蟹井 英敬
税務大学校
研究部教授

要約

1 研究の目的(問題の所在)

国税庁は、酒類業の所管庁として、酒税の賦課徴収のみならず産業振興にも取り組んでいる。特に近年では、政府が掲げる農林水産物・食品の輸出額目標である2025年に2兆円、2030年に5兆円を達成するため、「農林水産物・食品の輸出拡大実行戦略」に基づき、日本産酒類の一層の輸出拡大を図るべく、海外における日本産酒類の認知度向上及び販路拡大に向けて取り組んでいる。
 現在、日本産酒類の輸出額は2022年分で1,392億円(対前年比+21.4%)で増加しており、日本産酒類の評価は世界的に高まりつつある。今後、更に日本酒の輸出額を伸ばしていくためには、販路を拡大して輸出量を伸ばすことはもとより、日本酒の製造・物流・サービスに関わる者すべてが、大きな利潤を得られるような、付加価値の高い日本酒を創り出していかなければならない。
 そのために国税庁においては、有識者による「日本酒のグローバルなブランド戦略に関する検討会」や「日本産酒類のブランド戦略検討会」を開催してきたところであり、その中の取りまとめの1つとして、「わかりやすい情報発信」が重要とされている。
 しかしながら、酒類の輸出を行う多くの製造業者は、これまで日本酒が当たり前に存在した日本国内で商取引を専業的に行ってきた者であり、現在、製造販売する日本酒の原料や製法へのこだわりは雄弁に語ることができても、酒造りの歴史・文化、地域性(テロワール)については十分に認識できていないことが多い。
 そこで、日本人が日本酒とどのようにかかわり、どのような価値を見出してきたかなど歴史を再確認し、日本酒の伝統性・文化性が共通認識となるよう研究するものである。

2 研究の概要

(1)古代の酒

我が国における酒造りがいつの頃から始まったのかは、正確なところ分かってはいない。しかしながら、縄文時代中期の遺跡の出土品の中からは、果実による酒造りが行われていた痕跡がみられることから、この頃にはすでに酒造りは行われていたものと考えられる。縄文時代後期から晩期には、雑穀による酒造りが行われるようになったといわれ、また、大陸からの水耕稲作の渡来とともに米を使った酒造りが始まったとされている。

イ 中国『三国志』「魏書東夷伝倭人条」にみられる倭国の酒

『三国志』「魏書東夷伝倭人条」には、酒について次のように記されている。
  「始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳」
  「其会同坐起父子男女無別人性嗜酒」
 ここに記された内容からは、当時の酒がどのような種類のものであったかまでは知ることはできないものの、喪に際して来訪した人たちは、「歌舞飲酒」する風習や飲酒する習慣があったようである。

ロ 「古事記」「日本書紀」にみられる酒

(イ) 「八鹽折之酒」・「八醞酒」

「古事記」における酒の最初の登場は、上巻・大蛇退治神話で、須佐之男命(スサノオノミコト)が八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を酔わせて退治するために「八鹽折之酒(ヤシオリノサケ)」を造ったことが記されている。
 「日本書紀」においては、巻第一・神代上において、「古事記」と同様に素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を酔わせるために「八醞酒(ヤシオリノサケ)」を造らせたことが記されている。

(ロ) 天甜酒

「日本書紀」巻第二・神代下においては、「時~吾田鹿葦津姫、以卜定田、號日狭名田、以其田稻、釀天甜酒嘗之、又用淳浪田稻、爲飯嘗之」とあり、~吾田鹿葦津姫が、占いで決めた田の稲で天甜酒(あまのたむさけ)を造りお供えし、また、飯を炊いてお供えしたことが記されている。
 「以其田稻」と記されていることから、「天甜酒」は、米を原料として造られた酒であることは確かであるが、「天甜酒」が日本酒のように麹を使った酒だったのかという疑問が残る。この点について「日本書紀」の現代語訳には、「釀天甜酒」を「天甜酒を噛んでつくり」と訳しているものが見受けられる。もし、噛んで造った酒であるとしたならば、「口噛み酒」の類の可能性がでてくる。ただし、この口噛み酒とする説は、「醸」の解釈の違いから誤りとの指摘もある。実際どうであったかを明らかにすることは困難であるが、文献上、神代には米を原料とした酒造りが行われていたことが確認できる。

