事業所得者に選択を認める一定の経費率(最低保障65万円)による概算経費控除の特例に改組するとともに、記帳義務違反に対する措置として、調査時に納税者が帳簿等を保存していない、あるいは、調査に協力せず、帳簿等を見せないという場合には、税務署長は、一定の経費率による概算経費控除を適用して、更正・決定することができることとする所得計算の特例を設けてはどうかといったことが考えられる。

(3) 概算経費率
現行の推計課税が、できるだけ「真実の所得」に近づけて課税しようとするものであり、同業者率等による推計課税は、いわば「近似値課税」といえる。また、昭和40年代の終わりごろまで税務当局が使用していた所得標準率による推計課税は、いわば「平均値課税」といえる。しかしながら、標準率(平均値)による推計課税では、標準率で申告しておけば、調査があってもそれ以上課税されることもないので、結局、記帳もしないといった風潮が生じ、我が国の申告納税制度の健全な発展を阻害することになりかねないので、概算経費率は、実額に比して有利とならないような、平均値よりも低い経費率とすべきであると考える。
この点については、諸外国においては、記帳義務違反に対し、罰則等が設けられているのが通常であり、また、推計課税も行うことができることとされている国が多いのであるが、興味深いのは、ドイツの推計課税である。ドイツでは、標準率表が作成・公開されており、その標準率には幅があって、平均値だけでなく、上限と下限の率が示されており、納税者が記帳をきちんとしないといった租税法上の協力義務を履行しない場合には、高い利益率により推計課税が行われているのである。我が国の推計課税においても、本当に配慮しなければならない小規模零細事業者と不誠実な納税者とでは、適用する経費率に差があってよいのではないかと考える。
具体的にどのように概算経費率を定めるかという点については、青色申告者を標本として、全国単位で実態調査(標本調査)を行い、小規模零細事業者に対しては平均値を適用し、不誠実な納税者に対しては、統計学の手法に従って、四分位、五分位あるいは十分位に区分した、その下位の値を経費率として適用してはどうかと考える。
また、業種・業態別にどのように区分するかという問題については、過去に使用されていた所得標準率は、日本標準産業分類に定める業種目分類に従って、詳細に区分して定められていたが、近年における社会経済構造の変化や産業の高度化・複雑化を考えると、概算経費率を業種・業態別に詳細に分類するのは、かえって適当ではないと考える。この点については、例えば、消費税の簡易課税制度では、現在、業種を5つの分類(5)に区分してみなし仕入率を定めているが、概算経費率についても、これと同程度とするのが適当ではないかと考える。

(4)いわゆる「実額反証」を認めることの可否
いわゆる「実額反証」とは、納税者が所得実額に係る資料を証拠として提出して推計課税の違法を主張することであるが、租税実務において、必要経費の実額反証事件が増加するのに伴い、税務調査段階で提出されなかった実額資料を行政不服申立や訴訟段階になってから突然に提出するのはアンフェアであるとの批判が強く、最近の裁判例においては、実額反証が有効となるための必要要件を設けたり、あるいは、原告納税者側の立証の程度を厳しく要求するものが増えてきている(6)
現行の推計課税や標準率による課税であれば、推計項目についての争いを遮断する方向、すなわち、例えば、推計課税の必要性・合理性があれば、推計した所得を実額とみなす「みなし規定」を定めることにより、実額反証を認めないような法整備をすることも一つの選択肢ではあると考えるが、標準率よりも低い概算経費率による課税をする場合には、やはり、実額反証は認めるべきであると考える。

