堀 亮一

税務大学校
租税史料館研究調査員


要約

1 研究の目的

 租税史料館で所蔵する近世文書を中心とする文書群として入間家文書がある。入間家文書は、出羽国村山郡入間村(現在の山形県西村山郡西川町大字入間)の幕府領の名主家に伝存した文書である。
近世の租税を概観すると、幕府領の村の場合その支配は代官によって行われており、租税は代官を通じて幕府の勘定所に納められている。代官は、元禄期の将軍徳川綱吉による粛清や寛政期における代官の風紀取り締まりの中で更迭が行われる中で、「領主」性が失われ幕府役人として「官僚」化の道をたどるとされている
本稿では、まず入間村の変遷などと入間家文書の近世から近代までの内容を紹介し、文書群全体としてのまとまりについて述べる。そして、入間家文書の文書群としての特徴をふまえた上で、入間村が幕府代官の支配を受けていた期間の内主に享保期以降を取り上げ、入間家文書をもとに入間村を治めていた代官と村との間で結ばれていた−主に近世の租税である年貢を介した−関係を見ていく。

2 研究の内容

1 入間家文書の分類と特質
本稿では、入間家文書の特質を明らかにするため、入間家文書の「文書群」としての特徴に則した形の分類項目を立てた。そして、近世文書の大項目として名主家と入間家を、近代文書の大項目として入間村(区長・戸長など)と入間家を設定し、これに中・小の項目を付けて分類を行った。入間家文書の近世史料は、名主という役職に伴って生成される文書と入間家という家及び家経営に関連して残された家文書の二つに分ける事が出来る。また、入間家は、入間神社の神主を務めている家でもあった。この他、入間家文書の全体的な特徴として書状が多く現存していることが上げられる。近代に入ると、入間家は区長及び戸長を務めているが、いわゆる公文書の類は区長を辞めた明治九年以降は少なく、以後私文書中心に移行している。近代文書では、家文書の「争論」(争論関係)・「借金」・「買物」(領収証など)が点数の多い項目として上げられる。

2 入間村(幕領分)と支配代官
入間村の幕府領は、寒河江領の幕府領として元和八年(一六二二)に山形藩の最上家が改易になった後に幕府領となり、安政二年(一八五五)まで幕府領として幕府代官の支配を受けている。この内、入間村の幕府領を治めていた享保期以降の代官について見てみると、まず代官陣屋の廃止や出張陣屋化などに伴い入間村を治めている代官の代官陣屋が移動している。また、代官によっては、入間村を治めた期間は異なる。この内、柴橋陣屋支配の時代の特徴としては、池田仙九郎が柴橋陣屋に寛政元年(一七八九)から寛政七年(一七九五)と、文化七年(一八一〇)から天保五年(一八三四)までという長期にわたって在任している点が上げられる。そして池田仙九郎が天保五年の在任中に死去した後には、息子の池田岩之丞が代官見習から代官となり天保五年から天保七年まで勤めている。また、入間村を治めた代官の特徴としては、馬喰町詰代官・関東郡代付代官に就任、あるいはこれらの代官を勤めた家出身の代官を確認できる点も上げられる。
ところで、入間村では、たびたび近世を通じて大きな飢饉に見舞われた。このような際に代官が「御救」を行っている。例えば、宝暦五年(一七五五)から宝暦六年までは凶作のため年貢を役所に納められなかったため、結局宝暦五年分の内不納の分は拝借金で上納し、宝暦六年の年貢と共に二十ヶ年賦で返納することとなっている。また、天保九年(一八三八)四月に、兵助新田の惣百姓が代官池田仙九次他下役の武運長久を神に祈願する旨の議定書を作成している。これは、天保四年九月に大雨による洪水の時用水路が崩れた際、村高二十九石二斗二合の内田方十二石を引高にした処置によるものであった。この他、入間村本郷の一ツ小柳では、宝暦五年の大凶作で全員「退転」しているが、当時の代官(=池田仙九郎)が一ツ小柳の「有高」を全て「引高」とした。また、現在の代官(=添田一郎次)も検見の「引方」については格別の「救引」をしたとして、天保九年四月に入間村本郷の惣百姓が一ツ小柳の地蔵尊に代官と手代の武運長久を祈念している。また、天保七年三月にも同様の願望書が作られている。
このように、天保期には、入間村本郷・兵助新田では、代官の「顕彰」を行っている事例を確認できる。これは、池田仙九郎は、長期間に渡って寛政期と文化期から天保期にかけて柴橋陣屋で代官を勤めており、その後も池田岩之丞が天保五年から天保七年まで代官を勤め、支配所の村々にとって特別な存在であったことなどが背景にあると考えられる。
しかし、代官は、幕府勘定所の「官僚」として全国に配置されていたが、代官の行動には、支配を担当する幕府領以外に江戸の幕府勘定所を政策の視野において行動する事があった。寛政三年(一七九一)に代官池田仙九郎によって、柴橋陣屋付の村々に郡中備金仕法が導入された。ところが、これ以後文化十四年(一八一七)に、幕府が幕府の公金貸付政策の中心であった馬喰町の貸附役所の統制・集中化を行った。この幕府の政策は、柴橋陣屋付の村々の郡中備金に大きな影響を与えるようになり、郡中備金は、文化十五年以後幕府勘定所による公金貸付政策に連動することとなった。

3 結論

 入間家文書の文書群としての構成は、租税史料館に寄贈されるまでの間の推移もあり、やや史料群としては偏りのある文書構成となっている。
こうした文書群の中、入間村を支配してきた代官とその対応を見てきた。代官は幕府勘定所の「職」として全国を転々とする身分であったが、その中で入間村の場合池田仙九郎支配の時代が長かった点が特徴として上げられる。入間村の年貢をめぐる対応を見ると、飢饉時の村に対する対応は時代によって変化が見られたと思われるが、郡中備金の制度の導入などの事例から考えるのであればこの池田仙九郎が代官を勤めた時代が入間村にとって一つの転換期であったと言えよう。
池田仙九郎は、天保期には入間村及び兵助新田では、「顕彰」の対象となっており村からは「名代官」として評価されているように見える。しかし、郡中備金をめぐる代官と幕府勘定所、そして領地の村々の間の対応を見てみると、池田仙九郎に限らず各代官が地域の経済、あるいは全国的な視野に立った政策を行っていることが確認出来る。代官という幕府勘定所支配下の役職には、その就任過程・政策などに時代差はあったものの、その根底には幕府勘定所支配の地方における遂行者としての立場があったのである。

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