はじめに

本史料集は、昭和二十二年に申告納税制度が導入される以前の、賦課課税時代の所得税関係史料を収録したものである。主として租税史料室が所蔵する所得税の執行に関する史料を中心に、導入から昭和戦前までを時代順に配列した。

すでに税務大学校では、租税資料叢書第四巻として『明治前期所得税法令類集』(昭和六十三年。以下『法令類集』と略記する)を刊行している。また、平成十八年度「所得税の導入と調査委員制度」及び平成十九年度「所得税のあゆみ」と二度にわたる特別展示を行った。とりわけ『法令類集』は、主に税務署創設以前の関係史料を収録したものであり、本書と併せてご利用いただきたい。

一 所得税の導入

ここに収録したのは、明治十七年(一八八四)の所得税法案から、明治三十二年(一八九九)の所得税法全文改正までの史料である。

所得税導入期については、「松方家文書」に基本史料が残されていたことがわかっているが、現在それは所在不明であり、内容は戦前期の研究の引用部分でしか判明しない。しかし今回の調査で、いくつかの基本史料を発見できたので、それらをすべて収録した。なお、以下に述べる所得税関係史料の引用文献等の書誌情報もふくめ、拙稿「明治二〇年所得税法導入の歴史的考察」を参照いただきたい(1)

所在不明の「松方家文書」のうち、カール・ルードルフ(Carl Rudolph)起草の「収入税法律案」と、その成立過程がわかる「財産等級税考説」第一篇・第二篇を史料1〜3に収録した。「収入税法律案」は、汐見三郎他著の『各国所得税制論』に引用されている。また、「財産等級税講説」は、『秘書類纂 財政』上巻に第一篇が収録されていたが、今回新たに第二篇を発見することができた。『秘書類纂』所収の第一篇については、編者が一千ターレル以上を対象とする財産等級税(いわゆる所得税)と、それ以下の「等級税」を区別するため、「等級税」を「等階税」と意識的に書き換えていたことがわかるが、多数の誤植も含めて原文に忠実に翻刻した。これらのルードルフ関係史料は、制度取調局長官であった伊藤博文の手元にあった「秘書類纂」と太政官関係史料群に含まれていたものである。伊藤の意を受けた伊東巳代治が筆記したルードルフのプロシア所得税法の「考説」から、当時の伊藤の所得税に対する意見が窺えて興味深い。

ルードルフ草案と同時期、大蔵省も所得税則を起草しているが、その内容は阿部勇『日本財政論−租税−』の引用部分しか判明していない。残念ながら大蔵省の明治十七年草案は発見できなかったが、高橋誠氏が論文で紹介された大蔵省の所得税則(修正案)は関連史料とともに全文収録した(史料4・5)。修正案は作成年代が不明であるが、明治十九年三月以前の作成であること、そして地方税を含む税制改正が課題になっていた時期の史料なので、「明治十八年末頃」と推定した。なお、この点についても前拙稿を参照いただきたい。

これにより、大蔵省がイギリス方式からプロシア方式に方針転換する以前の主要な草案については、明治十七年十二月の所得税則のみが不明ということになる。これについては、織井・山本両氏が阿部氏の引用部分から税則の復元を試みているので参照されたい(2)。なお、転換後の法案であるが、林健久氏が『日本における租税国家の成立』で分析した『法規分類大全』は、前掲『法令類集』にも収録されている。未刊であるが、『法規分類大全』とほぼ同文の閣議決裁文書は、国立公文書館所蔵「公文類聚」第十一編、第二十六巻に編纂されているので参照されたい。

明治二十年に成立した所得税法の大まかな仕組みは、以下の通りである。

所得税納税義務者は、一年間に三〇〇円以上の所得がある者で、同居家族の所得も戸主に合算する。所得の算出には二通りあり、公債等の利子や株式の配当、俸給や手当金などはその金額が所得とされた。また、資産や営業からの所得については、それぞれ必要経費等を控除した額の過去三年間の平均が所得とされた。所得税納税義務者は、四月末日までに町村戸長を経由して郡区長に所得金高届を提出する。無申告の場合には科料の罰則がある。届出を受けた郡区長は、五月に管内の納税義務者の住所・氏名を公告し、所得税調査委員選挙を執行する。所得税調査委員は管内の納税義務者の所得額の調査及び決議に関与する役職である。所得税調査委員の選挙は複選制で、まず町村選挙人が選出される。町村選挙人は町村内の納税義務者による互選である。そして町村選挙人による調査委員及び補欠員の選挙が行われるのである。所得税調査委員の定員は各郡区役所管内七名以下、補欠員は五名以下とされ、選挙は府県ごとの規定に基づいて五月に実施される。調査委員の任期は四年で、二年ごとに半数が改選される規定である。

