西國原 悠
税務大学校
研究科研究員

要約

1 研究の目的(問題の所在)

A(第三債務者)は、Bに対してα債権を有し、Bは、Aに対してβ債権を有している。Bの債権者であるC(差押債権者)が、β債権を差し押さえたところ、Aは、Bに対して有するα債権を自働債権とし、β債権を受働債権として相殺しようとした。この相殺をCに対抗することができるか、という「差押えと相殺」の問題については、古くから多くの議論があった。
 平成29年に成立した民法の一部を改正する法律では、自働債権と受働債権の弁済期の先後を問わず相殺できるとする無制限説が明文化された(改正民法511条1項)。さらに、差押え時に具体的に発生していないものの発生原因が存在する債権を自働債権とする相殺が許容されており(同条2項)、この点、平成29年改正前民法より相殺権を拡張したものといえる(1)。なお、これらの規定に基づいて相殺が容認されるとしても、執行妨害的な債権取得事例や偏頗行為的な相殺までもが容認されるものではないため、このような相殺に対しては、相殺権濫用の法理により差押債権者と第三債務者の公平が確保されることになると解されている(2)
 このような民法の規定及び解釈に基づき、国税徴収法基本通達は、差押債権(受働債権)及び反対債権(自働債権)の弁済期がいずれも到来している場合、第三債務者は、相殺をもって差押債権者に対抗することができ、この反対債権には、差押え前の原因に基づいて差押え後に取得した債権が含まれる旨、ただし、先に弁済期が到来した差押債権につき第三債務者が履行しなかったことが、その期間の長さなどからみて権利の濫用に当たるときはこの限りではない旨を示している(国税徴収法基本通達62条関係31)。
 租税徴収と相殺の関係については税法上明文の定めがないため、「差押え前の原因に基づいて差押え後に取得した債権」、「権利の濫用」の意味内容等は民法の規定及び解釈に従うこととなるが、これらは必ずしも明らかとはなっていない。この問題について、民法の議論の進展や裁判例の蓄積を待つばかりでは、実際に第三債務者から相殺の主張がされたときに対応することができず、差押債権の取立てが円滑に行えなくなる可能性がある。
 そこで、本稿では、差押債権について第三債務者から相殺の主張がされたときに、どのような事実があればそれを争い得るか、その判断基準を明らかにするための検討を行うこととする。また、検討を深めるにつれ、租税徴収の実務においては、第三債務者から相殺の主張がされたときその全てを民法の解釈によって解決していくのは限界があると考えられたことから、新たな立法の提案を試みている。


(1) 法務省民事局参事官室平成25年4月「民法(債権関係)の改正にかかる中間試案の補足説明」308頁参照。https://www.moj.go.jp/content/000112247.pdf(2022.5.31最終確認)、沖野眞巳「相殺に関する民法改正下の解釈問題―差押えと相殺における『前の原因』をめぐって」平成27年度金融法務研究会第2分科会報告書(2018)45頁参照。

(2) 法務省民事局参事官室平成25年4月・前掲注(1)310頁、沖野・前掲注(1)47頁参照。

2 研究の概要

(1)相殺に関する学説及び判例の変遷

イ 差押えと相殺に関する学説

平成29年改正前民法511条の下においては、差押え後に取得した債権でさえなければ、差押え前に相殺適状となっていなくても相殺できるのか、また、相殺適状になっていないとしても、差押債権(受働債権)と反対債権(自働債権)の弁済期の先後が問題になるかという点は、必ずしも明らかではなかった(3)
 この点については、差押えの時点以前に相殺適状があった場合にだけ相殺が認められるとする相殺適状説、反対債権が差押え前に取得されていることに加え、その弁済期が受働債権のそれよりも早く到来する場合に限って相殺が認められるとする制限説、差押え前に自働債権が取得されておりさえすれば、両債権の弁済期の到来やその弁済期の先後を問わず相殺が認められるとする無制限説等、多様な見解が発表されていた。

ロ 判例の変遷と平成29年民法改正

判例は、最大判昭和39年12月23日民集18巻10号2217頁において制限説の立場を採用したものの、わずか5年あまりで判例変更し、最大判昭和45年6月24日民集24巻6号587頁で無制限説の立場を採用した。以降、実務上は無制限説を前提とした運用が定着していた。
 しかし、学説では、制限説を支持する見解が、なお有力に主張されていた。これは、無制限説によると、自働債権の弁済期が受働債権の弁済期より後に到来する場合に、受働債権を履行しないで、自働債権の弁済期が到来するのを待った上で相殺するといった不適切な相殺が許容されることになるためである(4)
 このような状況の中、平成29年改正民法は、無制限説の立場を明文化した(改正民法511条1項)。制限説が指摘してきた不誠実な第三債務者からの相殺が許容されるのかという問題については、相殺権濫用の法理により対処していくことになると解される(5)

