はじめに

本史料集には、相続税法案が帝国議会に提出された明治三十七年(一九〇四)から、昭和二十二年(一九四七)に全文改正される以前までの相続税関係史料を収録した。

相続税は、明治三十八年に日露戦争の戦費を賄うための財源として導入された。ただ、戦費調達のための臨時的な非常特別税とは異なり、相続税法は恒久的な税法とされたため単独税法となった。導入された相続税は、民法に規定された日本独自の家族制度を反映して、家督相続と遺産相続の二本立てになっている。家督相続は、戸主が家業や家そのものを継承するものであるため、遺産相続より税負担が軽減されているのが特徴である。また、一定の条件下でなされる贈与は遺産相続と看做されて課税されたが、これは贈与による相続税の脱税防止を目的とするものであった。

昭和二十二年の相続税法の全文改正は、日本国憲法の制定にともなう民法の親族編および相続編の全文改正によるものである。この改正で家督相続そのものがなくなったので相続税も遺産相続のみとなり、これを補完するため贈与税が創設された。このとき、相続税および贈与税には申告納税制度が導入された。なお、戦争による相続の場合の非課税規定は廃止された。

わが国の相続税は、被相続人の遺産を課税標準とする遺産課税方式(遺産税)であるが、昭和二十二年改正においても課税方式に変更はなかった。その後、シャウプ勧告による昭和二十五年の税制改正で、それぞれの相続人が相続した遺産に課税する遺産取得者課税方式(遺産取得税)となった(1)

本史料集は、明治、大正、昭和の三期に区分して編集した。租税史料室が所蔵する相続税関係史料は、税務署の例規に類するものが中心である。そのため、当該期における主税局の主要な通達も多数掲載した。条文解釈をめぐる照会と回答など、当時の法令解釈に関する諸説が判るものもあるので参照いただきたい。

ここでは、相続税の納税人員及び税額の変遷を軸に、明治期から昭和期の相続税を概括し、主なる掲載史料の紹介を行いたい。

一 相続税の導入

相続税法案は、明治三十七年(1904)十二月、第二十一回帝国議会に政府提案された。史料1は、大蔵省の閣議提出案である。日露戦争の戦費確保のための臨時的な非常特別税法改正案(第二次非常特別税法)とは別に、単独の税法として提出された。

成立した相続税法について、課税から納税までの一般的な流れを、ごく簡単に説明しておきたい(2)

相続人は、相続開始から三ヶ月以内に、相続財産の目録と財産価額の明細書を税務署に申告する。相続財産の価額は基本的には相続当時の時価で、家督相続は一千円未満、遺産相続は五〇〇円未満は免税となった。なお、軍人・軍属の戦死等による相続の場合、相続税は非課税である。

課税価格は、申告やその他の調査などにより税務署が決定し、相続人に通知される。ただし、決定時期や相続税の納期についての法令上の規定はない。もっとも、史料3の大蔵大臣訓示により、課税価格の決定は申告書を受理した日から一ヶ月以内、納期は納税告知の日から三十日とされている。課税価格の決定時期を設定したのは、納税者の「不安」を除去するためである。納税はまとめて一時に行うが、税額が一〇〇円以上の場合には、担保物または保証人を定めたうえで三年以内の年賦延納が認められている。この年賦延納制度は、相続税の課税による相続財産の「侵蝕」を防止し、納税者の「苦痛」を緩和することが目的とされている。また、相続税課税後三年以内に更なる相続が開始された場合には、前の相続税額が免除された。五年以内の再相続の場合は、前の相続税額の半額が免除された。これらの全部又は一部免除もまた、「頻次」の相続による負担を軽減するための措置である。短期間に連続する相続については、「累次相続」や「相次相続」と称されている。

税務署の税額決定に不服があるときは、通知後二○日以内に税務署長に再審査を請求することができる。再審査請求は、税務署単位に設置される相続税審査委員会の諮問を経て税務署長が決定する。審査委員は、税務官吏二名と、管内に在住する直接国税一○○円以上の納税者から任命される三名の委員で構成される。