ハ 麹を使った酒造りの登場

「播磨国風土記」(霊亀2(716)年)宍禾郡庭音の村の条には、神にお供えした御粮(みかれひ)にカビが生えたので、これで酒を醸すよう命じ、これを奉り庭で酒宴を行ったと記されている。「御粮」は、遺跡調査などの結果からも稲であったと考えられており、米飯にカビが生えたものは現在の麹のことである。したがって、ここで記された酒は、米麹を使って造られた酒ということになり、ここに初めて文献上、米麹による酒造りが確認できたことになる。

ニ 律令制度下における朝廷の酒造り

(イ) 朝廷における酒造りの組織

当時、朝廷においては、紙や筆をはじめ朝廷で必要となるあらゆる備品などを自らの工房で製造しており、酒造りについても同様であった。
 養老律令の公的注釈書である「令義解」(巻第一 職員令第二)には、造酒司について「掌下釀二酒醴酢一事上」とあり、造酒司が酒、醴、酢を造ることを所掌していたことが記されている。

(ロ) 「延喜式」の酒

律令の施行細則にあたる「延喜式」は、造酒司で造られていた酒の種類、原料及び仕込数量などが詳細に記されており、その仕込数量から、「延喜式」の酒は、今日の日本酒よりも濃醇で甘口であった可能性が高いと考えられる。

(2)中世の酒

中世になると、それまでの貴族に代わって、武士が政権を担うようになった。経済面においては、日宋貿易により宋銭が輸入されたのを契機に貨幣経済の進展が見られ、京都を中心とした都市で商工業が発展していった。
 酒造りについても、このような経済状況を背景に販売を目的として酒屋で行われるようになるとともに、大きな権力をもつ寺院でも酒造りが行われ発展を遂げている。

イ 寺院における酒造り

(イ) 僧坊酒の登場

酒造りが盛んとなった中世の寺院は、荘園からの年貢の余剰や酒甕を置くための広大な僧坊と酒造りに必要な仕込水も労せずに得られる利点を有していたとされ、寺院における酒造りは、室町時代になると商業的規模にまで発展し、「僧坊酒」と称され、非常に高い評価を得ていた。

(ロ) 寺院における酒造技術

寺院における当時の酒造りの技術を伝えるものとして「御酒之日記」と「多聞院日記」がある。

A 御酒之日記

「御酒之日記」は、日本初の民間の酒造技術書とされ、その冒頭には、「能々口伝秘すべし、秘すべし」と記されていることから、口伝を覚書的に書き写したものと考えられる。
 同日記には、当時の一般的な酒の醸造方法が二段掛けで行われていたことが記されている。現在の日本酒造りは三段掛法であることから、この時は三段掛法への過渡期にあったことがうかがえる。
 また、同日記には、「火入れ」(低温殺菌)が行われていたことが記されているが、具体的な時期は明らかではない。

B 多聞院日記

「多聞院日記」では、酒造りは年2回行われており、旧暦9月には「正月酒」を、旧暦2月には「夏酒」を造ったことが記されている。「正月酒」、「夏酒」いずれの醸造方法も、三段掛法により仕込まれており、さらに現在の醸造方法に近いものとなっている。
 また、同日記においては、少なくとも永禄11(1568)年には、火入れが行われている。
 フランスの科学者ルイ・パスツールが「パスツリゼーション(Pasteurization)」(低温殺菌法)を考案したのが1860年代のことであるから、日本の酒造りにおいては、それよりも300年も前から低温殺菌が行われていたことになる。

ロ 新興醸造地の台頭と諸白酒の登場

戦国時代が始まりを迎えると、それまで京都では「田舎酒」とも呼ばれていた地方で造られる酒が台頭し、京都にも進出するようになった。
 一方、それまで隆盛を極めた僧坊酒は、新興醸造地の台頭や戦国武将からの圧迫などにより衰退していくこととなる。そのなかにあって奈良の菩提山正暦寺が、麹米、掛米の両方で精白米を使用する諸白酒を創製したことで、奈良では諸白による酒造りが盛んになった。奈良で造られた諸白酒は、南都諸白と称され、他の酒を圧倒することとなった。
 この南都諸白については、「本朝食鑑」において、酒の中で南都が一番で、伊丹、鴻池、池田、富田がついでいると南都諸白を高く評価している。また、江戸時代初期に記された「童蒙酒造記」には、酒造りの根源は奈良流で諸流はこれから起きたと記されている。このことから、諸白による醸造技術は、近世醸造技術の原点であったと考えられる。

