大正時代に入ると、所得税などが減税(大正2年)されたことや、第一次世界大戦の勃発(大正3年)により、主戦場となった欧州がそれまで行っていたアジア、アメリカへの輸出が激減し、日本からの輸出が大きく伸びたことなどから、日本では好景気となり滞納が沈静化していきました。好景気は、会社の新設や、それに伴い会社員の急増をもたらし、日本の税収に占める所得税の割合が高まり、大正時代半ばには地租を逆転しました。
大正時代後半になると、第一次世界大戦の終結や関東大震災による経済の落ち込みにより、再び税の滞納が増加しました。
そのような中、大正デモクラシーやメディアの発達の波が税の世界にも及びました。「税務の民衆化」というスローガンのもと、納税者に対しても厳しく取り立てるのではなく、納税者の視点に立って、税制や税務行政に関する不平や質疑、申告や申請の方法、救済手続きなどについて懇切に応対したり、税法の要点や納税の大切さなどをより積極的に情報発信することが、納税者から望まれました。税の役割や納税の重要性を説明したラジオ番組や映画などが作成され、全国で放送、上映されました。
「とられる税」から「納得して納める税」をスローガンに、大正時代の中ごろから、「税務の民衆化」が叫ばれるようになりました。大正12年に東京税務監督局が設置したことを皮切りに、各局に税の相談や苦情を受け付ける税務相談所が設けられました。
展示している史料は、亀戸税務署長が、不親切は納税者の不平非難のもとであり、税務行政の渋滞のもとになることから、署内のいたるところに「親切第一」と書かれたポスターを掲示して署員に注意を喚起し、納税者に好感を持たせる方策をとったことを東京税務監督局長に報告したものです。
浅田銀行が中野町(現在の東京都中野区)へ納める税金の取り扱いをはじめたことをPRしたものです。中野町にある3か所の支店のどこでも納税ができるようになり、便利になることをうたっています。
津市役所が行った懸賞付きの納税奨励標語の募集ポスターです。
大正3年(1914)に市町村交付金が増額された際、大蔵省主税局長や内務省地方局長から、納税場所の増加など納税者の利便を図る施策などに市町村交付金を充てることが望まれました。市町村交付金を利用して、全国で納税組合への助成や納税成績優秀者への表彰、税に関する懸賞などが行われました。
大阪市、京都市及び神戸市の税務協会からなる関西三大都市税務協会が主催し、この三市や大阪税務監督局(現在の大阪国税局)が後援しました。応募規定に、「醇良(じゅんりょう)なる納税観念の涵養(かんよう)及び納税状態の改善を促すに適切なるものなる事」となっており、きちんと納税するという意識の向上も目的となっていたことが分かります。全国から応募があり、標語の部では約6,500句もの作品が寄せられ、1等に「正しき申告 笑顔で納税」が選ばれました。
※醇良…かざりけがなく善良なること。
※涵養…無理をしないでゆっくり養い育てること。
山形県南村山郡西郷村(現在の上山市)の10歳の芳松少年が、ドジョウを捕って苦しい家計を助けて税を完納したという話です。芳松少年を国民新聞(徳富蘇峰が主宰した当時の有力紙)が取り上げ話題となり、仙台税務監督局が「納税美談」としてこの冊子を全国に配付し大きな反響を呼びました。芳松少年本人が出演した「北國の少年」という映画も作られました。
以後、貧しい人力車夫が家計を切り詰めて納税に充てていた話など、子供だけでなく、さまざまな人たちが主人公となった事例が全国で報告されました。子供が親の代わりに納税する「納税美談」には懸念の声も挙がりましたが、当時の社会風潮から、多くの人の涙を誘いました。
雑誌『税』の巻頭のことばで、青木得三東京税務監督局長が東京市京橋区小学校教員に行った講演を紹介しています。当時、第二の「孝子芳松」として、千葉県の13歳の漁師の娘が、海岸で貝殻を拾って売り、納税したという話がありました。
青木東京税務監督局長は、「税金の苛重から幼い子供が納税に苦心するという話が生まれたものならば、戦慄すべきことである。千葉県の話は、税額が36銭と一戸を構える者に対する税金としてはさほど重いものとも言えず、納める気さえあれば少女の貯蓄で納税しなければならないほどではないだろう。やむを得ない場合もあるが、まず、公義務を果たす或いは怠慢を戒めるべきである。」と、親に対し苦言を呈しています。
『税』…税務署職員や納税者などの意見交換などを目的として創刊された雑誌