相続税の税率は超過累進税率で、家督相続・遺産相続とも、被相続人と相続人との血縁関係の親疎に従って税率が定められている。家督相続の場合、子や孫などの直系卑属は一・二%、両親などの直系尊属は一・五%という具合である。遺産相続の場合は、直系卑属は一・五%、配偶者や直系尊属は一・七%である。被相続人が相続開始の一年以内に贈与した財産については、これも相続財産に加算された。また、被相続人が子や分家に対して五〇〇円以上の贈与を行った場合、遺産相続と看做されて課税された。これは、相続税逋脱の目的で相続財産の一部を予め贈与することを防止するための規定である。

大蔵省案は衆議院で修正され、史料2の相続税法が成立する。政府案と実際に成立した相続税法を比較すると、最も大きな修正点は嫡出子と庶子・私生児の相続を同等とした点であろう。政府案では、庶子・私生児の相続税率は、嫡出子及び被相続人の直系尊属より高く設定されていた。これに対して衆議院は、民法上「庶子及び私生児」も正当な家督相続人とされていることを理由に、嫡出子と庶子・私生児の区別を削除したのである。

また、土地と建物の価額について、政府案の、相続時の価額の標準を土地は賃貸価格の二○倍、建物は一○倍とする条項が削除され、相続時の時価は売買価格とされた。衆議院の修正理由は、標準が高きに失し、却って実際の価格を知ることが出来ないというものであった(3)。ただ、この条項は、もともと売買価格を巡って収税官吏と届出人(納税者)とが議論となることを回避するために設けられたものであり(4)、実際には時価を算定する何らかの規定が必要になるのである。これ以外にも、公共団体または慈善事業への贈与及び遺贈を非課税とする規定(法三条)、課税価格の決定に不服がある場合の訴願または行政訴訟の規定(法十六条)などが、議員提案で追加されている。

相続税法の成立過程を検討しようとするとき、所得税法や営業税法のような立案関連史料がほとんど無いことに気づかされる。相続税法の成立について分析した大村巍氏は、当時の主税当局の考えを知るべき資料がないとして、主税局で相続税の立案に従事した稲葉敏の『相続税法義解』(明治三十九年、自治館)を用いている(5)。現在のところ、史料1の大蔵省の閣議提出案以外に、大蔵省部内で検討された創設期の草案等は発見されていない(6)。相続税法成立後ではあるが、史料3と史料4は数少ない立案過程を窺い知る史料といえる。史料3は、施行当時の相続税の取り扱い方を指示する大蔵大臣訓示で官報に掲載された。この大蔵大臣訓示の原案は、未定稿の「相続税法施行方心得」であるので、参考として史料3の末に付け加えた。史料4の相続税問答もまた立案史料の一部といえる。これらは、相続税の例規として取り扱いの基本となっていく事項である。

十一月二十四日の閣議決定に先立ち、大蔵省は税務監督局を通じて税務署に原案を内密に送付している。その理由は、四月一日の相続税法施行準備の心得というのが第一であるが、税制改正の影響を探る意味もあったようである。次の史料は、東京税務監督局が相続税法案の送付とともに発した指令である。

秘第二八号

税務署長

今般其筋ニ於テ立案相成候相続税法案為参考別紙送付及ヒ候条、内密腹案ヲ立テ施行上差支ナキ様準備セラルヘシ、且ツ左記ノ事項取調概況ヲ内申スヘシ

  1. 一 非常特別税法中更ニ地租増徴ノ計画ニ際シ、一般土地売買ノ状況及其価格ニ影響アルヤ否
  2. 二 相続税法発布ノ計画ニ際シ、目今相続開始ヲ為スモノ増加ノ傾向アルヤ否、土地台帳謄本下付増加ノ状況等
  3. 三 前各項ニ関シ参照トナルヘキ事項

明治三十七年十一月廿二日 東京税務監督局長 池袋秀太郎印
(平12東京93)