(2)平成29年改正民法による相殺の拡張

平成29年改正前民法511条は、差押え時に具体的に発生していないものの、発生原因が存在する債権を自働債権とする相殺が禁止されるか否かが、条文上明らかではなかった。一方で、破産法においては、破産債権者が破産者に対して債務を負担するときに相殺をする場合において、このときの自働債権は、破産債権に該当するものであれば、破産手続開始決定時に具体的に発生している必要はないと解されている(6)
 このように、差押え時と破産手続開始決定時とで相殺を対抗することができる範囲が異なっていたところ、平成29年改正民法は、差押え時に具体的に発生していない債権であっても、「差押え前の原因に基づいて生じた」債権を自働債権とする相殺を容認した(改正民法511条2項)。これについては、差押え時に相殺を対抗することができる範囲が、破産手続開始決定時に相殺を対抗することができる範囲まで拡張されたものとみることができる。
 しかし、民法511条2項における「差押え前の原因」という要件は必ずしも明確なものとはいえず、これが具体的には何を指すのか議論になるという指摘がされている(7)
 「差押え前の原因」に関する先行研究の成果を見ると、この問題は、差押債権者の利益と、第三債務者の利益とをどのように比較衡量して決するか、この両者の利益を公平に保護しようとするためには、どのような基準が妥当かという点にあるように思われる。そうするとこの問題は、理論上の問題というよりも、差押えと相殺、どちらが優先されるべきかという価値判断に過ぎないのかもしれない。

(3)差押えと相殺

イ 相殺の適否を決する判断要素

(イ) 相互性

相殺をするためには、同一当事者間の債権の対立(相互性)がなければならない。この理解は、最二小判平成28年7月8日民集70巻6号1611頁により維持されている。ただし、同判決の補足意見は、三者間相殺の場面においても、@相殺の対象となる債権債務の主体の同意を得ている場合、A二者間相殺と実質的に同視してよいほどの組織面・事業活動面での密接な関連性が、合意した二者間の一方と、その者と親会社を同じくする関係会社との間に見られる場合には、相互性の要件を満たしていると解される余地を示している。

(ロ) 「差押え前に取得」

自働債権は、差押債権者の差押え前に取得されていなければならない。「取得」については、民法改正の検討過程においてその概念を規範的に構成する議論が特段されなかったことからすると、具体的な事実の発生かつ第三債務者への帰属を指すものと理解するのが自然である(8)。なお、無制限説を採用したことの帰結から、「取得」した債権に弁済期が到来している必要はないこととなる。差押えの段階で弁済期は未到来であっても、相互性要件を満たす債権債務の対立が生じていれば、「相殺への合理的期待」があるものとして、差押債権者に対抗できる地位が確保される。

(ハ) 相殺権行使と取立てとの競争

差押債権者が受働債権を取り立てるときまでに自働債権の弁済期が到来しておらず、相殺適状が生じていなければ、無制限説の下でも相殺は認められない。したがって、受働債権の弁済期が自働債権の弁済期よりも先に到来し、かつ、受働債権につき差押えがされたという場合に第三債務者が優先し得るのは、差押債権者が差し押さえた債権を回収することなく時間が経過し、そうこうするうちに自働債権の弁済期が到来して相殺適状が現実化したという場合に限られるはずである(9)。しかし、実際には、第三債務者が取立てに応じないまま時間が経過すれば、その間に自働債権の弁済期は到来するから、事実上常に相殺は可能ということになると考えられる(10)

