日露戦争後から昭和の初期にかけて、各都市では電気、ガスなどのインフラが整備されていきました。また、明治以来発展を続けてきた各都市の基幹産業も定着し、近代的な都市として大きく発展していきました。そして、インフラの整備や雇用の安定によって、都市の人々の暮らしにも余裕ができ、都市部には余暇を楽しむ遊興施設が多く軒を連ねました。
 視点を都市に暮らす人々に向けてみると、会社勤めをし、月給を得るサラリーマンと呼ばれる雇用形態が急速に普及しました。サラリーマンの登場は、毎月決まった額の収入を得られるだけでなく、定期的な休日を得られるようになったことで、人々のライフスタイルを大きく変えました。
 各都市ではインフラ整備に掛かる財源を確保するため、地域に見合った地方税の創設など、様々な試行錯誤が行われました。
 しかし、都市によっては基幹産業が衰退し、失業者の増加や、財源の減少に悩むところもありました。
 また、大正時代には大正3(1914)年の第一次世界大戦による好景気で「成金」と呼ばれる急激に裕福になった人々が登場した半面、物価の高騰により、都市部に住む人々の生活は圧迫され、米騒動などの暴動に発展することもありました。この物価高騰のあおりを受け、各都市の支出は大幅に増えてしまいました。このインフレと財政悪化を背景に石川県金沢市で芸者の花代に課税する遊興税が登場し、その後他の各府県に広がっていきました。
 他にも昭和初期には扇風機税や蓄音機税といった家電に対する税も登場しました。これらの家電は当時非常に高価であっただけでなく、使用のための電気が整備されていないといけないため、インフラの整った都市部の富裕層を想定した税であったと言えます。
 このコーナーでは、主に地方税を通してそれぞれの都市が大正時代の都市計画を実現させるためにどのような試みを行ったかについて紹介します。

都市と地方税


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 明治時代の後半から、昭和の戦前にかけて、各都市では都市交通や電気を中心に各種のインフラの整備が進みました。その恩恵として、都市に住む人々はガスや電気を利用し、ラジオや扇風機といった家電を使った生活を手に入れることができました。
 しかし、それまで存在しなかった生活インフラを一から整えるためには、莫大な財源が必要とされ、各自治体に重くのし掛かりました。
 そのため、各地方自治体は財源の確保に向け、地方税を整備していきました。地方税では全国一律に課税される国税と違い、地域の特色を反映した税が多く、その種類やルールは様々です。
 各地域の新聞資料などを参照すると、市民生活への影響を最小限にするために様々な議論がなされ、その結果、娯楽や当時高価だった家電などに対する税が創設されていったことが分かります。

都市、それぞれの財政事情


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(横須賀軍港の絵葉書 大正時代 久米 幹男氏 寄贈)

 近代の都市は、商業、工業、港湾、軍事、鉱山などの産業が町を形成する柱となっていました。町を代表するこれらの産業は、人口や経済などあらゆる分野で町を支えてきました。そのため産業が衰退した都市は失業対策や税収の激減などによって、急速に勢いを失いました。
 特に顕著な例として挙げられるのが、鉱物資源を掘りつくした鉱山都市や軍縮下の軍港都市です。
 横須賀、呉などの軍港都市は、軍事需要が高まっているときは数万人の労働者を海軍工廠などで雇用しますが、一度軍縮になると新たな軍艦の建造が行われなくなるため、町は失業者で溢れてしまいました。また、軍人や海軍工廠の労働者たちをターゲットにした飲食店など地域の商店もその影響を受けてしまい、町全体の景気が悪くなってしまいました。
 他の事例として近代に発展した都市の代表格でもある横浜市も、大正から昭和の初めにかけて港湾からの収入が減り、新たな財源を求めて周辺の工業地帯を横浜市に編入するなど、都市それぞれが複雑な事情を抱えていました。
 これらの都市も他の地域と同じようにインフラの整備や学校建設、社会福祉などの行政サービスを行わなければならず、その財源の確保に苦心することになりました。また第一次世界大戦による好景気で物価が上昇したことも、インフラ整備費用を増加させ、財政を圧迫しました。
 財源の確保に向け、各都市では戸数割の免税点引き下げなどを議論しますが、低所得者の負担が増えることに対する反対意見が相次ぎ、結局多くの都市が娯楽関係に様々な角度から課税することで活路を見出していきました。

呉税務署の署長秘録
昭和時代


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(呉税務署 移管)

 署長秘録は税務署長が後任者への引継を行うために残す引継資料です。町の立地や経済の状況など、様々な情報が記されています。この史料では、呉市の成り立ちやその経済について触れられており、呉市は呉鎮守府と海軍工廠によって勃興した軍港都市であり、他の産業は少ないことが記録されています。
 また、ロンドン海軍軍縮会議によって海軍工廠の職工が削減されたために呉市全体の経済に甚大な影響を与えていると書き残されています。