大蔵省の収入見込額は、家督相続が四〇四万八千三五三円、遺産相続が二六万一千二四三円、合計四三〇万九千五九六円であった。しかし、明治三十八年度の収入額は六二九,九一二円で、見込額の十五%にも満たなかった(7)。『明治大正財政史』はその原因を、1施行前の隠居等による駆け込みの相続が多かったこと、2申告および相続額決定まで日時を要すること、3年賦延納制により実際の収入額との差が生じること、4動産中、直接所得を生じないものは課税価格に算入しないことになったことを掲げるも、相続に関する統計がないため見積もりを錯誤したと指摘している(8)。同書が依拠したのは史料13の税法審査委員会審査報告で指摘された内容であるが、統計の材料に乏しく適当な推計ができなかったとの理由は、その冒頭に掲げられている。

相続の開始は相続人の申告によるが、法十二条により戸籍役場(町村役場の戸籍係)から税務署に通知される死亡届や隠居届、婚姻届などが、「相続開始ノ事実ヲ知ルニ殆ト唯一ノ材料」とされている。史料6は、東京税務監督局が管内の税務署に指示した町村役場との協議事項である。ここには、戸籍上の項目だけでなく、相続財産の概略の種類や価格なども入っている。法十二条は戸籍吏の報告規定であるが、税務署は町村役場に相続財産の情報も求めていることがわかって興味深い。大正二年の史料であるが、史料31からは戸籍吏の報告とともに町村長の提出する相続財産調書が課税価格決定の重要な資料であったことが窺える。収税官吏には相続財産を検査する職権は与えられていなかったから、相続開始の事実の把握だけでなく、相続財産の決定においても町村役場との連携が不可欠だったのである。

史料7と史料9は、相続税審査委員の任命に関する史料である。審査委員は大蔵大臣が任命する税務官吏二名(税務署長と直税課長)と民間委員三名で構成される。民間委員の資格は、管内に居住する直接国税一○○円以上の納税者である。民間委員は、税務署長が適任者三名を推薦し、税務監督局を経由して大蔵大臣が任命する。税務署長は、民間委員に推薦する納税者から請書を取っている。民間委員の任期は三年で、委員の公平性を重視して経歴や政党との関係などが調査されている。史料10は、東京税務監督局管内各税務署の相続税審査委員の名簿である。各税務署とも、税務署長、直税課長、そして民間委員の順に並んでいる。

史料13は、税法審査委員会審査報告のうち、相続税関係部分を抄出したものである。税法審査委員会は、日露戦後の税制整理と財政基盤の強化を目的に大蔵省内に設置された委員会である。相続税は恒久的な税とされたものの、創設時に貴族院の特別委員会で非常特別税法施行中に限るとの附則が多数決で一旦可決されたように、平時における見直しの意見がだされていた。しかし、施行から日が浅いこともあり税法審査委員会は現状維持を決定している。史料15は、この税法審査委員会の税制整理案を検討するために設置された、税法整理案審査会の審査要録から相続税部分を抄出したものである。同審査会は、関係各省の高等官だけでなく、貴族院議員や衆議院議員、学識経験者により構成された。税法審査委員会は相続税についての整理案を作成していないが、税法整理案審査会において種々の改正意見が出されたため、特別委員の調査結果を原案として審議が進められた。審査会では、贈与については受贈者への課税を主張する議論もだされているが、相続税法の立法主義と相容れないとの理由で否決されている。ここでは、家督相続の税率軽減、相次相続控除の期間延長、年賦延納期間の延長などが全会一致で可決された。これらは、相続税の納税のために資産の一部を売却することを避ける意図によるものである(9)。これらの整理案は、明治四十一年の第二十四回帝国議会では否決されるものの、明治四十三年の第二十六回帝国議会において成立した(史料24)。

史料17は、札幌税務監督局管内各税務署の明治四十一年の相続税審査委員名簿である。審査委員の任期は三年なので、最初の任期更新による辞令である。最初の三行の記載は税務官吏から任命される委員で、民間委員は各税務署三名ずつ任命されている。河西税務署は二名であるが、これは何らかの理由で委員が途中交代し、後任者がまだ三年の任期を迎えていなかったためであろう。史料16によれば、補欠委員の任期には前任者の任期を通算せず、新たに三年間とすると指示されている。