(3)近世の酒

江戸時代になると、都市部では商工業者が台頭したことで貨幣経済が進展し、その影響は、それまで自給自足であった農村部にも及ぶこととなる。酒造りについても貨幣経済と幕府による酒造統制の影響を受けながら、それまでの小規模な酒屋から大規模な酒屋へと変わり、市場も広域なものへと転換が図られ、大きな進展を遂げることとなる。

イ 寒造りへの移行

江戸幕府は、政策的判断から旧暦彼岸以降の一定期間、新酒造りを度々禁止しており、それが酒の仕込時期に影響を及ぼしている。幕府が新酒造りを禁止した真意は諸説あり、定かではないが、結果としてこの禁令は寒造りへの移行契機となり、酒質の向上に寄与したこととなる。

ロ 下り酒銘醸地の発展

(イ) 江戸時代前期の銘醸地

高い評価を得ていた「諸白」については、江戸時代になると、その主産地は奈良から摂津の伊丹、鴻池、池田、富田に移り、諸白の銘醸地になっていった。
 江戸時代に記された「守貞漫稿」では、摂津を中心に醸造され、江戸に運ばれた酒のことを「下り酒」と呼び、これに対して江戸周辺で醸造された酒は「地廻り酒」と呼び産地で区別されている。
 また、下り酒のなかでも、特に伊丹酒の名声は高く、「日本山海名産図会」では、伊丹酒を称賛し絵入りでその酒造りを紹介している。

(ロ) 江戸時代後期における灘酒造地の台頭

江戸後期になるとそれまでの伊丹酒にとって代わり、今日でも有数の銘醸地として知られる灘五郷の灘酒が台頭した。

A 灘酒の評価

「守貞漫稿」には、江戸時代前期に高い評価を得ていた伊丹酒や池田酒は衰退し、灘酒が最高の評価を得るようになったことが記されている。

B 灘酒の江戸入津数

天明4(1784)年の江戸の入津総数は675,668樽となっており、灘目からは、39.8%にあたる269,182樽、今津からは5.4%にあたる36,296樽が出荷され、両地域で305,478樽にも達し、江戸入津樽数の45.2%を占めていた。翌5年は360,537樽で46.6%、6年は357,871樽で45.8%と江戸へ安定した出荷が行われていた。文化14(1817)年には江戸の入津総数は百万樽を越えて1,014,967樽に達しており、そのうち今津、灘目から出荷された灘酒が占める割合は53.3%と半分以上を占めるようになった。文政4(1821)年には江戸の入津樽数の60.5%にも至った。

C 灘酒造地の発展要因

(A) 宮水の発見

「宮水」は天保11(1840)年に酒造家の山邑太郎左衛門によって発見されたとされており、その経緯については「灘酒沿革誌」に記されている。
 これによると、太郎左衛門は西宮蔵で造る酒が魚崎蔵より常に勝っているのを不思議に思い、西宮と魚崎の杜氏を替えてみたり、同じ麹や同じ醸造法を用いたりしたが良い結果は得られなかった。そこで、試しに西宮の水を魚崎に運び、その水で酒を造ったところ美味しい酒ができたことから、西宮の酒が良質な酒となる要因は水にあることを発見したとされている。
 ただし、「灘酒沿革誌」には他の説も記されており、どちらの説が正しいのかは明らかではないが、いずれにしてもこの宮水の発見が、江戸市場における灘酒を不動の地位に押し上げ、今日の灘の酒造りを支えるものとなっている。

(B) 水車による高度精米

灘酒沿革誌には、伊丹、池田がまだ足踏み式精米を行っていたころに、灘ではすでに水車精米が行われるようになったことが記されており、水車精米の導入は、短時間での大量精米だけでなく、高度精米による酒質向上にも大きく貢献したものと考えられる。

(ハ) 下り酒の輸送手段の発展

下り酒の輸送は江戸市場が拡大するにつれ、大量輸送に適した船が利用されるようになる。船による輸送は、はじめの頃、日用品と一緒に運ぶ菱垣廻船によって行われていたが、混載便である菱垣廻船は集荷・出航までに多くの日数を必要としたことや海難の際の補償制度が酒荷主に不利なものであったことから、下り酒のみを専用で輸送する樽廻船により行われるようになった。