財源としての「娯楽」


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(浅草の絵葉書 大正時代 久米 幹男氏 寄贈)

 インフラの整備など都市計画の財源を得るため、多くの都市は演劇や映画などの娯楽に対して課税しました。その背景には都市部での娯楽の発展がありました。
 サラリーマンの登場により定収と定休を得られる人が増え、娯楽を楽しむ余裕ができました。そんな中で、各都市では余暇を楽しめるような娯楽施設が多く登場しました。
 こうした娯楽に対して、各地方自治体には地域の実情に沿った形で娯楽に対して課税し、財源としました。
 その娯楽に対する地方税の代表格と言えるのが、遊興税と観覧税です。
 観覧税は映画館や劇場、寄席などに入場する際に客が購入する入場券に課税する税でした。明治時代に登場した映画は大正、昭和の時代に大衆娯楽として非常に発達し、各都市では多くの映画館が登場しました。映画や観劇は都市部の人が余暇を過ごす場所として大変賑わい、大きな財源になりました。このような社会背景もあって、劇場関係の地方税は観覧税の他にも興行主が納める興行税や、演者である俳優が納める俳優税を導入した地域もありました。
 遊興税は芸者の花代や高額な飲食をした場合に課税される税でした。
 遊興税と観覧税は多くの府県で導入され、急速に普及していきました。その後日中戦争が勃発すると、これらの税は国税になり、遊興税は遊興飲食税、観覧税は入場税という税になりました。

金沢市の遊興税


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(大正時代の金沢市の絵葉書 久米 幹男氏寄贈)

 高額な飲食や芸者の花代に課した遊興税は大正時代に地方税として全国に広まり、戦争中に国税の遊興飲食税となりました。そのルーツは大正8(1919)年に石川県金沢市で創設された遊興税にあります。
 金沢市の遊興税は「金沢市特別税遊興税條例」で創設された市税で、「遊興税は本市内に於いて料理店、貸席、貸座敷等にて芸娼妓を招聘して飲食又は遊興を為し金員を消費せし者に対し之を賦課す」と規定されています。
 この遊興税の成立過程を見てみると、当時金沢市では学校の建設費用や橋梁など都市のインフラ整備に必要な財源として遊興税と観覧税の新設を目指していました。
 遊興税は全国でも初めての試みであり、当時金沢市議会でも様々な議論がやり取りされていました。例えば「芸妓を招かなければ、いくら豪遊しても遊興税は課せられないのか。課せられないのは不徹底ではないか?」、「芸者の代わりに力士や俳優を招いた場合はどうなるのか?」といった具体的な質問が出ていました。ちなみにこれらの質問に対して「芸者を招かなければもちろん遊興税は課せられないが、大きな宴会に芸者は必ずいるので心配はいらない」、「力士や俳優は遊興税の範囲外である」と当時の担当者は回答しています。
 遊興税は徴収の方法も工夫がされていて、芸者が所属する組合などがまとめて遊興税を徴収して納めるシステムになっていました。
 遊興税は金沢市での導入後、全国に普及し、地域によっては芸者の有無に関係なく高額な飲食に課税される場合もありました。

特別税遊興税條例原案
大正8(1919)年


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(金沢市議会 所蔵)

 大正8(1919)年に金沢市議会に提出された遊興税の原案です。この原案では、「1円以上の飲食又は芸者を招いて遊興をした消費」に対して遊興税が課せられるとされていますが、議論の結果修正され、「芸者を招いて2円以上飲食又は遊興をした消費」と芸者の存在が遊興税を課す為に必要な要素として規定されました。

地方税総覧
昭和13(1938)年


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(当室 購入)

 昭和11(1936)年に内務省が発行した地方税に関する本です。内務省は当時地方自治体を管轄する省庁で、地方税は各地の議会で議決された後に内務省と大蔵省の許可を得て課税されていました。
 内容を見ていると、遊興税や広告税、軌道税といった多様な税があります。これらの税は全ての府県にあったわけではなく、中には伐採した材木を川に流す際に流木税を課していた府県が存在するなど、各府県が地域の特性に合わせて税を課していたことが見て取れます。

神奈川県の広告税


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 神奈川県では昭和初期に看板広告に課税する広告税を課していました。広告税は全国の府県では数例しかない税ですが、神奈川県の場合は特殊で地域の特色を反映した税でした。
 神奈川県の広告税では、税額を決めるための区分として「東海道線の客車から見るもの」、「アドバルーン」、「その他」と分けられていました。神奈川県にとって東海道線は川崎、横浜、小田原など重要な都市を通りながら県をほぼ横断する路線であるため、東海道本線から見える看板は広告効果が大きいと考えられたのだと思われます。

目次

はじめに

  1. 1 近代都市の形成と税
  2. 2 都市の発展と税
  3. 3 都市の拡大と税