(ニ) 「差押え前の原因」

民法511条2項の「差押え前の原因」の解釈に当たっては、「相殺への合理的期待」の有無の判断により「前に生じた原因」を解釈する倒産法の論理を流入させることが同項の趣旨にかなうと考えられ、したがって「差押え前の原因」の有無を判断するに当たっても、「相殺への合理的期待」があるか否かという判断により解釈していくことが適切であると思われる(11)
 「差押え前の原因」に関する学説、最一小判平成26年6月5日民集68巻5号462頁の調査官解説及び最三小判令和2年9月8日民集74巻6号1643頁の理解によると、同一の法律関係や契約から債権債務が発生するなどして自働債権と受働債権との間に客観的な牽連性がある場合は、自働債権を差押え時に取得していなかったとしても「相殺への合理的期待」が認められ、「差押え前の原因」に基づいて生じたものといえそうである。また、客観的な牽連性がなかったとしても、当事者の合意等主観的な牽連性があれば、「相殺への合理的期待」が認められ得るように思われる。客観的又は主観的な牽連性という視点から「相殺への合理的期待」を肯定する余地がない場合においては、それがないことをもって直ちに「相殺への合理的期待」が否定されるとまではいえないが、その可能性は高くなるように思われる。

(ホ) 「他人の債権を取得」

差押え後に取得した自働債権が「差押え前の原因」に基づいて生じたものであっても、第三債務者がその債権を差押えの後に他人から取得した場合は、相殺をもって差押債権者に対抗することができない(改正民法511条2項但書)。最二小判平成24年5月28日民集66巻7号3123頁の理解によると、「他人の債権を取得」したか否かの判定に当たっては、自働債権の取得に関して、相殺の相手方の意思的関与を問うことになると解される。

(ヘ) 「相殺への合理的期待」

今日における民法及び倒産法の解釈等を見ると、「相殺への合理的期待」という概念は、相殺の範囲を拡張する方向にも、絞る方向にも働き得るという点で明確なものではない。いわば、取得した債権を自働債権とする相殺を認めるにふさわしいと判断できる場合には、「相殺への合理的期待」が充足され、相殺が認められることになるものと考えられる。そうすると、これまで述べてきた諸要素は相殺の適否に影響を与えるとしても決定打を与えるものではなく、このため具体的事例における個別事情を斟酌する作業はどうしても必要になろう。

ロ 相殺権濫用の法理

差押えと相殺の局面における債権者間の公平は、各種の相殺禁止規定を歯止めとし、そして相殺権濫用の法理を最終的な防波堤にして保たれることになる。
 裁判例を見ると、相殺について相殺権濫用として排斥されるかどうかの判断基準としては、相殺権者の意図した目的の背信性、相殺権者の選択可能性についての自由意思の存在等を総合的に考慮して判断することになると考えられる。そして、裁判例が、信義則、権利の濫用といった文言を用いて相殺権濫用を導き出していることに照らすと、相殺権濫用の法理も、権利濫用の一形態として位置付けられると考えられる(12)。しかし、ここで行われる濫用性の判断は、結局、取得した債権を自働債権とする相殺を認めるにふさわしいか否かという判断であり、これは、「相殺への合理的期待」の判定に他ならないように思われる(13)

(4)国税徴収法改正の必要性

差押えと相殺の優劣の判断は、決して簡単ではないため、租税徴収の場面において常にこの判断を行わなければならないとするのは、徴収制度として合理的なものとはいえない。したがって、国税徴収法の改正により租税徴収と相殺の関係を新たに規律すべきであると考える。
 なお、約60年前の国税徴収法改正当時においても、租税徴収と相殺の関係を新たに規律すべきか否かが活発に議論されていた。同法は、租税債権を一般の私債権と同じ性格のものとして捉えようとし、そして、租税債権の性格からそれでは十分に対応できない場合にそれに対処する措置を別途講じるという構想から設計されている。同法改正当時、徴税当局は、租税徴収と相殺の関係について何らかの対処をしなければならない必要性を十分主張できず、また、その当時の実務は、相殺適状説により行われており、差押えと相殺の優劣は一義的に決しやすかった。そのため、同法には、相殺を規律する規定は何ら置かれなかったと考えられる。しかし、その当時から相殺が対抗できる範囲は大きく様変わりしていることから、今日においては、改めて租税徴収と相殺との関係を規律する必要性は認められ得よう。


(3) 法務省民事局参事官室平成25年4月・前掲注(1)308頁参照。

(4) 法務省民事局参事官室平成25年4月・前掲注(1)308頁参照。

(5) 法務省民事局参事官室平成25年4月・前掲注(1)310頁参照。

(6) 法制審議会民法(債権関係)部会「資料69A 民法(債権関係)の改正に関する要綱案のたたき台(4)」(2013)28頁参照。https://www.moj.go.jp/content/000119882.pdf(2022.5.31最終確認)。