納税者の所得金高は、郡区長が開催する所得税調査委員会の決議により決定される。郡区長は、調査委員会に納税者一人別の所得金高調査書を提出する。所得調査書には、無申告であっても納税義務者と推測される者も含まれる。所得金高調査は郡役所が町村戸長などを通じて行うが、納税者に身近な戸長が申告書の取り纏めやチェックに当たることにより適正な申告が期待されていたのである。ただ、都市部には戸長がいないので、大蔵大臣の認可のもとで適宜に「臨時取締掛」を設置することができた。福岡県では、区内の納税者から適任者を「臨時取調掛」に任命し、「区役所ノ顧問」として下調査に従事させている(3)。このような下調査には、明治十七年以降の府県収税部機構の整備に伴い、次第に直税分署(明治二十三年設置)や収税署(同二十六年設置)などが関与するようになっていく。

調査委員会は毎年七月に招集され、会長には通常郡区長が就き、調査委員により所得金高調査書が検討される。そして調査委員会の決議により納税者一人別の所得金額が決定されるのである。決定額は郡区長から町村戸長を通して納税者に通知される。所得税の納期は、九月と翌年三月の二回である。郡区長は調査委員会の決議に意見があるときは府県知事に申立ができ、一方、納税者が決定に不服がある場合は、所得の明細と証憑書類を添えて府県知事に不服申立ができることになっている。郡区長からの意見申立や納税者の不服申立を受けた府県知事は、それを府県常置委員会に諮って処置するのである。

所得税に申告制を採用した理由は、「人民ノ所得ヲ捜索スルニ其便ヲ得ス」、最初は人民の申告によらざるを得ないとされている。所得金高の調査に従事するのは所得税調査委員であり、郡区長は申告等に基づいて所得金高調書を作成するに止まり、直接納税者への質問等はできなかった。収税官吏の調査もまた、郡区長が作成する所得調査書の下調査に限定されている。その理由は、官吏に調査させれば調査は精密になるが、「苛細ニ渉リ民情ヲ傷ルノ嫌ヒアリ」として、プロシアやババリアなどの例を斟酌して調査委員制度を採用したと説明されている(4)

所得税法の審議過程で元老院の所得税法調査委員は、所得税法の成立を政府が意図した三月から七月に延期することで政府の内諾を得た。そのため施行初年度の所得税は半期分のみとなり、すべての手続等も延長された。しかし史料8にみるように、納税者の住所氏名の公告期限なども再延期となった。施行初年度の混乱を示すものと言えよう。史料9及び10は、翌年の施行に際して東京府と大阪府の区部に出された申告奨励の通達である。所得税納税者は都市部に多いが、東京府では宅地の管理人である地主差配人を通して申告を呼びかけていることがわかる。史料11は、福岡県遠賀郡長から出された、所得税納税者の門戸に標札を掲示するとの内容であるが、これが実施されたかどうかは確認できていない。

史料12は、明治二十九年に税務署が創設された際の、所得税取り扱いに関する史料である。ここからわかることは、税務管理局及び税務署創設後、府県に所得税事務の引渡しを求めたが、郡長の異議により中止されていた事実である。この史料からだけではわかりにくいが、その異議とは郡区長の職掌である所得調査書の作成(法十三条)に関する法改正がなされなかったことにある。そのため明治三十二年の全文改正の理由のひとつに、税務執行機関の変革に伴う措置と明記されるのである。つまり、「所得税ノ調査及決定ノ事務ハ、法律上全ク府県知事又ハ郡長ノ職権ニ属セシメタル故ニ」、税務管理局及び税務署は所得税を取り扱うことができなかったのである(5)。そこで主税局は、税務管理局及び税務署に所得の下調査を取扱わせるよう府県知事に申し入れるに止まったのである。改正後の簿書引継ぎについては、史料18のようなやりとりが行われている。

二 明治後期の所得税

ここには、明治三十二年(一八九九)の所得税法全文改正以降の、明治期の史料をすべて収録した。

明治三十二年改正の特徴は、所得の種類による分類課税方式を採用したことである。明治三十一年五月の第十二回帝国議会に提出された政府案では、所得は第一種(法人の所得)、第二種(地代・小作料、公債等の利子等)、第三種(営業より生ずる所得)、第四種(俸給など勤労より生ずる所得)、第五種(その他の所得)に分類されていた(6)。この法案は審議未了となったが、十一月の第十三回帝国議会に提出された政府案は、第一種(法人ノ所得)、第二種(公債社債の利子)、第三種(その他の所得)に分類されており、この原案に沿って法案が成立した。改正所得税の特徴は、法人も個人と等しく課税主体となったこと、第二種を第三種所得から切り離して源泉課税を行う点である。第二種を第三種と切り離す方式は、「永くわが国の所得税制度を支配し」、第二種所得の綜合課税は昭和十五年改正により原則的に確立すると評されている(7)

