牛米 努
税務大学校
租税史料室研究調査員


要約

 昭和22年(1947)の所得税における申告納税制度の導入により、それまで個人所得税の賦課課税に重要な役割を果たしてきた所得調査委員会は廃止された。調査委員会廃止については、同制度が「地域ボス」の賦課課税への介入を許すとの理由で、GHQから強い廃止の要請があったとされているが、その実態はほとんどわかっていない。
所得調査委員会は、明治20年(1887)の導入から昭和22年の廃止まで60年間存続した、わが国における個人所得税の賦課課税に不可欠な制度であった。本稿の関心は調査委員会の実態解明にあるが、その際、調査委員会制度だけでなく、申告から納税までを視野に入れた賦課課税システム全体を検討対象とし、その時代的な変化を明らかにすることを課題とした。
明治32年法は、税務署の第一次調査をもとに、調査委員会の第二次調査が行われ、原則として調査委員会の決議額で政府決定される仕組みである。ただ、調査委員会の決議を不当と認めた場合、政府は再調査を命じることができ、再決議も不当な場合は政府決定となった。しかし、それは例外的な事態であり、調査委員会決議に基づいて決定されるのが通常の状態であった。調査委員会は単なる諮問機関ではなく、納税者の代表が政府の賦課課税をチェックし、その決議は政府決定への拘束力を有していたのである。言い換えれば、調査委員会決議の拘束力が、わが国の個人所得税の賦課課税制度を成り立たせていたのである。そしてその役割は、60年間、制度的には不変だったのである。
当時の税務署の調査は所得標準率をもとに一律に推計した数値を基本としており、調査委員会の役割は地域や納税者の実情に応じてその権衡をはかることであった。そのため調査委員は市町村から均等に選出されることが望ましく、それに適合的な選挙制度として複選制・記名連記制が採用されたのである。明治36年度から昭和10年度までのデータによれば、調査委員会は税務署の調査額を削減し、その決議額に若干増額する金額で政府決定されている。こうした調査委員会による調査額の削減指向は、地域の納税者代表という一般的な性格に由来するものといえる。
こうした個人所得税の賦課課税において画期となるのは、日露戦争と第一次世界大戦である。その背景にあるのは、とりわけ都市部における所得税納税者の急増と、税制・税収面における所得税の比重の高まりである。納税観念の向上や公平な課税の要求により、従来の調査委員会を含む賦課課税システムは改善を迫られていくのである。
日露戦後の調査委員会は、税務当局が「理由なき削減」と批難するような調査額の削減指向を強めていた。その背景にあったのは、戦後の負担軽減要求と税務官吏の「苛斂誅求」批判であった。調査委員会の再調査や審査請求の増加、滞納問題の深刻化のなか、税務当局は円満な課税の実現を目指し、調査額の正確性についての叮嚀な説明や誠実な申告の是認方針を打ち出し税務行政の転換を図っていくのである。明治38年改正は賦課課税期間の短縮化を意図したもので、調査委員会の会期設定や市部調査委員会の独立などが実現した。市部調査委員会の設置が、商業会議所などの都市部の商工業者の要望が反映された結果であったように、地域代表の性格が強かった調査委員会に、商工業者の要望が入ってくるようになる。そのため、調査委員会は職業別の利害調整機関としての役割を帯びるようになるのである。会期設定などの措置は、こうした状況のもとで、税務当局が調査委員会の主導権を確保しようとする動きと考えられる。
第一次世界大戦は、大戦景気から一転して戦後恐慌となる大きな経済変動をもたらした。課税の公平理念が一層強調され、負担の権衡が重視されるようになる。日露戦後の申告奨励策は、改めて大戦後の執行方針として位置づけ直され、所得税の円満な執行には国民の自発的で誠実な申告と協助が必要とされた。そのため主税局は、税務行政の大転換を図り、税制改正の趣旨やポイントなどの講習や広報を積極的に展開するようになる。部内においても職員研修に力を注ぐようになり、全国的な研修も定期的に開催されるようになった。このような税務行政の転換は、大正12年の「税務行政の民衆化」方針へと引き継がれていくのである。
大戦後の経済状況のもと、課税の公平をめぐって二つの動きが現れる。
