第一次世界大戦後の日本は、空前の好景気を迎えました。資本主義経済の下で、製造業が発達し、社会や生活に大きな影響を与えました。
生活面では、農村の生活サイクルを脱し、工場周辺に集まった労働者により都市化が進みました。それにより、給与所得者が増え、工場生産も一般化しました。工場では、労働者、工場設備、製品原料等の一括管理が行われ、その管理部門には社員が置かれました。このような労働環境の変化により、新たな労働者の育成のため、教育改革が企図されました。
明治末期には、小学校の就学率が、95%を超えていたものの、経済的な理由から卒業生の8〜9割は中等教育に進めませんでした。大正期には、このような児童にも、中等教育に進めるように、商業学校等の実業学校が整備されました。
大正期の教育改革により、児童や生徒には、様々な進学ルートが提供されることになりました。この影響は税務職員にも及び、簿記・会計学等の専門知識を備えた学生が、より多く社会に輩出されることになりました。
大正6(1917)年に、寺内正毅(のち原敬)内閣は、第一次世界大戦に伴う社会情勢及び国民生活の変化を受け、これに即応する教育の改革を行うことにしました。
経済的な理由から中学校の進学を断念した者は、高等教育に進むためには、「専門学校入学者検定試験」(専検)等という資格試験(認定試験)に合格する必要がありました。
そこで、政府は進学者を増やすため、大正10(1921)年に、夜間の実業学校を文部省が認可し、大正13(1924)年に、昼夜の実業学校にも、高等専門学校の受験資格(専検認定)を与えました。つまり、昼間に働きながら、夜間に正式に認可された学校で学び、卒業すると「専検」が認定され、高等専門学校等を受験することができるようになりました。
認定試験だけの時代に比べると、高等教育に進学する難易度が大きく下げられたのです。
大正期の商業学校では、簿記・会計学の教科書は、全国の約7〜8割の学校で、東京高等商業学校(現一橋大学)教授の吉田良三の著書が採用されていました。
中等教育の商業学校の場合、教科書の内容は、複式簿記を中心にした商業簿記の基本部分を学んでいたようです。一方で、工業簿記(減価償却、原価計算)の要素は、授業の内容には含まれていませんでした。
高等商業学校になると、教科書の中に工業簿記の要素が加わるようになりました。
明治以来の日本では、すべて商業簿記で処理されていましたが、大正6(1917)年に吉田良三『工場簿記』が刊行され、日本に初めて工業簿記(減価償却、原価計算)が紹介されました。ただし、高等商業学校では、外国語の原書を用いて講義が行われていました。
(画像をクリックすると拡大します。) |
(画像をクリックすると拡大します。) |
(久米 幹男 氏 寄贈)
大正期には、消費生活のスタイルが変わり、各地で商店街が発達し、百貨店も建てられました。そして、洋装のモボ、モガが街中を闊歩する姿は、東京の銀座では「銀ぶら」、大阪の心斎橋では「心ぶら」、神戸の元町では「元ぶら」と呼ばれました。
(画像をクリックすると拡大します。) |
(画像をクリックすると拡大します。) |
(画像をクリックすると拡大します。) |
(画像をクリックすると拡大します。) |
大正期に給与所得者が増加すると、土曜日の半休、日曜日の全休の休日制が一般化しました。そのため、休日を中心に生活スタイルが変化しました。
政府の推奨もあり、海水浴、ハイキング、テニス、野球、スキー等のレジャーが人気を集めました。また、多様な余暇の過ごし方に対し、入場税、扇風機税、蓄音機税、ラジオ税など、映画関係、旅館関係等の関連税目が注目されました。
(画像をクリックすると拡大します。) |
(画像をクリックすると拡大します。) |
これは、「専検」受験のための参考書です。「専検」試験に合格するためには、そのための受験勉強を行う必要がありました。その勉強は、俗に苦学と呼ばれました。
このような苦学生は、生活費や学費を稼ぐために、働く必要がありました。そのため、自分に有利な仕事を探しました。牛乳配達、新聞配達、新聞売り子、印刷製本、職工、諸官庁の雇・書記等の仕事が向いていました。
諸官庁の雇・書記は、安月給でしたが、定時上がりという魅力がありました。
(画像をクリックすると拡大します。) |
(久米 幹男 氏 寄贈)