石渡 智大
税務大学校
研究部研究員
租税条約の主たる目的の一つに国際的二重課税の排除があるが、条約の締約国がその規定を統一的に解釈又は適用しない場合には、移転価格課税等による国際的二重課税を起因として、課税権を巡る締約国間の紛争が生じる。かかる紛争は、主として租税条約の規定に基づく相互協議によって権限ある当局間で解決が図られてきたが、租税条約上、相互協議には合意に至る義務が課されていないため、必ずしも紛争解決が保証されないという限界が内在している。このため、紛争解決の実効性を高めるべく、租税条約に仲裁制度を導入するための議論が行われてきた。仲裁制度とは、相互協議を開始してから一定期間以内に合意に至らない場合に、独立した第三者から構成される仲裁委員会が未解決の論点について拘束力のある決定を行う手続であり、近年では我が国の租税条約を始め仲裁規定を有する租税条約が増加してきている。
しかし、これまでの議論がEUやOECDを中心に行われてきたこともあり、仲裁制度の導入に前向きな国は先進国が多く、また、導入済みの国においても、仲裁手続を実施するための規定の整備がそれほど進んでいないとされている。このため、今後、我が国が仲裁手続によって紛争解決の実効性を高めていくためには、制度の導入拡大及び実施という二つの観点からの課題があり、これらはいずれも仲裁手続の仕組み如何に大きく関わるのではないかと考えられる。この点、我が国の先行研究としては、仲裁制度の導入の是非についての問題を検討したものが中心であり、仲裁手続の個別論点を検討したものは少数にとどまると思われる。
本稿は、以上のような問題意識の下、租税条約における仲裁手続について、上記二つの観点から我が国における現状を分析し、課題の考察を行うものである。
(1)租税条約における紛争解決手続の概要
租税条約の分野では、20世紀初頭に原型が誕生した相互協議を中心に紛争解決が行われてきたが、次第に実効性が不十分であると批判されるようになってきたため、これに代わる紛争解決手続が検討されるようになった。かつては国際連盟を中心に、相互協議を代替する裁判手続の創設が検討されたが、自国の課税権の制約につながるなどの懸念から導入には至らなかった。これに対してEUやOECDを中心に設計された現行の仲裁制度は、相互協議で合意に至らない場合に未解決の論点のみが仲裁付託され、仲裁決定に基づく権限ある当局間の合意によって事案が解決される。すなわち、仲裁手続は相互協議を補完するための位置付けであり、仲裁手続自体を機能させることよりも、仲裁手続の存在により権限ある当局に相互協議の合意を促すことに意義があるとされている。また、納税者が要請すれば権限ある当局に仲裁付託の義務があり、かつ仲裁決定が権限ある当局を拘束すること(義務的かつ拘束力のある仲裁)により、紛争解決の実効性を高める制度設計となっていることも現行制度の特徴とされている。
(2)我が国の租税条約における仲裁手続を巡る諸問題
イ 第一の課題〜制度の導入拡大の観点〜
我が国は、2010年に署名された日・蘭租税条約で初めて仲裁制度を導入し、本稿執筆時点では二国間租税条約及びBEPS防止措置実施条約(MLI)に基づき、27か国・地域との間で制度を導入済みである。先行研究によれば、我が国を始め、仲裁制度の導入への主な障壁として、憲法上の問題とリソースの問題の2点があると考えられている。
第一に、憲法上の問題とは、仲裁委員会に課税事案の紛争解決を委ねることで国家の課税権や司法権が制約されることである。第二に、リソースの問題とは、特にいわゆる途上国の権限ある当局を中心に、紛争解決に要する人員及び予算等が十分でないことである。これらは、現行の仲裁制度において、権限ある当局が仲裁付託及び仲裁決定のいずれも拒否できない仕組みであるために問題になるのではないかと考えられる。
