牛米 努

税務大学校
租税史料室研究調査員


要約

1 研究の目的

 本稿の目的は、明治20年(1887)に導入された所得税法の歴史的検討である。導入期の所得税研究は意外に少なく、1960年代の業績が現在でも研究水準を維持している。導入期所得税研究の関心は、日本における「早熟な」導入の理由の解明にあった。そのため税法モデルへの関心を強く持っているのが特徴である。今なお根強い「通説」として、イギリス型からプロシア型への転換を、明治憲法体制との関係で理解しようとする高橋誠氏の研究がある。この見解はすでに林健久氏により批判され、欧米の租税制度が早熟的に移植されたと理解すべきと論じられている。
筆者は基本的に林説を支持する立場に立つが、従来の研究では所得税導入過程がトータルに描かれていないように感じている。その理由は、高橋・林両氏の研究内容の断絶である。高橋氏は、明治17年の二つの草案を含む、明治19年のプロシア型への「転換」以前の史料を分析し、それと明治20年所得税法を比較検討した。一方、林氏は、「転換」後の原案が明治20年法として修正されていく過程を分析した。二つの研究は明治19年の「転換」を挟んで史料的にも断絶しており、明治17年の草案作成から明治20年法成立までの導入過程の解明は、依然課題として残されているのである。
本稿では、当該期の政治史や財政史研究に学びながら、主に予算編成を軸に歴史的に考察した。

2 研究の経過・結果

 所得税導入の理由の一つは、当該期における軍事費増大への対応とされている。その最大の要因は海軍皇張問題である。明治15年に勃発した壬午事変は、松方緊縮財政の大きな課題となった。政府は酒税や煙草税などの間接税増税により海軍皇張費を捻出しようとしたが、増税策は失敗に帰した。政府はこれを会計年度の改訂と明治18年度の予算定額制の延長により乗り切るが、深刻化する松方デフレの影響により間接税増税策の行き詰まりは明白であった。そして松方デフレの影響は、地方財政の逼迫による地方改良問題を浮上させていた。間接税増税策の行き詰まりと各省の予算拡大要求は、新会計年度初年目の明治19年度予算の拡大を必然化し、新税導入は不可欠の課題となった。新税案として選択されたのが、所得に応じた負担を実現できる所得税であり、明治17年には二つの草案が作成されたのである。
明治17年の二つの草案は政策上対立関係にあるように理解されてきたが、それは正しくない。大蔵省案が閣議提出案であるのに対して、ルードルフ案は制度取調局長官伊藤博文の指示で作成された参考案に止まるものであり、両案の性格や政策上の位置付けは異なるのである。それでも両案は、土地・家屋や酒造など租税負担の過重に配慮した免税規定や、比較的高く設定された免税点、所得調査委員制度の採用などにおいて共通している。両案は、それぞれ西欧の税制をモデルとしつつも、松方デフレ下で顕在化する農村の疲弊など、共通の現状認識に立っているのであり、そこに根本的な対立は存在しないのである。但し、所得に応じた税負担の実現という原則のもと、所得の種類による課税の差異や累進性の担保など、課税方法上の詰めは残されていたと見てよい。これらは、収束に向かいつつある松方デフレのもと、どのように所得税を導入するかという政治判断の問題でもあるが、それが決着するまでにはいま少し曲折を経ることになる。
この明治17年草案は、直後に勃発した甲申事変の処理により一旦「棚上げ」となり、大蔵省は所得税に代わって家屋税則と菓子税則・醤油税則などを提起する。間接税の一部は成立したものの、大蔵省が税収に期待していた家屋税は成立しなかった。家屋税の導入には、地方税規則の改正と戸数割の代替財源が必要だったのである。明治14年の土木費の国庫補助廃止以降、地方財政の改革が模索されてきたが、この時期、大蔵省と内務省はともに国と地方を通した税制改革の必要性を認識していた。そのため地方費への国庫支弁増額を特徴とする明治19年度予算案が作成され、そこでは家屋税や所得税・営業税が地方税附加税とともに検討されていたのである。しかし、内閣制の実施をめぐる機構改革を理由に、明治19年度予算もまた明治17年度並と決定した。家屋税や所得税などの、国と地方を通した税制改正プランは、拡大型の予算案とともに撤回されたのである。
そしてこのとき、所得税の立案方針が、イギリス型の分類課税方式からプロシア型の綜合課税方式へと「転換」されたのである。その最大の理由は、「賦課徴収の簡易さ」である。2年間の定額予算制の延長は、明治20年度における新税導入による予算拡大を不可避とした。そのため分類課税方式の導入に慎重であった大蔵省は、所得税の早期導入を図るための現実的な政策として、総合課税方式を選択したのである。大蔵省の「転換」は、所得課税の方法上の問題であり、従来言われているような政治体制をめぐる対立ではない。すでに明治14年政変により、緊縮財政への転換とプロシア型立憲制の導入は政府の基本方針となっていたからである。
プロシア型の所得税法案は、明治20年1月に成立し、元老院の審議に回された。元老院は開会初日に修正建議を可決し、調査委員を選出して修正案を作成することになる。調査委員会は、修正点を整理して事前に大蔵省と協議し、税率変更と施行時期の延長については閣議の承認も得て、第一次修正案を元老院に提出した。政府は、この2点以外については元老院に委ねつつも、早急な成立を要請したのである。
元老院での審議は、課税所得の条文を巡って混乱したため、第一次修正案は廃棄された。そして大蔵省原案に立ち戻り、原案に少々修正を加えた第二次修正案が作成され、それが可決されるという経過を辿った。第一次修正案への反対の議論のなかで、政府委員や調査委員の議官からは2〜3年後の改正を前提に可決する意見が繰り返し出されている。元老院の調査委員会メンバーは、細部は導入後に手直しするとして、政府方針に沿った所得税法の早期成立を図ったのである。原案に立ち戻って作成された第二次修正案は、帳簿検査の削除や守秘義務など調査委員の権限縮小が主な修正点である。「苛酷な執行」との批判をかわし、法案通過を容易にするための修正と考えられる。第二次修正案の審議においても、営業等による収入への課税免除への反対意見が出されるが、修正附託建議はすべて否決され元老院での可決を見た。様々な課税上の問題は先送りされ、早期導入が目指されたのである。

3 残された課題

 成立した所得税は収入見積りを下回る税収に終わったが、大蔵省内部では所得税の修正や資本税の導入、地租軽減の代替財源としての増税など、帝国議会開設前から所得税に関わる改正の動きがでている。地租軽減の代替財源は別にして、所得税法修正への動きが成立直後から見られることは、本稿が明らかにしてきた明治20年所得税法の成立過程を踏まえれば必然であったことがわかる。しかし、こうした所得税を巡る動向については全く明らかにされず、所得税研究の次の関心は明治32年の全文改正(とりわけ法人課税の問題)へと移ってしまうのである。しかしながら、明治32年(1899)改正の歴史的意義を解明するには、本稿が扱った導入過程だけでなく、その後の修正等の議論も含めた歴史的検討が必要になるのである。

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