(ニ) 下り酒の販売機構

江戸では、人口が増加するにつれ、それまでの生産者と小売業者の間に第三の供給者として問屋が介在するようになり、問屋制度が急速な発展を遂げている。
 酒問屋の起源は諸説あり、明らかではないが、始まりは慶長期頃のようである。
 具体的に問屋に相当する事業者の存在を示すものとしては、寛永2(1625)年7月に幕府が発布した触書があり、そこには、酒を含む12品目について購入する場合は「行儈(すあい)」を介さなければならないとされている。行儈は、仲立商人として生産者(荷主)と消費者の間に存在する問屋の一種であったといわれている。また、明暦3年(1657)9月の触書には、材木問屋、米問屋、炭問屋などとともに酒醤油問屋と称する酒問屋があったことが記されている。これら諸問屋は、寛文・貞享年間(1661年〜1687年)には問屋仲間を組むようになり、元禄7(1694)年には、江戸商人大坂屋伊兵衛が中心となって、塗物店組、内点組、通町組、薬種店組、釘店組、綿店組、表店組、河岸店、紙店組、酒店組による江戸十組問屋を結成した。
 江戸十組問屋が結成された元禄期には、酒問屋と小売酒屋の間に酒仲買が介在するようになり、ここに酒造家(荷主)、酒問屋、酒仲買、小売酒屋、消費者という一連の販売経路が成立したこととなる。

(4)近代の酒と現状

イ 政府による酒造政策

(イ) 明治政府の酒税制度

明治政府は、慶応4(1868)年5月「商法大意」を公布して新しい商工政策を示し、これまでの幕藩体制下の株仲間の特権を排除し、営業の自由を認めた。しかし酒造業については、同年同月に「酒造規則五ヶ条」を定め例外とし、旧幕時代の酒造株を新たに酒造鑑札として、これまでの制度を踏襲している。
 明治2(1869)年12月には、「酒造並びに濁酒酒造株鑑札方並び年々冥加上納方」を布達し、一時冥加として100石に付金10両、年々冥加として金10両を定め、酒造税を営業税(一時冥加)と醸造税(年々冥加)の2本立てとした。
 明治4(1871)年に廃藩置県が実施されると、新たに「清酒濁酒醤油鑑札收与並ニ収税方法規則」が公布され、実質的に旧幕時代から続いた酒造鑑札が廃止となり、他の産業と同様に営業の自由が認められた。また、免許料は造石高に関係なく一律で課税され、醸造税は従価税方式となり、ここに全国統一の酒造政策が行われるようになった。
 明治8(1875)年には「酒類税則」が公布され、酒造営業税、醸造税ともに増税が行われており、この頃には、酒税は地租に次ぐ重要財源として注目されるようになった。以降、明治10(1877)年12月には濁酒営業税を設ける税則改正がなされるとともに、醸造税の引き上げが行われ、翌年9月には、醸造税の従価方式を廃止し、従量税方式として1石につき1円とする改正が行われた。
 さらに明治13(1880)年9月には、酒造免許税を酒造場1箇所に付毎期30円、従量税としての醸造税を造石税としたうえで2円と大幅に引き上げる改正が行われている。こうした度重なる増税が契機となり、酒造業者は反税闘争を展開することとなった。

(ロ) 戦時下における酒造統制

昭和12年日中戦争がはじまると、日本では戦時下における経済統制が敷かれるようになった。昭和13年4月には、酒類販売業は免許制度となり、翌年3月には、日本酒などを価格取締の物品に指定したうえで、3月4日現在の価格に固定し、公定価格が導入されている。さらに、同年10月には、国家総動員法に基づく価格等統制令が公布された。
 このような厳しい統制のなかで、戦時下ということもあり、酒の生産量は大幅に減少し、市中では酒を水で薄めた「金魚酒」が横行するようになった。政府は昭和15年4月にアルコール度数と原エキス分に基づき、上等酒、中等酒、並等酒に分類して、それぞれに販売価格を設定し、さらに、昭和18年4月には、酒質に応じて課税する級別制度を導入しており、違反した場合は国家総動員法に基づき重罪を課した。

ロ 西洋科学による日本酒の研究

明治時代になると多くの御雇外国人教師が来日するようになり、日本の酒造りを科学的に分析するようになった。なかでも明治7(1874)年に東京開成学校(東京大学の前身)の御雇外国人教師として来日した英人R・W・アトキンソンは、清酒造りについて研究を行い、明治14(1881)年に「The Chemistry of Sake Brewing」を発表している。この論文は、清酒造りについての最初の西欧式科学論文とされ、この論文は日本の若い学者を刺激し自らの手で日本の酒造りの神秘性・伝統性を解明する契機をつくったといわれている。以降、酒造りについては、科学的分析が進められるようになり、その点においてもこの論文は大きな意義があったといえる。