そこで本稿の第一の課題として、制度の導入拡大の観点からは、義務的かつ拘束力のある仲裁の仕組みに焦点を当てることとした。ここでは、各国の法制度や実務の体制等に応じた仲裁制度の設計に至る前段階として、まずは仲裁手続の仕組みの点から、多くの国々にとって受入れが可能となるよう、制度への懸念や事務負担を緩和する方策を講ずることができないか考察することとした。
ロ 第二の課題〜仲裁手続の実施の観点〜
仲裁手続を実際に実施していくためには、権限ある当局間で仲裁決定方式や仲裁人の選任等の手続の細則を定める必要があるが、我が国が仲裁実施取決めを交わしたのは、本稿執筆時点で7か国・地域にとどまっている。ここで、仲裁決定方式には、仲裁委員会が独自の結論を出す独立意見方式と、両締約国から提示された解決案のいずれか一方を選択する最終提案方式の2種類があり、我が国の仲裁実施取決めは、OECDモデル租税条約(2008年版)に沿って、特段の事情がない限り前者が原則とされていると思われる。しかし、近年のOECDモデル租税条約(2017年版)やMLIでは後者が原則とされており、MLIにおいては、独立意見方式を留保する国々との間で、仲裁決定方式を含む具体的な実施方法に合意できない限り、我が国は、同条約の仲裁規定を適用することができない。
そこで本稿の第二の課題として、仲裁手続の実施の観点からは、仲裁手続の中で特に検討の必要性が高いと考えられる仲裁決定方式に焦点を当てることとした。ここでは、両方式の特徴及び効果的な活用方法を整理し、我が国における最終提案方式の採用拡大の可能性について考察することとした。
(3)諸外国の租税条約等における仲裁手続
本稿では、我が国がモデルとするOECDモデル租税条約を基礎として、米国、EU及び国連モデル租税条約における仲裁手続の比較検討を行った。いずれの仲裁手続も、相互協議の補完的手続であり、義務的かつ拘束力のある仲裁である点では同様であるが、細部には以下の相違点がある。
イ 米国
米国の仲裁手続は、最終提案方式のみを採用し、仲裁決定に理由が付されず、先例的価値もないものとされている。また、権限ある当局及び仲裁人のみならず納税者にも守秘義務が課されることから仲裁決定が外部へ公表される可能性が低い。さらに、仲裁人の選任においても、一方の締約国の権限ある当局が仲裁人を選任しない場合に、他方の締約国の権限ある当局が仲裁人を選任する手続が存在する。このように、米国の仲裁手続は仲裁決定や仲裁人の選任の厳密性よりも、手続の簡素性及び迅速性を重視していると考えられる。このため、仲裁手続はラストリゾート(最後の手段)としての性格が強く、実際に仲裁付託された場合には簡素かつ迅速に解決することを企図した制度設計になっていると考えられる。
ロ 欧州連合(EU)
EUの仲裁手続は、独立意見方式を採用し、仲裁委員会の独自の分析に基づく仲裁決定及び理由を権限ある当局へ通知することになる。また、仲裁決定に先例的価値はないとしながらも、納税者が反対しない限り原則としてその概要が公表される。さらに、仲裁人の選任において、仲裁人の独立性や不偏性に疑義がある場合には、権限ある当局が異議を申し立てることが認められる。このように、EUの仲裁手続は相互協議を補完するための位置付けを持ちつつも、仲裁決定や仲裁人の選任の厳密性を重視し、将来的に参照される規範を蓄積していくことを企図した制度設計になっていると考えられる。
ハ 国連モデル租税条約
国連モデル租税条約の仲裁手続は、現行のOECDモデル租税条約と同様に、最終提案方式を原則としつつも、独立意見方式の採用も可能であることから、米国とEUの折衷的な性格を有していると考えられる。ここで、国連モデル租税条約においては、仲裁要請が納税者ではなく権限ある当局にのみ認められること、及び仲裁対象事案を限定すること等によって、他の仲裁手続と比較して、権限ある当局の事務負担を緩和した手続になっている。このため、上記のリソースの問題を念頭に置いて、途上国にも導入しやすいよう配慮した制度設計になっていると考えられる。