執行面での大きな改正は、所得の調査・決定に関する事務が税務管理局及び税務署に移管されたこと、それに改正条約により在留外国人にも内国税法が適用されることになったことである。

所得調査書の作成を税務署が行うことになったため、所得調査に関する主税局通達等も数多く出されている。本書には、史料14以下に第三種所得標準の作成や調査、所得税取扱に関する史料を収録した。調査に際しての所得標準については、すでに明治二十六年二月の大蔵大臣内訓で統一的な所得標準の作成が指示されている(8)。客観的な所得標準の作成と、それに基づく所得の推計がなされるようになったのである。史料21及び22の東京税務管理局における所得税法の問答や注意・諮問事項からは、当時の所得税事務の一端を窺うことができる。

このなかで注目しておきたいのは、史料16の取扱方心得第六条等に示された、申告書の取り扱いである。ここでは申告書は参考に過ぎず、税務官吏は常に個人の所得に注意を払う必要があるとされている。申告書はあくまで参考であるから、申告の脱漏や誤記は訂正を求めるに及ばず、税務署は独自の調査による見込額を調査委員会に提出するのである。そのため明治二十年法で科料とされていた無申告についての罰則規定はなくなっている。

この改正につき、秋田・松江などの税務管理局長を歴任した上林敬次郎は、以下のように解説している。従来は申告により所得が決定されてきたため、無申告などには罰則があった。しかし改正により申告書は単なる参考となったため、申告に関する罰則規定はなくなった。今や申告書は、所得調査委員の選挙資格を決めるだけのものになったとしている。続けて上林は、申告の有用性を主張し、とりわけ納税観念の観点から無申告などの罰則規定がなくなったことを問題視している。税務官吏の調査権限の不備と、納税者の逋脱に対する制裁規定の欠如は、「税務執行ノ完全」を不可能にするからである(9)。申告制と国税機関の調査権を所得税制度の基本とする大正期の議論が先取りされていることに注目しておきたい。

所得調査委員選挙人の選挙は市町村長が執行するものの、調査委員及び補欠員の選挙は税務署長の職掌となった。所得調査委員の定員は五名とされ、管内の納税者数などにより九名から四名までが定員とされた(史料20)。史料23は、明治三十二年と推定できる東京税務管理局管内の所得調査委員名簿である。従来の府県が市や郡区単位で取扱ってきた時代は、府県公報などで調査委員が公示されるため、これらを丹念に追跡して分析することで初期の調査委員の解明が可能となる。明治三十二年以前の東京市を事例にした鈴木芳行氏の研究は、その先鞭をつける労作といえる(10)。しかし明治三十二年以降は、調査委員のリストを作成することすら容易ではなくなるのである。なお、この改正により、調査委員の選挙規定から満二十五歳以上の男子という制限がなくなり、男女及び内外国人の別なく所得の申告者にはすべて選挙・被選挙権が与えられることになった。

調査委員会は税務署長が招集し、会長は調査委員のなかから互選された。調査委員会は八月までに開会され、八月末日までに所得金額を決議することとなった。所得金額の決定に不服の場合は、税務管理局単位に設置される所得審査委員会で審理される。審査委員会は、大蔵大臣が任命する収税官吏三名と、調査委員から選出される審査委員四名で構成され、審査委員は毎年調査委員から選定された。