ハ 醸造試験所による民間支援

明治政府は、「富国強兵」「殖産興業」のもとで軍事力の強化とともに、産業育成に取り組むようになり、明治後期には産業界からの要請により多くの国立試験研究機関を設立し、民間企業の技術指導を行うようになった。こうした政府の研究機関の一つとして、明治37(1904)年に醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)が設立されている。醸造試験所は、清酒の品質及び醸造法の改良を目的として研究や民間支援を行い、速醸酒母や山卸廃止酒母の開発、優良酵母の単離・頒布などの業績を上げ酒類業の発展と近代化に貢献した。

ニ 日本酒の現状

(イ) 日本酒の製成数量と製造免許場数の推移

戦争からの復興期を経て、昭和30年代の高度経済成長期になると日本酒の製成数量は大幅に増加して、昭和48年度には1,421千klのピークを迎える。昭和45年度には原料米割当による生産統制が撤廃、昭和48年には生産自主規制が廃止されたことで日本酒は完全生産自由化の時代が到来した。それとともに、日本酒の製成数量は減少傾向に転じ、令和4年度にはピーク時のおよそ1/4の328千klまで減少している。また、製造免許場数は戦争からの復興期に徐々に増加し、昭和31年度にピークの4,073場に達したが、昭和32年度からは減少に転じ、令和4年度には1,536場にまで減少している。

(ロ) 酒類別の販売(消費)数量の推移

日本酒の販売(消費)数量は、戦後の復興期から高度成長期と増加して、昭和50年度に1,675千klのピークを迎えることとなる。以降、年度によって多少の増減はあるものの減少傾向が続き、令和4年度にはピーク時のおよそ1/4の403千klまで減少している。
 同時期について20歳以上人口を基に日本酒の1人当たり販売(消費)数量を算出すると、昭和50年度は1人当たり年間21.8lであるのに対して、令和4年度では1人当たり年間3.8l、昭和50年度比では17.4%(△82.6%)まで減少している。同様のことを全酒類で確認すると、昭和50年度の1人当たり販売(消費)数量は77.9lとなる。これに対し、令和4年度では1人当たり販売(消費)数量は74.6l、昭和50年度比では95.8%(△4.2%)となる。
 日本酒の1人当たりの販売(消費)数量が82.6%減少しているのに対して、酒類全体ではその減少幅は4.2%程度である。以上の状況から、日本酒の販売(消費)数量の減少は、消費者の酒に対する嗜好が酒類の中で変化し、日本酒から他の酒類に移ったことに起因して起こっているものと考えられる。

(5)日本酒の価値に関する考察

長い歴史をもつ日本酒について、昔の人たちはどのような価値を見出していたかなど価値に着目してみていくこととする。

イ 江戸時代の古酒

現在では新酒が重宝される日本酒であるが、歴史的にみると新酒よりも古酒の方が貴重とされていた時代があり、特に江戸時代は現存する史料からそのことがうかがえる。

(イ) 古酒の販売価格

江戸の商店や飲食店などを紹介した「江戸買物独案内」には、「九年酒」や「七年酒」などの古酒の値段が確認できる。ここに記された値段を現在の貨幣価値に置き換えると、一般的な酒である「大國酒」が8,300円、「布袋酒」が7,500円、「明乃鶴」が6,500円であるのに対して、古酒の「九年酒」は16,667円、「七年酒」は8,333円、「六年酒」は10,000円である。古酒のうち一番安値の「七年酒」でも8,333円で、一般的などの酒よりも高値で取引されていたこととなる。
 次に古酒のなかで価格を比較してみると、高い順に「九年酒」、「六年酒」、「七年酒」となる。もし熟成期間の長短だけで古酒の価格が決まるのであれば、「九年酒」、「七年酒」、「六年酒」の順になるはずであるが、そのようになっていないことから、古酒の価格は熟成期間の長短だけでなく、味の良し悪しも考慮されているものと考えられる。