税務署が管内の相続開始を知る重要な手段のひとつが、町村役場の戸籍吏からの通知であった。しかし、史料18によれば、大阪府富田林税務署の調査で多数の報告洩れがあることが判明した。そのため、報告洩れの無いよう戸籍役場との協議を求める主税局通牒が出されている。家督相続と遺産相続を併せて、四年間で実に約一千四〇〇件もの報告洩れがあったという。なかには、課税見込件数が四九件あった。報告洩れの多くは課税対象外と判断したためのようであるが、事務多忙による忘却だけでなく、「故意」の脱税が疑われるケースも指摘されている。史料28の山梨県都留税務署の申報は、戸籍吏からの相続開始報告の遅延を矯正するため、区裁判所と協議して改善を図っているとの内容である。

戸籍吏の報告洩れや遅延は、相続税額決定時期にも影響を与えるものであり、史料22のように相続税額決定の遅れも問題化している。これは東京税務監督局の例であるが、前年度決定未済分のうち約五三%が再び翌年度に持ち越されているのである。この割合は、東京府だけだと約七六%に上昇する。相続税額決定の迅速化は再三訓示されており、相続税は事務処理の遅れが問題となっていることがわかる。史料25の明治四十三年の事務取扱心得によれば、課税価格は相続開始から五ヶ月以内に決定するとされている。導入当初は、相続開始から申告まで三ヶ月、申告から決定まで一ヶ月であるから、決定までの期間が一ヶ月延びていることになる。法定の相続額決定期間が定められていないことが相続税事務の遅延を招く一因であったが、その改善は大きな課題となった。相続税額決定の遅延は相続財産の散逸や脱漏につながる虞があるので、税務監督局は四月から三ヶ月ごとに相続税処分既未済成蹟表を税務署から報告させている。しかし相続税額の決定遅延の改善は、史料27の主税局通達に見るように困難をともなったのである。

こうした背景には、日露戦後の諸税の納税者数の急増があった。所得税や営業税の納税者数はもとより、相続税の課税人員(件数)も急増したのである。「相続税の納税人員及び納税額一覧表」は、家督相続及び遺産相続、それに法二十三条の納税贈与の人員と納税額の一覧である。明治三十八年度の全国の家督相続人員は一万二千九三〇人、遺産相続人員は二千一六〇人である。これが明治四十四年度には、家督相続四万二千八四〇人、遺産相続七千二二二人と、三倍以上に急増している。明治四十三年度の数値が低いのは、相続件数の減少に加え、決定未済件数が多数あることによるとされている(10)。明治四十三年度は、宅地地価修正事業の皺寄せを受けて相続税の処分未済件数が増加したのである。ただ、相続税事務の渋滞は恒常的で、大正期にはその解消が大きな課題となっていく。

史料29には、税務代弁業者に相続税申告を依頼することへの注意がなされているが、こうしたことも納税者の増加が関係していると考えられる。この時期、所得税や営業税などでも一部の税務代弁業者の弊害が問題化しているが、相続税についても同様なことが懸念されるようになったのである。なお、大正十四年の東京税務監督局通牒では、所得税・営業税・相続税等の決定や更正などの通知は、代理人たる税務代弁者等の仲介による弊害があるとして、直接本人に交付することとしている(史料58)。

二 大正期の相続税

大正三年(一九一四)の税制改正は、史料33の若槻礼次郎大蔵大臣の税務監督局長会議における演説にあるように、税制整理と減税を基調とするものであった。とりわけ「中産以下」の家督相続の負担軽減が図られ、家督相続の免税点が一千円から二千円に引上げられるとともに、課税価格が三千円以下の場合は一千円、五千円以下の場合は五〇〇円の特別控除が認められた。このときの改正においては、家督相続廃止論などもあり、家督相続第一種の税率が千分の一〇から一千分の五に半減されるなど大幅な負担軽減がなされた。