この改正により、第三種の所得金額は「所得調査委員会ノ調査ニ依リ政府之ヲ決定ス」と規定されたため、所得調査委員会は決議機関から諮問機関へ変化したとの見解が示されている(11)。この見解は、法改正により調査委員会の権限が大きく削がれたという印象を与え、これが通説化しているようである。大正二年の第三十回帝国議会には、国民党から諮問機関である調査委員会を決議機関とする法案が提出されている(12)。これに対して、時の菅原通敬主税局長は、「国家ノ課税権」の問題であると断乎拒否しているが、こうした議論が明治二十年所得税法の前提にあったわけではない。先の上林の解説でも、所得調査委員会は「旧税法ニ由来シ、其ノ組織権限モ亦殆ト相同シ」であるとされている(13)。決議機関から諮問機関への転換とする理解は、大いなる誤解を招くものといえよう。調査委員会の権限において問題となったのは、その範囲についてである。これについては、当時二通りの解釈があったようである。第三種所得は、第一次的な税務署長の調査、第二次的な調査委員会の調査を経て政府が決定するが、上林は調査委員会の権限は税務署長の提示した所得調査書の修正に限定されるとしている。納税者若しくは納税義務者と認められる者への質問権があるのは税務署長だけであり、法令上調査委員会にはその規定がないことが、この解釈の根拠とされている。一方、若槻礼次郎の解釈は「独立絶対ノ調査権限」を認めるものとされている。若槻は、所得申告書が税務署にとって参考資料に過ぎないのと同様、税務署長の提出する所得調査書もまた調査委員会にとっての参考資料であると解釈している。つまり所得調査委員会は、税務署が提示した所得調査書の範囲外を越えた調査権限を有していると主張するのである。そしてその権限は、調査委員会が税務署長を通じて納税者等に質問することで担保されているとしている(14)。上林の解釈は調査委員会の権限を狭く解釈するもので、若槻の解釈のほうが一般の受け止め方であると認識されている。ここでは調査権限の範囲についての相違はあるものの、今日イメージするような決議機関か諮問機関かという設問も成立していないのである。ただ、調査委員会の調査が政府の決議の前提にあるという点で調査委員会の存在は重要である。史料31や34の明治後期の史料を始め、本叢書には所得調査委員関係史料を多数収録した。調査委員会については、これらの史料を踏まえた更なる検討を期待したい。なお所得調査委員会日誌については、個人情報の保護のため氏名を一部省略したことをお断りしておく。

もうひとつの改正点である外国人課税については史料24と26を掲載したが、まだわからないことも多い。佐々木俊之氏「初めての外国人課税」によれば、明治三十三年分所得税の外国人納税者は約二五〇〇名で、そのうち横浜税務管理局が約一二〇〇名、神戸税務管理局が約七六〇名で、この二局管内で全体の七十三%を占めたという(15)。明治三十一年九月の官制改正で、東京局から横浜局(神奈川県・静岡県を管轄)、大阪局から神戸局(兵庫県同断)が分離され、管内に外国人が多く居住する局には外国語に堪能な職員が集められるなど、相当な準備がなされていたのである。

史料27には、明治三十四年分の東京税務管理局管内の所得税に関する統計を収録した。人員及び税額とも申告通りの決定が全体の五割前後、申告額より増加分が約四割、同減額分は数%である。無申告者の課税も人員で八%、金額で四%ほどあることがわかる。こうしたデータは、主税局や税務管理局・税務監督局などの統計書には掲載されないもので、当時の申告と所得額決定の関係を垣間見ることのできる史料といえよう。

この節の最後に、明治三十八年の所得税法及び施行規則の改正と、日露戦後の税制整理に関する史料を収録した。日露戦争の勃発により、明治三十七年に各税の税率を一律に引上げる非常特別税法による第一次の増税が実施された。所得税の税率は七割増となり、更に翌年の第二次増税により三割から二倍まで増徴された。日露戦後、戦時立法である非常特別税法は廃止されるべきものであったが、戦後の財政状況はそれを許さなかった。そこで政府は、非常特別税の継続を求めると同時に、官民の委員による税法調査会を設置して二年以内の税制整理を実施しようとしたのである。しかしこれは貴族院の反対で頓挫し、大蔵省内に設置された税法審査委員会により税制整理案が作成されることになった。史料32は税法審査委員会の審査報告、史料33は税制整理案審査会の審査要録である。両者とも所得税関係部分を抄録した。しかし明治四十一年の第二十四帝国議会及び同四十三年の第二十六帝国議会と、二度にわたって提出された所得税改正案はいずれも成立を見ず、所得税における非常特別税法の廃止は大正期まで持ち越しとなったのである。なお、これらの史料の地租に関する部分については、租税史料叢書第一巻『地租関係史料集T』を参照されたい。

三 大正期の所得税

大正二年に成立した改正所得税法の特徴は、以下の通りである。1第一種においては株主及び社員二十一名以上をもって組織した株式会社又は株式合資会社を第一種甲、それ以外の法人を第一種乙に区別して課税することである。2第三種については、免税点を四〇〇円に引き上げ、超過累進税率を導入したこと。そして一割の勤労所得控除が認められたこと。3特定重要物産の製造業に、所得税免除が認められたこと。4その結果、懸案であった非常特別税法が廃止されたことなどである。これらの改正の背景には、所得税の負担軽減を基調としつつも、高額所得者と少額所得者、資産所得と勤労所得など、所得の額や種類による税負担の公平を図るという考え方があり、いわゆる租税における社会政策上の配慮がなされたのである。