(ロ) 江戸時代の日本酒の酒質

江戸時代の商品学書「万金産業袋」(享保17(1732)年成立)には、造られたばかりの伊丹・池田酒は、鼻をはじくような辛さに加え、苦味もあったとされている。また、そのような酒も船で江戸に運ばれるうちに、味にまるみがでて格別なものとなることが記されている。下り酒の輸送日数は、延宝期(1673年〜1680年)の頃で1か月程度を要したといわれており、この程度の期間でも熟成が促され、格別のものとなるのであれば、何年も熟成させた古酒の味は別格のものであった可能性が高いものと考えられる。
 古酒については、「訓蒙要言故事」において、古酒は味が濃く全身がうるおうように酔うのに対し、新酒は味が薄く頭しか酔わないと、それぞれの酔い方を祇園会と御霊祭の賑わいに例え記されている。また、「本朝食鑑」では、貯蔵期間が3年、4年、5年のものは、味は濃く香りもよいとされ、6、7年から10年のものは、味は薄く、色合いは深く濃く、香も異なりさらによいとされている。
 これらに記された内容から当時の古酒は、新酒にはない香りを有し、熟成期間を経るほどに色合いは増し、味も調和が図られ味わい深いものであったことがうかがえる。また、新酒にはない飲みやすさがあり、こうした違いが江戸の人々を魅了していたものと考えられる。

(ハ) 古酒の衰退

古酒は明治時代になるとその姿を消しており、その理由の一つは「造石税」にあったといわれている。「造石税」は酒を搾ると同時に課税対象となったため、多くの酒造業者が古酒を貯蔵することをやめたといわれている。

A 従量税方式への転換の影響

本来であれば古酒の製造量を基に影響を確認するところであるが、古酒の製造量を示した資料が把握できなかったため、日本酒全体の製造量から影響を確認する。
 日本酒の製造量は、明治11(1878)年の従量税方式の導入以降も増加しており、課税方式の変更自体が日本酒の製造量に悪影響を及ぼしているような傾向は見受けられない。もっとも、製造されたもののなかには、従量税方式の導入を受けて、古酒をやめ新酒に切り替えたものもあったと考えられることから、その点では影響があったといえる。

B 増税の影響

明治16(1883)年になると日本酒の製造量は大幅に減少している。前年の明治15(1882)年は、酒屋会議が開催されており、この頃は明治政府による度重なる増税が酒造業者の経営を圧迫するようになった時期と重なってくる。そこで、増税が酒造業者の数にどのような影響を与えたか確認する。
 明治11(1878)年に醸造税が従量税方式となった際の税率は1石につき1円であったが、明治13(1880)年には「造石税」に改められ、1石につき2円となり、酒造免許税も酒造場1箇所につき30円が課されるようになった。同年の免許場数は39,865場であったが、翌14(1881)年には26,826場(対前年△32.7%)まで大幅に減少している。さらに明治15(1882)年には、造石税が1石につき4円に引き上げられている。同年の免許場数は25,814場であったが、翌16(1883)年には21,733場(対前年△15.8%)となり、以降も減少傾向にある。以上のことから、明治政府が行った増税は、結果として酒造業者の減少を招いた可能性が高かったと考えられる。
 次に、明治13〜17(1880〜1884)年の免許場数と製造量の関係をみてみると、明治14(1881)年の免許場数は前年より△32.7%と大幅に減少しているものの、製造量は△4.5%にとどまっている。翌15(1882)年は免許場数が△3.8%であったのに対し、製造量は逆に増加し、+2.2%となっている。つまり、酒造業者の減少は製造量に大きな影響を与えていないこととなり、増税の影響を受け減少した酒造業者の多くは、小規模事業者だったと考えられる。
 再度増税が行われた明治15(1882)年の翌年の免許場数が前年より△15.8%であったのに対し、製造量は△37.4%と免許場数の減少よりも大きな減少を示している。このことは、明治15(1882)年の増税の影響がある程度の事業規模の酒造業者にも及んだ可能性があることを示していると考えられる。

C 小括

古酒の製造量が把握できなかったため、確たることはいえないが、古酒の衰退は次のようにして起こったと考える。
 明治11(1878)年に従量税方式に転換されたことで、酒造業者のなかには古酒から新酒に切り替えるものも現れた。次いで、明治13(1880)年醸造税が造石税に改められ、2円に引き上げられた。酒造業者は増税分を価格に転嫁するが、価格上昇は消費者の動向に影響を与え、消費の減退を招くこととなり、酒造業者の経営は圧迫されるようになる。なかでも経営基盤が脆弱な小規模酒造業者は影響が大きく、酒造業からの撤退を余儀なくされる。これにより、廃業した酒造業者がそれまで製造していた古酒は失われることとなる。また、廃業に至らなかった酒造業者でも、古酒の長期熟成に耐えられるだけの経営基盤を持ち合わせていないところは、古酒をやめて新酒に切り替えた。さらに、明治15(1882)年造石税が4円に引き上げられたことで、明治13(1880)年と同様の事象が起こったが、度重なる増税の影響は中規模・大規模酒造業者にも及ぶものであった。結果、古酒は廃業と新酒への切り替えにより、その姿を消していったと考えられる。