(4)我が国の仲裁手続の課題及び考察
イ 制度の導入拡大の観点〜義務的かつ拘束力のある仲裁を中心に〜
紛争解決の実効性を高めるためには、仲裁付託の義務、及び仲裁決定の拘束力の双方がある仕組み、すなわち義務的かつ拘束力のある仲裁が望ましいが、その分制度の導入は困難になる。この点、上記のいずれかを緩和するなど、従来から様々な仕組みが検討されてきたものの、導入の容易さと紛争解決の実効性の高さはトレード・オフの関係にあり、制度の導入拡大への寄与には限度があると思われる。
このため本稿では、現行の枠組みの活用によって実現可能と考えられる方策として、OECDのBEPSプロジェクトの最終報告書(行動14)において、紛争解決手続の改善を図るために勧告されたミニマム・スタンダード及びピア・レビュー制度を活用することを提案した。これらは、紛争解決手続において最低限遵守すべき基準を同プロジェクトの参加国の合意によって定め、相互にモニタリングする制度である。具体的には、導入が相対的に容易な仲裁制度の採用をミニマム・スタンダードとし、現行の相互協議の件数の報告に加えて、仲裁への付託件数も報告対象とする方法が考えられる。確かに導入の容易さの反面、当面は紛争解決の実効性が乏しい状況が続くかもしれない。しかし、仲裁付託の件数が統計により公表されることを通じ、仲裁制度に慎重な国々に対して、他国の実施状況を見極めながら間接的に仲裁手続の実施を促すことが期待でき、将来的に実効性の高いとされる義務的かつ拘束力のある仲裁の導入を目指すための足掛かりとできるのではないかと考えられる。
ここで、導入が容易な仲裁制度の理念型としては、義務的でないが拘束力のある仲裁、又は義務的であるが拘束力のない仲裁の2類型が考えられる。後者は、相互協議で合意に至らない場合に必ず仲裁付託され、仲裁決定の事例が蓄積するという長所が考えられるが、仲裁決定が実施されず投下したリソースが無駄になる可能性もあるため、紛争解決のリソースに乏しい国々にとっては事務負担の観点から導入が容易でない可能性がある。このため、さしあたり前者によることが望ましいと考えられる。
ロ 仲裁手続の実施の観点〜仲裁決定方式を中心に〜
独立意見方式は、仲裁手続に要する時間やコストが相対的に大きくなる一方で、準司法的アプローチとして公正な審理が期待できる点、また、仲裁決定に至った法源や理由が示されることから納税者にとっての透明性を確保する点において相対的に優れていると考えられる。このため、複雑な事実認定や租税条約の解釈が問題となる事案については、将来の紛争の予防の観点から独立意見方式が望ましいと考えられる。
これに対して最終提案方式は、仲裁決定に理由が伴わず、納税者にとっての透明性が相対的に劣る一方で、迅速かつ低コストで仲裁手続を行うことができる点、また、いずれかの権限ある当局の解決案のみが採用される仕組みにより相互協議での互譲を促すことが期待できる点において相対的に優れていると考えられる。このため、未解決の論点が所得金額の水準に帰着するような比較的単純な事案については、相互協議の合意促進及び仲裁手続による早期解決の観点から最終提案方式が望ましいと考えられる。
仲裁手続の意義が相互協議の合意促進にあることや、一般的に仲裁決定に先例的価値を認めていないことに鑑みれば、手続の簡素化を図る最終提案方式の方が、これらの意義や性質に整合的であると思われる。その一方で、上記のとおり最終提案方式が望ましいと考えられる事案は比較的単純な事案に限定され、また、紛争解決の経験に乏しい国々にとって最終提案方式の前提となる解決案の提示が困難な場合があると思われる。このため、我が国においては、独立意見方式を原則としつつ、相手国の実情や事案の態様を考慮しながら、相手国と合意した場合に最終提案方式を採用する方法が、両方式を効果的に活用する方策として望ましいと考えられる。例えば、我が国の相互協議における課税事案の大宗を占める移転価格課税事案について、所得金額の配分のみが未解決の論点となっている場合には、最終提案方式を採用することが考えられる。