こうして大正二年に初めて、勤労所得控除と少額所得控除の控除制度が導入されるのである。明治二十年の導入時から据え置かれてきた免税点も、このとき三〇〇円から四〇〇円に引上げられた。表1に、大正期の控除制度の一覧を掲げた。詳細はそれぞれの所得税法を参照いただきたいが、勤労所得控除は俸給・給料・手当・歳費の一〇%、少額所得控除は控除後の所得金額が五〇〇円以下の場合は一五〇円という具合である。控除申請は所得の申告が前提になっている。大正九年の改正で免税点は一挙に八〇〇円となり、新たに家族扶養控除も導入された。この制度は、控除後の所得額が三〇〇〇円以下の場合は、扶養家族一人につき五〇円というものである。家族扶養控除の導入により、少額所得控除は廃止となった。このほか大正十二年には生命保険料控除が導入されている。

こうした所得税の改正は、税務行政に大きな変化をもたらした。それは所得税の申告制の奨励である。大正二年の所得税法の改正審議において菅原通敬主税局長は、所得税はもともと申告税であるにも拘わらず、申告者について言えば虚偽申告、そして無申告者が多い。税務署にとっても申告書は単なる参考であり、所得調査書は独自の調査に基づいて作成している。そのため税務署での押し問答などの弊害があり、それを矯正するため誠実な申告は是認すると同時に、納税者には納税義務の誠実な履行を求めることとしたと説明している(16)。これまで参考に止まっていた所得申告書を、それが誠実なものであれば積極的に是認していこうというのが申告制の奨励である。このときの政府案には、無申告や虚偽申告、又は支払調書の未提出若しくは虚偽の記載等の罰則規定や、税務署長の帳簿・物件の閲覧請求権などが盛り込まれていた。正直な申告を担保するため、違犯者への罰則や税務署の調査権限の強化が意図されていたのである。これらは帝国議会で削除されたものの、税務当局の方針は変わらなかった。史料39の主税局長通牒は、罰則規定等は承認されなかったが、所得税法の立法精神は不変であり「漸次申告税タルノ実ヲ挙クルコトニ」注意すべしと指示している。減税方針のもと、納税義務者には申告奨励(控除申請を含む)を、そして支払調書提出者にも義務の履行を求めることで所得調査の便宜を得、税務署員と納税者が直接折衝する場面を出来るだけ少なくすることで、税務官吏の「苛憐誅求」批判を回避する意図があったのである。

所得税の申告制奨励が税務行政の変化をもたらした背景には、大正期における法人・個人を含む所得税の税収の伸張や、税制における所得税の比重の増加などがあるが、これらについては改めて考察する予定である。

申告の奨励は大正九年所得税法で促進される。具体的な改正内容については史料42などに譲るが、ここでは申告奨励との関係について若干補足しておきたい。申告奨励は、所得内容の裏づけとなる支払調書提出の義務化や、所得調査委員及び所得審査委員の守秘義務の強化となって現れる。無申告や虚偽申告への罰則規定は再び帝国議会で削除されたが、支払調書の不提出若しくは虚偽の提出の場合の罰則規定は実現した。そしてそれは、史料49に見るように大きな成果を上げることになるのである。直接国税の犯則事件で、戦前において告発に至るケースは皆無であったと言われてきたが、実際はそうではなかったようである。これによれば、東京市内の税務署で、再三の注意と訂正要請に応じなかった会社が二社告発されている。法改正により罰金規定を得た翌年、東京税務監督局は全国に先駆けて告発に踏み切ったのである。告発に際しては裁判官や専門家、世論などの動向にも配慮しているが、どうも東京局単独の判断でなされたようである。告発の効果は大きく、事前に警告を発したうえで実地調査を行ったところ、調書の訂正や取り下げが約六〇〇件に達したと記されている。意外なことに一流とされる大銀行や大会社に不正が多く、東京局における調査結果は、仙台局の反応からもわかるように全国に波及していくことになるのである。

申告奨励や支払調書の罰則を伴う提出義務化は、納税者の所得内容の守秘義務強化を導き出す。大正九年改正では、所得調査委員や所得審査委員の秘密漏洩の罰金が最高三〇円から五〇〇円に大幅に引き上げられた。一般的な調査委員の秘密漏洩に止まらず、一部の「税務代弁人」が所得調査委員として知りえた個人の所得情報を業務に利用するなどの弊害もあったようで、税務代理を認めるかどうかが別箇に検討されることになる。