ロ 近代における銘醸地の展開

現在では日本全国に銘醸地が存在し、その銘醸地には名酒があり、多くの人々から人気を得ている。そこで、このような価値の転換がどのようにしてなされたのか考察する。

(イ) 全国的な酒質の向上

銘醸地と呼ばれるようになるためには、灘などの先進的産地との酒質の地域格差が解消される必要がある。そこで、酒質の地域格差の解消について、酒造りに適した原料の普及と酒造技術の普及の面から検討する。

A 酒造りに適した原料の普及

(A) 水

灘酒造地の発展要因が「宮水」の発見であったように、使用する水によって酒質は大きな影響を受けることとなる。使用する水について科学的見地から酒造りに適すものが明らかになったことにより、酒造りに適した水を使用するようになり、酒質の向上が図られたものと考えられる。

(B) 米

酒造りには、我々が普段食べる米とは異なる酒造りに適した「酒造好適米」が使用される。酒造りに適した米を使用するようになったのは、江戸時代、灘で酒造りが盛んに行われるようになった頃といわれている。
 現在、酒造好適米は沖縄を除き全国的に生産が行われており、このように酒造りに適した酒造好適米が全国的に普及したことで、米による酒質の違いが解消され、新興産地の酒質向上につながったものと考えられる。

B 酒造技術の普及

技術普及による技術水準の地域格差の解消は、先進的産地の優位性を縮小し、新興産地の成長を促進するといわれている。

(A) 醸造試験所が開発した新技術普及

醸造試験所が明治42(1909)年に開発した山廃酒母、速醸酒母及び酸馴養連醸法については大正期にかけて全国的に普及しており、酒造技術の向上に寄与している。これらの新技術の導入には地域差があり、新興産地である東北地方などで積極的に導入されているのに対して、先進的産地である兵庫県や京都府などはそれまでの生酛が維持されている。こうした新技術の積極的導入が新興産地の技術水準を押し上げる一因であったと考えられる。

(B) 技術官による技術指導

国は酒税の安定的な確保のため、技術的に遅れている産地の酒造業者に対して熱心に技術指導を行っており、こうした偏重は大正末期から昭和初期まで続いたといわれている。
 新興産地に対する優先的技術指導は、新技術の普及にも大きな影響を及ぼしたといわれており、こうした新興産地に対する技術指導が技術水準格差の解消の一因であったと考えられる。

(ロ) 消費者の価値観の形成

銘醸地となるためには、その土地で造られた酒の価値が消費者に認められ、支持される必要がある。近代における価値観の形成には、博覧会や品評会、共進会が重要な役割を果たしたとされ、酒造業界においては「清酒品評会」(以下、「品評会」という。)がその役割を担ったといわれている。
 品評会は回を重ねるごとに、それまで受賞したことがなかった県でも受賞がみられるようになり、最後となった第16回には37道府県に達し、現在銘醸地として知られるところも含まれるようになっている。
 品評会における受賞率は産地の優劣も定めてしまったともいわれている。また、宣伝能力を持たない中小酒造業者にとって、優等賞の獲得は、すべての宣伝にも勝る広告効果を持っており、賞を受賞した酒造業者には、そのことを酒瓶のマークとして利用し、売り上げを大きく伸ばしたといわれている。こうした絶大な宣伝効果を持っていたとされる品評会の評価が、それまであまり知られてこなかった酒造地を世に知らしめるとともに、消費者の価値観の形成に影響を与え、各地に銘醸地を生み出したものと考えられる。