3 結論

 事業所得における概算経費控除制度の導入を検討するに当たり、当初は、納税者の選択を認めない制度とすべきであると考え、現行の推計課税の規定を見直し、不誠実な納税者に対しては、低い概算経費率による推計課税の規定を設けることにより、立証責任を納税者に転換してはどうかと考えたのである。今回、白色申告者について全面記帳義務化が図られたわけであるから、それにもかかわらず、記帳もしない、かつ、帳簿等の保存もしないで、自ら実額課税を困難な状況にしている納税者についてまで、税務当局に推計課税の合理性を要求し、厳格な立証責任を負わせる必要はないのではないか。そのような納税者に対しては、低い概算経費率による推計課税を適用し、それが「真実の所得」と違うというのであれば、その立証責任は、自分の所得のことについて一番よく知っている納税者本人に転換し、それ以外の場合には、現行の一般的な推計課税を適用するといった二本建ての推計課税も、制度的には十分あり得るのではないかと考えたのである。
しかしながら、この概算経費控除による推計課税と現行の実額課税を目指す推計課税との「住み分け」ができない。つまり、不誠実な納税者に対して、優先的に概算経費控除を適用できるように要件を設定したいのであるが、そのような要件設定をすること自体が非常に難しいことから、この制度を「新たな推計課税」として位置づけるのではなく、他の概算経費控除の特例と同様に、「所得計算の特例」として位置づけ、以下のような概算経費控除の特例を創設することを提案したい。
記帳制度を定着させるための当分の間の特例措置として、現行の家内労働者等の所得計算の特例を改組し、小規模零細事業者に対しては標準率(平均値)(最低保障65万円)による概算経費控除の選択を認めることとする。その際、小規模零細事業者を定義することは難しいことから、所得金額基準ではなく、収入金額基準(例えば、前年分又は前々年分の事業所得に係る収入金額500万円以下)を設定するとともに、業種区分については、消費税の簡易課税制度を参考に、5分類程度とする。そして、最初から完全な記帳を要求するのは無理だとしても、全く記帳しなくてもよいこととするのではなく、最低限、収入金額について記帳することを選択の要件とする。
一方、記帳等義務違反に対する措置として、1調査時に帳簿等を保存していない、2帳簿等の保存はあるが、その内容が不正確で信用性に乏しい、あるいは3調査に協力せず、帳簿等を見せないといった不誠実な納税者に対しては、税務署長は、上記2(3)で述べたような実態調査で求めた平均値よりも低い経費率(業種も、上記と同様、5分類程度に区分)による概算経費控除を適用して、更正・決定することができることとする。
この「低い経費率」は、記帳しないことによってかえって得をすることがないように、実態調査により算定したものであり、けっして記帳義務違反に対する制裁といった性格のものではない。確かに、低い経費率により算定された所得は、場合によっては、真実の所得よりも過大な所得となり、不利益を被ることもあるかもしれないが、その点については、実額反証を認めることにより、その所得が真実の所得と異なるというのであれば、その立証責任は納税者が負担するのである。
ただし、その場合の立証の程度としては、やはり厳格な立証を要求すべきであると考える。それは、そもそも概算経費控除による課税処分をせざるを得ない事情を生ぜしめた原因ないし責任は、もっぱら納税者の側にあり、このような厳格な立証責任を納税者に負担させたとしても酷であるとはいえないはずだからである。
最後に、概算経費控除制度以外の研究についてであるが、今回、白色申告者にも全面記帳義務化が図られたわけなので、まずは、記帳水準が同程度であれば、青色申告も白色申告も同様の取扱いとすることを基本とすべきであると考えており、事業所得者の記帳水準を高度化させるために、記帳水準の程度に応じて、青色申告・白色申告の制度を改めて整理し直す必要があると考えている。
具体的には、現在、青色申告者の記帳は、1正規の簿記によるもの、2簡易な簿記によるもの、そして3現金主義によるものの3つの記帳が認められており、一方、白色申告者の記帳は、青色申告者の記帳よりも、より簡易な簿記でよいこととされているが、まずは、青色申告の特典は、正規の簿記によって記帳している者のみに適用を認めることとする。また、白色申告者にも記帳義務が課せられるわけであるから、青色申告特別控除(65万円、10万円)も、ただ記帳しているだけで認められる10万円の青色申告特別控除は廃止する。また、白色の専従者についても、青色と同様の専従者給与を認めるといった、記帳水準に応じた体系的な見直しを検討する必要があると考えている。
なお、白色申告者も全面記帳義務化され、青色申告と白色申告との差異が縮小してきたことから、青色申告制度は廃止すべきといった意見がある。しかしながら、法人の青色申告割合が90%超であるのに対し、個人の青色申告割合は、昭和50年に50%を超えてからほとんど変わっておらず、平成21年分の青色申告割合は56%と頭打ち状態となっていることを踏まえれば、少なくとも、個人については、現時点で青色申告制度を廃止することは時期尚早であり、記帳水準を向上させるインセンティブとして、青色申告制度は、依然として重要な役割を果たしており、当面は、青色申告と白色申告について、記帳水準に応じた体系的な見直しを行っていきながら、記帳義務が定着するまでは、存置しておくことが適当であると考える。