第一次世界大戦後の財政整理のため、大正八年に臨時財政経済調査会が設置された。そして大正九年、税制整理に関する根本方策が同調査会に諮問される。直接税については、所得税を中心に地租と営業税を補完税とする方針が打ち出され、相続税は基本的には現行制度を維持するとされた。臨時財政経済調査会関係史料としては、史料47の「相続税制度概要」を収録した。当時における相続税の問題点を含めた概要を知ることが出来る。史料50は、税制整理の諮問に応えるために設置された税制整理特別委員会の議事録である。相続税は現状維持とされているため、特別委員会の議論は特別所得税や財産税などの所得税改正、補完税たる地租と営業税の改正を中心にしている。そこで、直接国税と地方税の小委員会整理案を検討した第十七回の特別委員会の会議録を全文収録した。相続税関係部分は多くはないが、推定相続人以外への贈与には課税できないなどの問題が検討されている。なお、臨時財政経済調査会の税制改正案の全体については、すでに租税史料叢書第二巻『地租関係史料集U』(平成十九年、税務大学校税務情報センター租税史料室)に収録済なので同書も参照いただきたい。

臨時財政調査会は、大正十一年に特別委員会の税制改正案を討議したが、財産税の創設に慎重論が多く採決には至らなかった。なお、大正十一年の改正は信託法の成立にともない、信託財産への相続税の課税を定めたものである(史料51)。

大正期に新たな課題となるのは、法第二十三条の贈与への課税である。史料31の栃木県足利税務署の調査によれば、明治四十一年四月から大正元年十二月までの遺産相続の課税洩れ一二〇件のうち、約九四%に当たる一一三件が推定相続人や分家への贈与であった。このような課税洩れは、町村長から報告される相続財産調査の脱漏や誤謬が少なからざる原因と指摘されている。税務署の調査では、相続人への土地や株券の仮装売買なども発見されており、納税者の課税逃れも一因となっている。前掲の相続税の納税人員及び納税額一覧表によれば、大正期に入ると贈与人員が急増することがわかる。大正元年の遺産相続の増加は、主として贈与の増加によるものである。また、第一次世界大戦後には家督相続及び遺産相続、それに贈与とも格段の増加を示している。大正期の相続税の執行は、こうした背景のもとで進められるのである。

史料30および史料34は贈与の規定を巡る通達解釈の厳密化を示すもので、史料38と史料39は東京税務監督局管内において、依然として相続税の事務渋滞の改善が求められている状況が示されている。相続税については、第三種所得税(個人)や営業税調査の合間や併行しての調査を余儀なくされており、事務渋滞の解消はなかなか進んでいない。しかも贈与に関する調査は困難が多く、東京税務監督局管内では他局よりも調査洩れが多いとされている。なお、史料39の表は東京府の税額の合計が合わないが、原文の通りである。各税務署とも、監督局の指示による調査で、多くの贈与事例の調査洩れが発見されている。

また、大正期には土地の相続価格の評価も大きな課題となっている。第一次世界大戦の好況による地価高騰が、各税務監督局における調査標準の見直しを余儀なくさせたのである。史料41と史料42は、仙台税務監督局の相続財産価額標準調査に関する史料である。相続税法によれば、土地と建物の価格は「相続開始ノ時ノ価額」、すなわち時価によるとされている(法四条)。時価とは売買価格のことである。史料8の相続税事務取扱手続によれば、土地や建物の価格変動が少ないものについては、「毎年ノ初ニ於テ其ノ標準価格ヲ調査」することとなっている。相続財産の時価は、その標準を参照しつつ、市町村役場や登記所などの調査または市場価格など、「適宜ノ方法」により評定するとされている。大正三年の衆議院での相続税法改正審議のなかで菅原通敬主税局長は、税務署では、宅地ならば賃貸価格、田畑ならば売買実例などを中心に、複数の標準を参酌して適当な時価を積算する。大蔵省から統一的な指令が出されているわけではなく、税務署や税務監督局毎の内規によっていると答弁している(11)。このように、土地建物時価標準率は税務署や税務監督局ごとに設定されるため、所轄内においては隣接税務署との権衡保持が、局と局とにおいては境界にある税務署同士の権衡保持が指示されているのである(史料21)。