(ハ) 吟醸酒造りによる先進的産地との差別化

新興産地の酒質の向上による地域格差の解消は、先進的産地の酒質との同質化を意味し、酒質の同質化は品質競争を激化する可能性があるといわれている。結果として、差別化を図ろうとする酒造業者が現れるのは自然なことで、差別化の手段が「吟醸酒造り」だったのではないかと考えられる。
 吟醸酒造りは成算を度外視にして始められ、灘や伏見の高級酒とは対抗の関係にあったといわれ、吟醸酒造りを積極的に行った新興産地は、独自の高級酒を生み出したことで、先進的産地との差別化が図られたと考えられる。また、吟醸酒は「日本酒の愛飲家が多く買い求めた」といわれており、吟醸酒を造る酒造業者が多くいた新興産地は吟醸造りによってブランド力を高めたと考えられる。

3 結びに代えて

酒造りは先人たちの創意工夫のもと発展を遂げ、その技術は伝統として今に受け継がれている。我が国は海外から多くの面で影響を受けながら発展を遂げてきたが、日本酒造りについては、その歴史からも分かるように海外から大きな影響を受けることなく、我が国固有の文化として発展を遂げてきている。また、日本酒は我が国の気候風土にも大いに関係している。酒造りの面では江戸時代に始まった寒造りにみられるように、酒造りに適した気候条件で行うことで酒質の向上を図り、飲酒面では暑い季節には冷で飲み、寒くなると燗をして飲むといった飲酒文化も生まれている。
 日本酒は長い歴史と伝統を有し、我が国の気候風土、文化とも密接に関係し、これまで一度として絶えることなく発展を遂げてきたが、近年は国内における消費量は減少傾向にある。あらゆることが多様化している状況の中、消費者の嗜好に合わせて酒類が選択できる現代においては仕方のないことである。しかしながら、そうであったとしても先人たちから受け継いだ日本酒の文化・伝統は今後も絶やすことなく後世に引き継ぐことが我々の使命ではなかろうか。
 世界にはイギリスのウイスキー、フランスのワイン、ドイツのビールといったその国ならではの酒があり、「伝統ある国民は何れも独特の酒をもって誇としている。」といわれている。我が国にも世界の酒に引けを取らない長い歴史と伝統をもつ日本酒があることを誇りとして、今後も大切にしていかなければならない。


目次

項目 ページ
はじめに 168
第1章 古代の酒 170
第1節 古墳時代以前の酒 170
1 中国『三国志』「魏書東夷伝倭人条」にみられる倭国の酒 170
2 「古事記」「日本書紀」にみられる酒 171
第2節 飛鳥時代から平安時代の酒 174
1 麹を使った酒造りの登場 174
2 律令制度下における朝廷の酒造り 175
第2章 中世の酒 180
第1節 酒屋の発展と鎌倉及び室町幕府による酒造統制 180
1 洛中・洛外の酒屋 180
2 鎌倉及び室町幕府による酒造政策 181
3 「麹座」と「文安の麹騒動」 182
第2節 寺院における酒造りと酒造技術の発展 183
1 僧坊酒の登場 183
2 寺院における酒造技術 185
第3節 新興銘醸地の台頭と諸白酒の登場 188
第3章 近世の酒 190
第1節 江戸幕府による酒造政策 190
1 酒造りの規制と税 190
2 江戸幕府の醸造規制と寒造りへの移行 194
第2節 下り酒銘醸地の発展 196
1 江戸時代前期の銘醸地 196
2 江戸時代後期における灘酒造地の台頭 198
第3節 下り酒の輸送手段の発展と販売機構の成立 205
1 陸路から海上へ輸送手段の発展(菱垣廻船・樽廻船の登場) 205
2 酒問屋の成立 207
第4節 酒蔵の酒造労働者 211
1 蔵人と碓屋 212
2 杜氏集団の形成 213
第4章 近代の酒と現状 215
第1節 政府による酒造政策 215
1 明治政府の酒税制度 215
2 酒屋会議(反税闘争) 217
3 戦時下における品質統制・級別制度の導入 218
第2節 酒の科学的研究 219
1 西洋科学による日本酒の研究 219
2 醸造試験所による民間支援 221
第3節 日本酒の現状 224
1 日本酒の製成数量と製造免許場数の推移 224
2 酒類別の販売(消費)数量の推移 225
第5章 日本酒の価値に関する考察 228
第1節 江戸時代の古酒 228
1 古酒の販売価格 229
2 江戸時代の日本酒の酒質 232
3 古酒の衰退 234
第2節 近代における銘醸地の展開 239
1 江戸幕府が行った地廻り酒振興策 240
2 全国的な酒質の向上 242
3 消費者の価値観の形成 250
4 吟醸酒造りによる先進的産地との差別化 253
5 小括 257
結びに代えて 258

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