一つは、調査委員の選挙制度改正である。大正9年に調査委員の選挙制度は間接選挙から直接選挙に改正されるが、その背景には納税者の急増があり、とりわけ都市部の商工業者の強い要望があった。所得調査委員会の決議に業界団体の意見を反映させることは税務当局においても要望されていたが、現行の選挙制度のもとでは実現は難しかった。そしてそのことが調査委員会の存在意義を低下させ、調査委員会不要論も一部で唱えられるようになるのである。商工業者や税務当局からは業界代表の官選要求も出されてくるが、直接選挙により公選される民選委員を減じて官選委員とすることは、政府の賦課決定を納税者がチェックするという調査委員会制度の根幹に関わる問題であった。
もう一つは、所得調査法の改善である。大戦恐慌により再調査が再び増加するが、その理由のひとつは所得標準率による推計方法にあった。大戦景気から一転して戦後不況となるような経済変動の大きい時期においては、この方法は不適切であった。税務当局内においても標準率不要論が出されるなど、所得調査方法の当否が議論されたのである。これに関わって、大正15年改正における実績課税主義の導入がある。従来、田畑所得の課税標準は、前3年の平均所得であった。しかし戦後不況のなかで問題化したように、バブル時の米価をもとに設定された課税標準は、不況下において納税者の重税感を高める。そのため大正15年に、田畑の課税標準が前3年の平均予算課税から前年所得をもとにした実績課税に改正されたのである。また、所得税が税制及び税収の中核に据えられたことにより、所得税の課税及び納期限も繰上げられたのである。
昭和期に入ると、調査委員会の制度的改正はみられなくなる。しかも昭和5年度から10年度まで、調査委員会の決議額と政府決定額は同額になっている。それは一見、賦課課税システムの安定に見えるが、事実は全く逆であった。大戦後の課税の公平理念の高まりは、業界内や業界間、地域や個人などの権衡の保持を強調する結果となった。そのため調査委員会は、権衡保持という形での納税者ごとの斟酌交渉の場となっていたのである。そしてそれは、昭和11年の主税局通牒が指摘するように、形式的な円満を求めた調査委員会と税務署との「馴れ合い」を引き起こしていたのである。調査委員の汚職や私的利害による恣意的な決議など、調査委員会の形骸化への納税者の批判や不満が表面化し、昭和10年頃には調査委員会廃止論や縮小論も唱えられるようになるのである。
このような昭和期の批判を背景に、税務当局や商工業者が要望する調査委員の官選などの調査委員会の改善要求が強まってくる。しかし、納税者の代表である調査委員による課税のチェックという本来の調査委員会制度の改正そのものには困難が伴ったようで、それはなかなか実行されなかった。しかし昭和17年、主税局は調査委員の推薦制を決定し実質的な官選制への第一歩を踏み出した。調査委員会単位に推薦母体を組織し、地域の名望家や業界団体役員など公平且円満な人物を調査委員に当選させる目論見である。調査委員推薦制の結果は不明であるが、戦後における調査委員会形骸化批判のなかで官選論が唱えられていることから、必ずしも成功しなかったと考えられる。こうした主税局の官選改革案は増加所得税調査委員会において適用されることになるが、申告納税制度導入に際して調査委員会方式が採用されることはなかった。その最大の理由はGHQの強い要請であったが、日本側においても調査委員会に対する根強い批判があったのである。


目次

項目 ページ
はじめに 137
T 統計から見る第三種所得税の賦課課税 140
1、申告額・決定額の推移 140
2、調査・決議・決定 141
3、調査委員の定員 142
4、調査委員会の再調査 143
5、審査請求 145
U 明治後期の所得調査委員会 153
1、賦課課税と調査委員会 153
(1)賦課課税の仕組み 153
(2)調査委員会の役割 156
(3)調査委員の選挙 161
2、日露戦後の調査委員会 163
(1)明治38年改正と調査委員会 163
(2)調査委員会の決議状況 168
(3)大正2年改正と調査委員会 171
V 第一次世界大戦と所得調査委員会 176
1、税制改正と調査委員会 176
(1)大正9年法と「課税の公平」理念 176
(2)大正15年改正と実績課税 181
2、調査委員会の役割低下 186
(1)申告奨励と賦課課税 186
(2)調査委員の直接選挙 190
(3)昭和初期の調査委員会 193
おわりにかえて 〜戦中・戦後への展望〜 199

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