明治後半期の経済発展によって土地利用状況は変化し、特に宅地に大きな格差が生じていました。
明治31年(1898)に宅地組換法が出されました。明治6年(1873)の地租改正では、郡村宅地は「上畑」として地価が算出され、市街宅地は賃貸価格を基に算定されましたが、発達した郡村の宅地を「上畑」として課税することには矛盾や限界がありました。そこで、是正するために、都市の状況によって郡村宅地と市街宅地の地目を組換え対応したのです。さらに、明治30年代後半からは、地租の税率について、市街宅地、郡村宅地、田畑を含むその他の三つに区分し、格差を設け、社会の変化に対応しようとしました。
そして、明治43年(1910)には、地目の組換えではなく、郡村宅地と市街宅地を宅地に一本化するとともに宅地の地価算定基準を賃貸価格に統一しました。
大正15年から昭和2年(1926から27)に土地賃貸価格調査が実施され、すべての土地に賃貸価格が付けられました。そして、昭和6年(1931)に地租条例が廃止されて地租法が制定されると、賃貸価格が地租の課税標準とされました。
明治30年代後半からは、実測に基づく様々な地図の市販が一般的になりました。賃貸価格調査では、そのような各種の地図が謄写され、調査地図として活用されました。
賃貸価格調査では、それまでの一筆主義(一筆ごとに個別に価額を付ける)から区域主義(区域でまとめて価額を付ける)に大きく転換しています。同じような条件の土地はできるだけまとめて賃貸価格をつけていきました。
大正15年(1926)の土地賃貸価格調査で西筑摩税務署(木曾税務署、長野県)がまとめた「土地賃貸価格調査嘱託名簿」と「嘱託員調査回答綴」です。
土地賃貸価格調査では、地元の精通者が嘱託員に選ばれています。現地視察の案内役を務めたり、収穫量や土地の等級などの諮問に答えるなど、土地賃貸価格調査に協力しています。
名簿には、町村長との嘱託員の推薦を巡るやりとり、嘱託状の授受、嘱託の内容がとじられています。
回答綴は、税務署の諮問に応じて嘱託員が税務署に回答した調査地区の土地の等級表がとじられています。
加古川税務署(兵庫県)所轄の土地賃貸調査委員29人を公職別にまとめた表です。税務監督局は、各税務署に土地賃貸価格調査事業や改訂事業の経緯や成果をまとめるように指示を出しました。この表は、加古川税務署の記録の一部です。
その内訳は、総数が29人で、約半数の14人を町村長が占めています。一方で、公職に就いていない「公職ニ関係ナキモノ」は0人となっています。加古川税務署管内の土地賃貸価格調査委員は、何らかの公職を持っていたことが分かります。
土地賃貸価格調査では、調査終了後に町村長・調査委員・嘱託員などに感謝状が贈られました。調査委員には記念品が贈られている例があります。
「記念帖」は、大正15年(1926)の土地賃貸価格調査事業に際し、名古屋税務監督局で土地賃貸価格調査の終了を記念して編集され、調査委員に配付しました。最初に事業の経緯が記され、管内の調査委員の顔写真と略歴が収録されています。
木杯は、昭和11年(1936)の第1次土地賃貸価格改訂事業を記念し、大阪税務監督局が作成し、土地賃貸価格調査委員に配りました。
賃貸価格調査では、調査の初めに調査地図が調製されました。2、3種類の地図が作られ、甲図は市町村図、乙図は大字図、丙図が集団地などの図でした。土地台帳附属地図や市販の地図類から謄写され、土地の形状に地番が加筆されています。
物価や賃貸実例などの調査が行われると、等級を付けていく編級調査が進められ、賃貸価格が設定されていきした。
賃貸価格調査では区域主義が採用され、同一条件の土地はまとめて同じ賃貸価格が設定されました。地図を駆使した現地踏査は、編級調査の重要な一段階でした。