史料52には、大正十一年分の所得税の申告状況と所得調査委員会及び所得審査委員会の決議状況がわかる統計を掲載した。所得税納税人員に占める申告者数の割合は約四〇%で、そのうち申告額をそのまま是認されたのは約二三%である。申告者数と控除申請者数はほぼ同数であり、控除制度が申告制の普及に果たした役割が大きいことがわかる。また所得調査委員会の決議状況を見ると、全体では税務署調査額を若干下回る程度の決議額である。所得審査委員会の決議は、請求人員の約五〇%が減額若しくは無資格となっているが、増額は約六%に過ぎない。所得調査委員会以上に、統計以外から審査委員会の実態を窺うことは困難なのである。

申告制の奨励により、部内及び部外への講習会が不可欠となる。部外の講習会については、史料47・58に東京税務監督局管内の税務署の事例を収録した。ここでは改正所得税法の趣旨説明や、法人所得の計算や申告方法、賞与金や支払調書の提出などについて具体的な講習がなされていることがわかる。なかには会社の帳簿点検を申し出るケースも報告されている。また部内においても、社会の変化に対応した税務職員の研鑽が必要になってくる。史料50に大正十年に開催された直税講習会における東京税務監督局長の訓示を収録した。直税事務の「枢軸」である所得税事務、とりわけ法人事務の重要性が強調されている。「殊ニ法人事務ニ付テハ一知半解ノ域ヲ脱セヌ者多キ」として、個人所得の綜合課税の基礎である法人事務の取り組みが奨励されているのである。

このような大正期の税務行政の変化を典型的に表現しているのが、大正十二年の税務行政の民衆化方針である。このときの主税局長は、後に大蔵次官を二度経験することになる黒田英雄である。この方針は同年六月の全国税務監督局長会議において訓示されたもので、六月十日付の東京日日新聞で公表された(17)。本書には、国民租税協会が編集する『税』創刊号(国民租税協会発行、大正十二年七月刊行)に掲載された記事を史料53に掲載した。この雑誌の刊行目的は、税務行政における官民協調であり、実際の編集は東京税務監督局職員が行っている。「税務行政の民衆化方針」は、『税』の発行宣言とも言うべき文章であるが、その方向性は、東京税務監督局の機関誌『財務協会雑誌』の大正十二年一月号の、勝政憲東京税務監督局長の新春の挨拶で既に述べられている。「知らしむべし、拠らしむべし」というのは時代錯誤の妄想で、今日においては官民協調に基づく「得心の行く納税」を実現しなければならないと明快である。「納得の行く納税」、これが税務行政民衆化の核となるスローガンなのである(18)。ちなみに、このなかで引用されている「賦に厚薄なからしむ」という言葉は、地租改正法頒布の際の「上諭」の一節である。「庶幾クハ賦ニ厚薄ノ弊ナク」というのが原文で、願わくば課税に軽重の弊害がないようにという意味である。実は、大正期から編纂される「税務官吏服務要綱」の冒頭には、この「上諭」が掲げられることが多く、「上諭」は課税の公平を大原則とする税務官吏の心得として蘇ったのである。課税の公平は官民協調による円満な税務行政の基礎であり、納税者には第一次世界大戦における連合国の一員としての「一等国民」の自覚が促されているのである。

税務行政の民衆化方針は、関東大震災から昭和恐慌への時代のなかで変質していくことになるが、一般向けの税法解説書の刊行、納税広報、税務相談部の開設などの新施策が次々と行われた。その一つに、第三種所得額申告書の「税務署への希望欄」がある。これは大正十四年から昭和十四年まで継続されるが、納税者が申告書に税務署への希望事項を記載し、それを税制や税務行政の改善に役立てようとしたのである。本書には、史料60に施行初年度に淀橋税務署から東京税務監督局に報告されたものを掲載した。これらの納税者の意見は、税制や税務行政の改善の材料となっていたことが確認できる。報告はなるべく原文を生かしてあるとのことなので、当時の納税者の税制や税務行政に対する不満や要望をじっくり読んでいただきたい。