大正七年の仙台税務監督局の規定は、土地建物の価格が適確に調査可能な場合を除き、宅地と建物については営業税建物賃貸価格改調規程による標準表の時価を標準率として併用するとされている。ただし、田畑や山林・原野については、相続財産土地建物価額標準調査規程によることとされており、立木についても別に規程が定められている。田畑・山林・原野については、売買実例調査を基礎に適実な価額標準表を作成するとある(史料42)。こうした規程は、仙台税務局管内の相続財産の主要部分が農地や山林であるという実態に応じて作成されたものである。仙台局では、この規程による時価計算方法以外の場合についての通牒も発せられており、実状に応じた評定が試みられていたようである。ただ、営業税建物賃貸価格改調規程が見当たらず、具体的な計算方法などはわかっていない。なお、仙台税務監督局では、大正十三年の税務署事務取扱規程改正により標準率の改定がなされている(史料55)。

東京税務監督局管内でも、これまでの相続財産の課税標準価格改定がなされた(史料45)。諸物価高騰による相続財産価格の引き上げが必要になり、現行標準率から五割以上引きあげることとされている。こうした税務署や税務監督局ごとの標準率改定は、昭和二年の土地賃貸価格調査事業の完了により、土地賃貸価格の倍率方式に統一されていく(史料64)。宅地地価については明治四十三年に賃貸価格による算定がなされていたが、この事業により田畑を含む有租地すべての、大正十五年四月一日現在の賃貸価格が設定されたのである。地租の課税標準である地価は十年毎に改訂されることになったが、相続税の土地の評価は賃貸価格を基準に、毎年の経済情勢の変遷等を考慮した倍率方式となったのである(12)

大正八年における仙台税務監督局管内の相続税決定額は、前年に比して約六〇%の増加となった(史料46)。なかでも相続税法第二十三条による贈与の決定額は、約一五四%増であった。贈与事例の約九〇%は不動産買入資金の贈与であり、調査の周到が指示されている。こうした状況のもと、各税務監督局は管内の税務署に対し、計画的な相続税事務の渋滞解消と贈与調査の徹底を命じたのである(史料48)。

大正十一年度から同十三年度の相続件数は、約一万二千件から六千二○○件余、そして三千五○○件余と激減している。これは関東大震災の復旧及び減免事務に忙殺されたためであるが、当局が調査の督励を控えたためとされている(史料57)。以後、相続税調査では、とくに贈与への注意が喚起されるようになっていくのである。

三 昭和期の相続税

昭和期の税制は、一般的税制整理を掲げた大正十五年改正によりスタートし、昭和十五年の根本的税制改正まで存続する。ただ、相続税については昭和十三年に大きな改正がなされるので、昭和十五年改正は補足的な改正にとどまった。前掲表を見ると、昭和十二年の臨時租税増徴法による増税の成果が、人員及び納税額ともに如実に示されている。そして戦時財政における相続税の増税路線により、かなりの税額アップが図られたのである。

まず、大正十五年の改正では、諸物価の高騰を理由に、相続税の免税点が家督相続は二千円から五千円に、遺産相続も五〇〇円から一千円に引き上げられた(史料60)(13)。これにより、家督相続に対する特別控除は廃止された。税率も引き上げられ、累進率の停止も五〇〇万円以上となった。そして増税に伴う納税緩和策として、年賦延納期間が五年から七年に延長された。また、贈与の範囲が拡大され、推定相続人や分家の戸主以外の親族への贈与も遺産相続の対象とされた。この当時、「今世上一般に行はれる贈与なるものを観るに、相続開始の事実発生前数年前或は十数年より、その財産の幾部を推定相続人又はその他の近親者に分配贈与せられるものが多い情況」と指摘されている(14)。脱税防止を目的とするには一年以内という期間は短いとの指摘もあったが、このときは受贈者の範囲を拡大するにとどまった。また、信託の受益者が未定の場合は委託者に課税することとなった。

史料62は、仙台局における贈与事例の調査成績である。「家族又ハ親族ノ為ニ資産ヲ分与スルモノ多キ」情勢を踏まえ、管内の税務署に指示したものである。都市部の税務署の課税件数が低く、贈与の調査が難航していることが窺える。

