嘉永6年のペリー来航により、日本の近代が幕を開けました。安政5年には日米修好通商条約が結ばれましたが、領事裁判権が認められたり、日本の関税自主権が否定されるなど、日本には不利な内容でもありました。関税自主権が否定されたため、明治政府にとっても関税は新たな財源としては頼れませんでした。
維新直後の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼らざるを得ず財政基盤がぜい弱だったため、年貢による税制度を改革し、全国統一の安定した税源を確保することが急務となっていました。
五箇条の御誓文に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と謳ったように、誕生して間もない明治政府は、「公議輿論」に重点を置く政治姿勢を明言しました。明治政府は、議事機関として公議所などを設置し、税制改正など重要案件について諮問しました。そこには、農業者の税負担を軽減することなどの意見が寄せられていました。
公議所では、神田孝平や陸奥宗光などから地価に一律課税する方式が提言されました。これらの提言をもとに明治6年、全国の府県知事を集めた地方官会同での審議を経て、地租改正条例、地租改正施行規則などが成立し、明治政府は地租改正に着手しました。
異国船が日本周辺に来るようになってから、幕府は江戸近隣の諸大名に江戸湾防備を命じるようになり、ペリー来航後は、長州藩や熊本藩など雄藩にも警備を命じ、また、品川沖には台場が築かれました。諸大名の担当の持ち場が決められ、時折、交代していました。それを知らせるためにこのような印刷物が作成されました。
展示している御固図は、各藩の配置状況から、安政元年前後に作成されたものだと推察されます。
安政5年(1858)、日本はアメリカと日米修好通商条約を締結しました。その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を締結しました(安政五箇国条約)。
内容は、@箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港および江戸、大坂の開市、自由貿易、B協定税率、C領事裁判権などが定められました。の協定税率により、日本は自国の関税率を自由に設定する権利が否定されました。この史料は、条約締結の翌年に、江戸市内に配付されたものの1つです。見返し部分には「大日本開闢(かいびゃく)已来(いらい)未曾有(みぞう)のありがたき目出度(めでたき)書なり」と、新しい時代の幕開けを予感させる文言が書かれています。
福沢諭吉が著した西洋諸国を紹介したベストセラーです。福沢は幕末に数回、欧米を歴訪しました。その時の見聞や聞取りなどから海外情勢の啓蒙書を著したのです。初編・外編・二編の3編からなり、初編は慶応2年、外編は明治元年、二編は明治3年に初版が刊行されました。西洋諸国の政治制度や税制度などを紹介した上で、各国の歴史、外交、学校制度、技術など幅広い分野について書かれています。
展示している本は、明治3年に再版されたものです。開いている部分では、収税法を紹介しています。
明治政府は、「公議輿論」に重点を置く政治姿勢を明言しました。そこで、各藩の代表者たち(貢士)から組織される貢士対策所(公議所の前身)を設置し、政府から租税制度や外交などの重要案件について諮問しました。この史料は、近江国大溝藩(現在の滋賀県高島市)貢士八田良介の租税制度に関する意見書です。農業者の負担軽減を図るべきだが、戊辰戦争終結まではこれまで通りとし、歳出を抑えるために倹約に努めることといった意見を述べています。
神田孝平は、旧幕臣の洋学者・啓蒙思想家で、明治維新後は明治新政府に出仕し、議事機関にあたる公議所や集議院、元老院などに務めました。明治3年に「田租改革建議」を草し、沽券に記載された土地価格に基き地税を徴収する方式を提案し、これが後の地租改正の際の地券制度の基となりました。
展示している『田税新法』は、この「田租改革建議」を出版したものです。
明治6年5月に、地租改正法その他の重要法案を審議するために府県知事が集められました。それに先立ち、井上馨大蔵大輔(現在の次官)から、地方の実情についての事前調査が命じられました。この史料は、その事前調査項目についての追加解説です。
一年間の租税の総計などのほか、各地の特産品に係る税や、道路堤防などの修繕を目的とした税など、各府県の江戸時代から続く様々な税についても把握をしようとしていたことが分かります。
地租改正事業を行うにあたり、明治天皇から出された詔です。これまでの偏重偏軽かつ全国でさまざまであった税制を、中央だけでなく地方の人々の意見を採用して「公平画一」な税制へ改めることが目的であることを詔すると共に、事業を行う者に対しては、賦課に厚薄の弊害がないよう注意しています。この明治天皇の直接の言葉である上諭は、税務官吏の指針となり、服務要綱などの先頭に所載されていました。