大正期の最後に、史料56の所得調査委員当選者について若干の説明をしておきたい。この史料は、『税』に掲載された速報である。熊本県など記載のない部分は◇で注記しておいたが、雑誌掲載段階での誤植等もあるようなので利用には注意が必要である。注目したいのは、神奈川県横浜税務署管内の当選者、「シーケー・マーシャルマーテン」という外国人である。彼は史料46にも登場している。マーシャル・マーチン(Martin C.K.Marshall)は、イギリス人貿易商で、横浜始審裁判所通訳やジャパン・ガゼット社主などをつとめた人物である(19)。当時の雑誌には、「国際所得調査委員」の見出しで次のように紹介されている(20)。唯一の外国人調査委員は、居留地外国人の代表として選出されたと考えるのが普通であるが、左にあらず。彼は委員会で税務署の調査額を減額することは一度もなく、逆にしばしば増額意見を述べる。そのため外国人の投票は十票程度しかない。ところが国際関係から一名位は外国人の調査委員が必要だとして、横浜市の役人や学校の先生たちが投票しているという。マーシャル・マーチンは、関東大震災後の永代借地権の解消や復興事業に功績のある人物とのことなので、外国人の支持についての評価が正しいかどうかは検証が必要であるが、その存在は銘記しておく必要があろう。

四 昭和期の所得税

大正十五年(一九二六)の税制改正は、第五十一回帝国議会において成立した。大正十四年に閣議決定された「税制整理方針及要綱」では、租税収入に増減のない範囲での税制整理方針が確認され、全般的に「中流以下多数国民ノ負担ヲ軽減シ、社会政策的ノ効果ヲ挙クル」ための改正が目指された。このとき所得税の納期は七月、十月、一月、三月(従来は九月・十一月・一月・三月)となり、申告期限も四月末から三月十五日に繰り上げになった(史料61・62)。

昭和期は、水沢税務署管内の所得調査委員選挙に関する史料63を収録した。同署管内では、郡単位に一名の候補者を立て、事前に「所得調査委員予選協議会」が開かれていることが確認できる。このころの所得調査委員選挙は、「市会議員・府会議員、国会議員の選挙の先駆けをなすもの」で、政党色が強いとされている(21)。地域における各種選挙との関係性や党派性、時代や地域における所得調査委員選挙の変化の有無など、調査委員選挙の実態解明が必要であるが、史料66の所得調査委員当選者名簿はその手がかりになろう。とくに昭和九年の所得調査委員当選者名簿は、職業記載がある点で貴重である。調査委員の職業調査は初めてだったようで、この名簿を掲載した『税』の編輯部が税務監督局別の職業統計を作成している。表2は、その一覧から必要な部分を抜粋したものである。冒頭の府県会議長の合計が間違っているが、数値は史料のままである。最初に掲げたのは地方団体議員や町村長、同吏員などである。市会議員や町村長が多いのは、所得調査委員が地域の代表という一面をもっているからであろう。次の項目には弁護士・計理士・税務代弁を掲げたが、計理士のなかには会計士も含まれている。最後の項目は、職業の多い順番に(二十名以上)配列してある。

ここで注目したいのは、二番目の項目である。税務代弁は今日で言う税理士に相当する職業であるが、税務代理士が公認されるのは昭和十七年である。計理士は昭和二年に法制化されているが、会計士は自称である。大正十二年の通達によれば、彼らは「税務行政カ漸次重要視セラルヽニ従ヒ、税務弁理士・会計士等ト自称スル輩続出シ種々活躍スル所ヨリ、或ハ納税者ヲ会員トスル協会ヲ創立スル等、納税者ト税務署トノ中間ニ立チテ申告其ノ他手続上ノ代弁ヲ為サムトスルモノ」とある。当局としては、税務代弁を一概に排斥すべきとは考えていないものの、一部に弊害があるとして税務の仲介・代弁を認めない方針であった。昭和十三年には、所得調査委員の「税務代弁士業」の兼業が禁止されている。

史料64は、昭和六年四月に成立した若槻内閣のもとで進められた『税制整理準備調査概要』上巻の抄録である。緊縮財政方針のもと、行財政整理と税制整理委員会が並行して開催されたのである。税制整理準備員会は昭和六年四月二十七日の第一回から、十月二十六日の第四十二回まで開催され、税制整理案を作成している。そして十二月の臨時行政財政審議会で税制整理案が決定され、さらに十二月九日の閣議決定に至っている。

昭和前期の所得調査委員会史料も、史料65と67に掲載した。官民協調による円満な閉会が目指されていることが窺えよう。

史料68は、昭和十五年四月十六日に東京手形交換所で行われた改正税法の説明会における、大蔵事務官平田敬一郎の講演の一部である。当日の質疑は細かい取り扱いにも及んでいるが、改正の概要を説明した「緒言」のみを抜粋した。スペースの関係から昭和十五年所得税法は割愛したが、この改正で所得税は綜合所得税と分類所得税の二本立てとなり、勤労所得は源泉課税となった。国民所得の大部分を占めるのは勤労所得であり、本来担税力は小さいが「応分ノ負担」が求められている。その際、申告に基づく従来の方法では「徴税者ノ立場」からも「納税者ノ立場」からも煩瑣である。少額所得者からの徴税が難しくなるので、できるかぎり源泉課税とする方向が出されたのである。昭和十三年の支那事変特別税法により、第三種所得の免税点が一,二〇〇円から一,〇〇〇円に引き下げられている。免税点の引下げ等により、昭和十三年度の第三種所得税納税者数は、前年の一二〇万人から一七三万人に急増している。源泉徴収制度の導入は、帝国議会で「納税の簡易化」と説明されているが、こうした納税者の急増(所得課税の強化と言い換えても良い)を背景としているのである。