史料66は、税制整理準備調査概要から相続税部分を抄出したものである。これは、昭和六年四月に成立した若槻内閣が進めた税制整理の準備調査概要である。このとき税制整理委員会は税制整理案を作成したが、内閣倒壊により実現を見なかったのである(15)。すでに、総論編の一部と各論編の所得税部分については、租税史料叢書第三巻『所得税関係史料集』(平成二十年)に収録してあるので、そちらも参照していただきたい。税制整理準備委員会では、相続税の税率引き上げ、生命保険金への課税、植民地や海外財産への課税などが問題とされており、後の税制改正で順に実現していくことになる。

史料69及び史料70は、朝鮮における相続税令制定にともなう施行規則の改正である。昭和九年の朝鮮所得税令改正により、法人だけでなく個人所得税も課税対象となり、相続税令も制定された。これにより朝鮮にも税務監督局および税務署が設置され、国内と朝鮮の税務署の相続税課税取り扱い方の協議が必要となった。また、朝鮮及び内地における短期間での相次相続の場合の免除税額計算例などが示されている。

準戦時体制から戦時体制への移行のなかで、相続税は増徴を繰り返していく。まず、昭和十二年の臨時租税増徴法により、相続税の増税がなされた。同法により、一万円以下は二○%、そして一○万円以下は八○%までを増徴し、一○万円以上は倍額となった。そのため増税緩和策として、相続財産価額のうち不動産等が過半数の場合の年賦延納期間が七年から十年に延長された。こうした措置は不動産、とりわけ山林価格の低落により強い要望がだされていたもので、相続税の物納問題も議論されるようになっている。

史料96に、昭和十年代の相続税法改正の概要を一覧できる「相続税法改正要点年次別一覧」を掲げた。ここには、昭和十七年までの主要な改正点が条文ごとに整理されている(16)。昭和十三年改正では、被相続人の住所が税法施行地(内地)にあるときは、相続財産の所在に関係なく全部の財産に課税することとした。また、生命保険金や退職手当・郵便年金などへの課税、相続人に受遺者や受贈者などの納税に連帯納付の義務を負わせることなどである。このとき、生命保険の支払調書の提出義務や収税官吏の質問権なども規定された。昭和十五年改正では、家督相続については五万円以下、遺産相続については三万円以下の場合に、一人につき一千円の扶養家族控除が認められた。また、相続開始前三年以内の贈与額が一千円以上の場合は、相続と看做して課税することとした。従来、相続開始前一年以内であったものを、同一人への三年以内の贈与を合算して課税することにしたのである。さらに、相次相続の免除規定も緩和し、全額免除となる五年を七年に、さらに半額免除となる七年を一○年に延長した。

この時期の改正で注目されるのは、昭和十六年の物納制度の導入である。相続税増徴の緩和策としては、年賦延納期間の延長がなされてきたが、不動産が多い納税者の困難を緩和するため物納制度の導入が求められた。そこで政府は、昭和十五年七月に相続税物納制度調査会(会長は河田烈大蔵大臣)を設置し、物納制度導入の可否を検討した。史料85の相続税物納制度関係書類は、主税局の平田敬一郎大蔵事務官が取り纏めた物納制度調査会の書類である。物納制度調査会の史料が世に出るのは、これが初めてと考えられる。これにより、相続税額が一千円以上で、相続財産価額の過半数が不動産等の場合には、不動産による物納が認められることになった。納税者は、納税通知から二○日以内に申請するとなっている。物納申請の認可や物納財産の変換等は、相続税審査委員会の諮問を経て決定されることとなった。物納関係については、史料91に相続税物納不動産収納規則、史料95に相続税物納に関する取扱通牒を掲げた。

昭和十七年の増税においては、扶養家族控除を一人一千円から一千五○○円に引き上げ、外地と内地における相次相続の免除期間の延長、物納範囲の拡大等がなされた(史料92および史料93)。さらに昭和十九年改正では、相続人以外の生命保険金受取人への課税、年賦延納申請ができる相続税額が一〇〇円から三〇〇円に引き上げられた(史料97)。昭和二十一年改正では、物価騰貴に応じた免税点の引き上げがなされた(史料105)。家督相続は二万円、遺産相続は三千円である。扶養家族控除も同様に引き上げられ、家督相続は課税価格一○万円以下、遺産相続は五万円以下の場合、一人につき三千円となった。課税価格一○○万円以上の高額財産相続の税率も引き上げられ、年賦延納申請の相続税額もまた一千円に引上げられた。このときの改正は、財産税の実施による相続税の改正を見込んでいるため小規模の改革となった(17)