第一に、仲裁制度の導入拡大の観点からは、現行のミニマム・スタンダードを見直し、導入が相対的に容易な仲裁制度と、相互協議統計における仲裁付託の件数の報告を追加することで、各国が仲裁手続の実施状況のモニタリングを行う仕組みを構築すべきである。
第二に、仲裁手続の実施の観点からは、独立意見方式による仲裁決定を原則としつつも、相手国の実情や事案の態様を考慮し、権限ある当局間で合意した場合には最終提案方式を採用することができるよう仲裁実施取決めに明記すべきである。また、仲裁決定方式は、権限ある当局のみならず納税者にとっての仲裁手続の意味合いも異なってくると考えられるため、予測可能性の確保の観点から、いずれの方式によるかを納税者に通知するよう相互協議に係る事務運営指針に明記すべきである。
項目 | ページ |
---|---|
はじめに | 124 |
第1章 租税条約における紛争解決手続の概要 | 128 |
第1節 国際的な紛争解決手続の概要 | 128 |
1 国際的な租税紛争の発生 | 128 |
2 国際法における紛争解決手続 | 130 |
3 租税条約における紛争解決手続 | 133 |
第2節 相互協議 | 138 |
1 相互協議の概要 | 138 |
2 相互協議の法的性質 | 143 |
3 相互協議の合意 | 145 |
4 国内救済手続との関係 | 147 |
5 相互協議の問題点 | 150 |
第3節 仲裁制度 | 156 |
1 仲裁手続の概要 | 156 |
2 OECDモデル租税条約等における仲裁手続 | 160 |
3 租税条約に仲裁規定を置く意義 | 164 |
第4節 小括 | 165 |
第2章 我が国の租税条約における仲裁手続 | 167 |
第1節 我が国における仲裁制度の導入を巡る諸問題 | 167 |
1 沿革 | 167 |
2 憲法上の問題 | 170 |
3 リソースの問題 | 176 |
第2節 我が国における仲裁手続の概要 | 177 |
1 概要 | 177 |
2 二国間租税条約に基づく仲裁手続(米国以外) | 179 |
3 MLIに基づく仲裁手続 | 185 |
4 日・米租税条約に基づく仲裁手続 | 187 |
5 仲裁手続に係る国内法令等 | 187 |
第3節 小括 | 189 |
1 第一の課題〜制度の導入拡大の観点〜 | 189 |
2 第二の課題〜仲裁手続の実施の観点〜 | 191 |
第3章 諸外国の租税条約等における仲裁手続 | 192 |
第1節 米国 | 192 |
1 沿革 | 192 |
2 米国の仲裁手続の概要 | 197 |
3 米国の仲裁手続の特徴 | 204 |
第2節 欧州連合(EU) | 207 |
1 沿革 | 207 |
2 EUの仲裁手続の概要 | 212 |
3 EUの仲裁手続の特徴 | 217 |
第3節 国連モデル租税条約 | 219 |
1 沿革 | 219 |
2 国連モデル租税条約における仲裁手続の特徴 | 221 |
第4節 小括 | 224 |
第4章 我が国の仲裁手続の課題及び考察 | 226 |
第1節 制度の導入拡大の観点 | |
〜義務的かつ拘束力のある仲裁を中心に〜 | 226 |
1 問題の所在 | 226 |
2 仲裁付託の義務に係る検討 | 227 |
3 仲裁決定の拘束力に係る検討 | 235 |
4 第三のアプローチの提言〜ピア・レビュー制度の活用〜 | 237 |
第2節 仲裁手続の実施の観点〜仲裁決定方式を中心に〜 | 245 |
1 問題の所在 | 245 |
2 独立意見方式及び最終提案方式の特徴 | 246 |
3 仲裁対象事案に係る検討 | 254 |
4 仲裁決定方式に係る提言 | 265 |
第3節 小括 | 268 |
おわりに | 270 |