昭和十年代末期の史料として、史料69〜72を収録した。史料69の和歌山県御坊税務署では、昭和十九年以前から所得税等の調査において、調査委員会とは別に町村長や同吏員と所得額や営業純益額についての協議がなされていることがわかる。この時期の所得調査委員会のあり方に変化が生じているのかもしれない。次の史料70は、昭和十九年度における「国民税(仮称)」案である。税率アップや控除制度の縮小化などの所得税改正案の検討のなかで、「帝国臣民」の「納税奉公」として打ち出されている点が特徴である。この国民税構想は、昭和十九年二月に設置された皇国租税理念調査会による帝国臣民の納税観念醸成活動などと併せて検討する必要があろう(22)。国民税そのものは、納税額は一律五円程度で所得に応じた負担ではない。しかも税務署と市町村のどちらで賦課するか、二通りの案になっている。後者は、町会や隣組の利用など、昭和十八年の納税施設法などとも共通する内容であり、昭和十九年の日雇労務者等の報酬等の源泉課税などに繋がるものといえる。こうしたなか、史料71の決戦下における税務行政の運営方針が打ち出され、戦時税務協力委員規定が作成されるなど、まさに徴税における総力戦体制が推進されるのである。

(牛米 努)

(1) 拙稿「明治二〇年所得税法導入の歴史的考察」『税務大学校論叢』56(税務大学校、平成十九年七月)。
(2) 織井喜義・山本洋「創成期の所得税制叢考」『税務大学校論叢』20(税務大学校、平成二年三月)。
(3) 前掲『法令類集』二五四〜二五七頁。
(4) 前掲『法令類集』三二九頁。
(5) 上林敬次郎『所得税法講義』一八〜一九頁(松江税務調査会、明治三十四年)。
(6) 『帝国議会衆議院議事速記録13』一三八〜一四〇頁(東京大学出版会、昭和五十五年)。
(7) 国税庁『所得税・法人税制度史草稿』六頁(昭和三十年)。
(8) 前掲『法令類集』九八〜一〇二頁。
(9) 前掲・上林『所得税法講義』一二二〜一二五頁。
(10) 鈴木芳行「所得税導入初期の執行体制−東京市の所得税調査委員を中心に−」『税務大学校論叢』51(税務大学校、平成十八年六月)。
(11) 大村巍「所得調査委員会制沿革概要」『税務大学校論叢』13(税務大学校、昭和五十四年十一月)。
(12) 『帝国議会衆議院委員会議録2』一一〇〜一一一頁(臨川書房、昭和五十六年)。
(13) 前掲・上林『所得税法講義』一二八頁。
(14) 若槻礼次郎『現行租税法論』和仏法律学校三十六年度講義録、三〇六〜三一一頁(国立国会図書館所蔵)。
(15) 『税大通信』四三三号(税務大学校、平成十四年九月一日)。
(16) 前掲『帝国議会衆議院委員会議録2』一三〇頁。
(17) 『大正ニュース事典』W、五一頁(毎日コミュニケーションズ出版事業部、一九八七年)。
(18) 「『財務協会雑誌』と『税』の創刊」『史料が語る租税の歴史』八四〜八五頁(租税史研究家グループ編、大蔵財務協会税のしるべ総局、平成十一年)。税務行政の民衆化方針の背景に、大正九年の所得税改正反対運動や同十一年の営業税撤廃運動の影響が指摘されているが、より巨視的な観点からの考察が必要であると考える。
(19) マーシャル・マーチンについては、横浜開港資料館学芸員松本洋幸氏の御教示を得た。記して、感謝したい。
(20) 『税』第四巻第二号(大正十五年二月)。
(21) 『戦時税制回顧録』二八〜三七頁(大蔵省大臣官房調査企画課、昭和五十三年)。
(22) 皇国租税理念調査会については、吉牟田勲「皇国租税理念調査会小史」『東京経営短期大学紀要』第10巻(二〇〇二年三月。後に『政経研究』第41巻、第1号(平成十六年九月)に転載)。

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