この時期の相続税は、財産税法の実施に先駆けた相続税額決定の早急な処理が課題とされていた。財産税の申告期限前までに相続税額を決定する必要があったからである。ここには史料102から104まで、事務処理要領と未済整理処理の現況がわかる史料を掲げた。

以上、相続税法の改正に沿って収録史料の概要を簡単に述べてきたが、冒頭にも述べたように当該期の相続税例規となる通達類も多く掲載したので、租税史の研究に幅広く活用されることを期待している。

(牛米 努)

(1) 『国税庁五十年史』二八六〜二八七頁(国税庁、平成十二年)。
(2) 以下の既述は、主に史料2〜史料5までによる。
(3) 『帝国議会衆議院議事速記録』20、七三頁(東京大学出版会、昭和五十五年)。
(4) 『帝国議会衆議院委員会義録』明治篇29、二六六頁(東京大学出版会、昭和六十三年)。
(5) 「相続税の誕生」『税務大学校論叢』9(税務大学校、昭和五十年)。管見の限りではあるが、大村氏の論文は、相続税法成立の背景を分析した唯一の研究である。成瀬満春「相続税の創設」『大阪学院大学商学論集』第十三巻、第二号(一九八七年四月)もまた、創設当時の史料については大村氏の論文に依拠するところが多い。
(6) 菊地紀之「相続税一〇〇年の軌跡」『税大ジャーナル』一(二〇〇五年四月)で、明治三十五年の租税制度調査資料のなかに、相続税創設について否定的な見解が記されていることが指摘されている。原史料は「水町家文書」第三号六「租税制度其他財政ニ関スル調査」(明三五、九)である(『近代諸家文書資料集成』ゆまに書房)。史料的検討が必要であるが、興味ある事実である。
(7) 『明治大正財政史』第七巻、二一三、二三一頁(経済往来社、昭和三十二年)。
(8) 『同上』二一三、二三一〜二三二頁。
(9) 『税法整理案審査会議事速記録』九三二頁(中央大学附属図書館所蔵)。
(10) 『主税局第三十七回統計年報書』二四五頁(大蔵省主税局、明治四十四年)。
(11) 『帝国議会衆議院委員会議録』4、五八〇頁(臨川書店、昭和五十六年)。
(12) 相続税における土地の財産評価が土地賃貸価格を基準とする倍率方式となるのが、昭和二年の土地賃貸価格調査事業の完了後であることは、高津吉忠「相続税における土地評価のあゆみ」『税務大学校論叢』16(税務大学校、昭和五十九年)が指摘している。なお、土地賃貸価格調査事業については、租税史料叢書第二巻『地租関係史料集U〜田畑地価調査から臨時宅地賃貸価格修正まで〜』を参照いただきたい。
(13) 大正十五年の税制改正により、史料59の東京税務監督局の相続税事務規程も更訂されたようで、掲載史料には昭和二年六月までの改正が反映されている。
(14) 河沼高輝『現行相続税法釈義』、三一九頁(自治館、昭和三年)。
(15) 『昭和財政史』X、租税、二六七〜二七四頁(東洋経済新報社、昭和三十二年)。
(16) 昭和期の改正については、河沼高輝『逐条示解 改正相続税法』(自治館、昭和十七年)、桜井四郎『相続税法の解説』(中央経済社、昭和二十三年)、泉巳之松・栗原安『相続税・富裕税の実務』(税務経理協会、昭和二十五年)、谷川寛三『相続税法』(中央経済社、昭和三十二年)を参照している。
(17) 前尾繁三郎「第九十回帝国議会における一般税制改正について」『財政』第十一巻、第九号(大蔵財務協会、昭和二十一年十月)。なお、財産税法案そのものの成立経緯は、『昭和財政史〜終戦から講和まで〜』7、租税(1)の第三章、第四章に詳しい。

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