多仁 照廣

税務大学校租税資料室
研究調査員


はじめに

 検地は、いうまでもなく江戸時代の租税の基礎であった。それは土地丈量であったばかりでなく、検地帳に名請されることにより、租税の負担者とされ、「本百姓」として公権力に認められた農民と看做される、幕藩制社会基礎をなすものでもあった。また、日本近代資本主義の基礎を形成したと評価される明治6年よりの地租改正も、太閤検地とそれに続く江戸時代の検地によって、地租が創定されていたが故に、「改正」事業であった。
現在、税務大学校租税資料室の展示室には、江戸時代の検地の具体的様子を見ることのできる図と、地租改正の実際を知ることのできる図が展示されている。いずれも複製品であり、前者の江戸時代の図は、信濃国筑摩郡神戸村の役人であった丸山角之丞が、天保5年(1834)に画いたもので、現物は神奈川県藤沢市文書館に寄託されている。後者の「文明開化地租改正地面測量改之図」は、明治9年(1876)に、秋田県第7大区(雄勝郡)地租改正総代茂木亀六が、土地丈量をしている自身を措かせたものといわれ、現物は秋田県立博物館に所蔵されている。
この2つの図を見較べると、服装や道具に多少違いはあるものの、十字見切法など測量技術においてはあまり変わらない。しかし、地租改正の方は民間人のみによって行われている点が最も違う。
丸山角之丞の手になる検地の図は、北島正元編『土地制度史』2(山川出版社)の口絵に掲載された、信濃国筑摩郡今井村高山三千彦文書の天保5年「検地仕法御請証文」中の図と同じである。
しかし、この高山文書中の図と丸山角之丞の「検地仕法」の図と比べると、高山文書にあるわく持が「検地仕法」にはないが、「検地仕法」の図の方が、図そのもののまとまりがよく、また、高山文書の図にはない、縄引きが検地仕法」の図にはある。
この度、この「検地仕法」を紹介するのは、『土地制度史』2の出版時点で、江戸幕府による検地の実況を記録した唯一の図とされた、天保5年の今井村と古見村の係争地に対する検地の図は、神戸村丸山文書にある「検地仕法」の図の方が優れていると考えられること。この図の複製が、藤沢市文書館ならびに原蔵老の丸山久子氏(元成城大学教授)の御好意により、租税資料室の調査活動の成果の一つとして、展示室に掲示されたこと。また、いわばこの再発見が契機となり、江戸時代の検地の図を代表するものとして、吉川弘文館発行の『国史大辞典』第5巻に収載されたことによる。
併せて、角之丞が、弘化2年(1845)に行われた検地を記録した史料の文中に、農民の検地に対する本音が吐露されているので、 これも紹介したい。

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