(1) 平成23年10月28日に、会計検査院より意見表示がされている。(戻る)

(2) 金子宏「租税法(第17版)」(弘文堂)754頁 ほか。(戻る)

(3) 南博方「推計課税の実務と理論」判例タイムズ787号10頁。(戻る)

(4) 商法上は、商人は、適時に、正確な商業帳簿(会計帳簿及び貸借対照表をいう。)を作成し、帳簿閉鎖の時から10年間、その商業帳簿及びその営業に関する重要な資料を保存しなければならないこととされている(商法19条)。なお、「小商人」というのは、「営業のために使用する財産が50万円を超えないもの」と定義されている(商法7条、商法施行規則3条2項)。(戻る)

(5) 「卸売業、小売業、製造業等、サービス業等、その他の事業」の5分類に区分されている。(戻る)

(6) 岩崎政明「推計課税取消訴訟と実額反証・立証責任」ハイポセティカル・スタディ租税法(第3版)(弘文堂)300頁。(戻る)


目次

項目 ページ
はじめに 416
第1章 申告納税制度の下での個人事業者の課税 419
第1節 申告納税制度の下での個人事業者の課税 419
1 申告納税制度 419
2 事業所得の意義等 420
3 青色申告・白色申告とは 421
第2節 記帳・記録保存制度 423
1 記帳・記録保存制度の沿革 423
2 平成23年度の税制改正後の記帳・記録保存制度の概要 427
3 青色申告者の記帳制度の概要 428
第3節 事業所得に係る記帳・記録保存制度に関わる問題点 430
1 青色申告特別控除の見直し 431
2 事業専従者控除の見直し 431
3 青色申告制度の廃止論について 434
4 記帳義務履行のための担保措置等 435
第2章 我が国における概算課税 438
第1節 現行法における概算課税 438
1 給与所得控除(所法28条3項) 438
2 社会保険診療報酬の所得計算の特例(措法26条) 441
3 家内労働者等の事業所得等の所得計算の特例(措法27条) 446
4 山林所得の概算経費控除(措法30条) 448
第2節 所得標準率 450
1 所得標準率の意義等 450
2 所得標準率を用いた所得計算方法等 453
3 所得標準率の性格 454
第3章 諸外国における記帳義務違反等に対する担保措置等 456
第1節 ドイツ 456
1 概要 456
2 記帳義務等 457
3 推計課税とその実態 458
第2節 フランス 460
1 概要 460
2 所得算定の方法及び推計課税等 460
3 フォルフェ制度について 461
第3節 アメリカ 463
1 概要 463
2 所得算定の方法と記帳義務等 464
第4節 小括 466
第4章 推計課税 467
第1節 推計課税の概要 467
第2節 推計課税の本質等 467
1 事実上推定説 468
2 別世界説 468
3 補充的代替手段説 469
第3節 推計課税の要件の検討 470
1 推計の必要性 470
2 推計の合理性 475
3 同業者率による推計の合理性 477
第4節 推計課税の取消訴訟 482
1 推計課税の取消訴訟の現状 482
2 実額反証 482
第5節 小括 483
第5章 事業所得の概算経費控除制度の導入について 487
第1節 事業所得の概算経費控除制度の導入の検討 487
1 納税者による選択を認めることの可否 487
2 概算経費率 490
3 いわゆる「実額反証」を認めることの可否 491
第2節 事業所得の概算経費控除制度についての提言 492
結びに代えて 496

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