(7) 日本弁護士連合会編『実務解説 改正債権法[第2版]』(弘文堂、2020)344頁参照。

(8) 沖野・前掲注(1)55-56頁参照。

(9) 潮見佳男『新債権総論U』(信山社、2017)307-309頁参照。

(10) 内田貴『民法V[第4版]債権総論・担保物件』(東京大学出版会、2020)317-318頁参照。

(11) 石田剛「相殺における『相互性』『合理的期待』『牽連性』」法律時報89巻11号(2017)169頁参照。

(12) 木下雅博「債権譲渡契約が無効とされた場合に生じる不当利得返還請求権を貸金債権で相殺することが相殺権の濫用に当たるとされた事例」民事研修535号(2001)41頁参照。

(13) 森田修「『債権法改正』の文脈―新旧両規定の架橋のために 第十三講 相殺:担保的機能を中心に(その1)」法学教室460号(2019)98頁参照。

3 結論

差押えと相殺の優劣は、同一当事者において自働債権と受働債権が対立しているかという相互性や両債権の牽連性の有無、相殺の相手方の意思的関与等の要素を踏まえ、取得した債権を自働債権とする相殺を認めるにふさわしいと判断できる場合は、「相殺への合理的期待」があるものとして相殺を対抗できる、すなわち相殺が差押えに優先することになる。
 しかし、この判断は決して簡単なものではないため、租税徴収の場面において常にこの判断を行わなければならないとするのは、徴収制度として合理的なものとはいえない。したがって、国税徴収法の改正により租税徴収と相殺の関係を新たに規律すべきであると考える。
 立法の具体的な方向性であるが、第三債務者の相殺権は、@差押債権の履行には応じず相殺を対抗しておきながら、差押債権の履行期日よりも履行期が遅い他の債権を履行していたとき、A差押え前の原因に基づいて差押え後に取得した債権と、差押債権との間に牽連性が認められないとき、B差押え後に取得した他人の債権を自働債権として相殺したとき、C差押債権の履行期日までに確定していない自働債権により相殺したとき、保護されないものとしてはどうだろうか。また、その実効性を確保するための措置として、第二次納税義務の構成を採ることが、租税徴収の確保と私法秩序の尊重という国税徴収法の基本原則に最も適しているのではないだろうか。


目次

項目 ページ
はじめに 387
第1章 相殺に関する学説及び判例の変遷 390
第1節 相殺制度の概要と問題の所在 390
1 相殺の意義 390
2 相殺の機能 390
3 相殺適状 391
4 差押えと相殺―問題の所在 393
第2節 差押えと相殺に関する学説 394
1 相殺適状説 395
2 制限説 395
3 合理的期待説 395
4 無制限説 395
第3節 差押えと相殺に関する判例の変遷 396
1 大審院判例 396
2 昭和39年最大判 396
3 昭和45年最大判 398
第4節 平成29年民法改正 400
1 無制限説に対する批判 400
2 平成29年民法改正 400
3 なお残された問題点 401
第2章 平成29年改正民法による相殺の拡張 403
第1節 相殺の拡張と新たな問題 403
1 相殺の拡張 403
2 新たな問題―「差押え前の原因」 404
第2節 「差押え前の原因」に関する学説 405
1 「差押え前の原因」に相殺期待を基礎付けるものを必要とする見解 406
2 差押債権と自働債権の客観的な牽連関係を必要とする見解 407
3 主たる発生原因が備わった場合に「差押え前の原因」があるとする見解 408
4 抽象的な可能性の存在から「差押え前の原因」を容認する見解 409
5 必要事実・主要性・期待の正当性により「差押え前の原因」を判定する見解 410
6 自働債権の成熟度を必要とする見解 412
7 小括 413
第3章 差押えと相殺 415
第1節 租税徴収と民法の関係 415
第2節 民法511条の解釈 416
1 相殺の適否を決する判断要素 416
2 具体的な局面における相殺の適否 445
第3節 相殺権濫用の法理 449
1 相殺権濫用が問題となる局面 450
2 相殺権濫用の法理の実質 452
第4章 国税徴収法改正の必要性と立法案 455
第1節 租税徴収と相殺の問題 455
1 租税徴収の大量性、反復性と相殺判断の困難さ 455
2 相殺権濫用の法理の限界 457
3 相殺権の拡張と租税の優先徴収権 461
4 小括 463
第2節 昭和34年国税徴収法改正の沿革 464
1 国税徴収法改正―総論 464
2 国税徴収法改正当時における相殺の議論 473
3 小括 479
第3節 立法案の提案 481
1 差押債権者と第三債務者の優劣を処理する実体的規定 481
2 実効措置 489
おわりに 494