松代藩の知行取りの藩士の年貢額の帳簿です。給所(知行地)とは藩主から俸禄として与えられた土地のことで、その土地の年貢額は毎年藩が決定しました。史料に見える佐久間修理は、幕末の思想家・兵学家として知られた佐久間象山(1811-1864)です。
沽券図は、江戸時代に無税だった宅地に課税するため作成された絵図です。宅地の面積と所有者が記載され、まだ地価は付けられていません。明治8年に沽券税は地価の3%に引き上げられ、新たに査定された地価に課税されました。一身田村は三重県津市内の村です。
専修寺は真宗高田派の本山で、三重県津市一身田町にある寺院です。大正から昭和にかけて発行された、同寺の本堂・唐門・山門です。
一身田村地租上納帳です。古くから専修寺の寺内町として栄えてきた同村の町屋にも、明治6年から1%の地租が課税されました。
明治9年に施行された煙草税には、煙草営業税(卸売及び小売の各段階)と売渡価格に応じた製造煙草印紙税の2種類がありました。三潴(みつま)県が作成した煙草税則一覧表には規則のほか、印紙の貼付方法が図で説明されています。三潴県は、現在の長崎県と福岡県の一部を管轄した県です。当時の煙草税は、同29年の葉煙草専売法で廃止されました。
岐阜県武儀(むぎ)郡役所が、煙草小売人に発行した仕入鑑札です。仕入鑑札は、煙草営業免許を持つ小売人に交付されました。仕入鑑札料は10銭で、煙草の仕入には必ず携行すると定められています。
税収確保のため、当時から、たばこの販売には規制がかけられていました。
京都税務管理局が発行した煙草小売営業免許鑑札です。明治29年の営業税法により煙草営業税は廃止されました。そこで、同31年の葉煙草専売法施行までの間に製造された煙草の販売には、このような小売営業免許鑑札が必要でした。
明治15年の煙草税則改正(翌年施行)で、営業人は製造・仲買・小売の3種とされ、それぞれ営業税と鑑札料を納付することになりました。製造煙草税は価格と量に応じて煙草印紙を貼用・消印することになりましたが、帯型印紙は無印紙や再利用による脱税が多く、同21年に廃止されました。
刻みたばこ用の束作は、消印した帯印紙の再利用が容易で、脱税防止に苦慮しました。
包装紙の封緘部分に煙草印紙が貼用された紙巻煙草です。「凱旋」の文字があるので、日清戦争直後のものと考えられます。
東京府下で販売された洋酒の定価表と思われます。蜂印葡萄酒や桐印葡萄酒は、アルコールや香料等を添加した飲料で、混成酒税法により課税されました。ビールは、キリン、エビス、東京及び札幌の4種類で、ビールには明治34年から麦酒税が課税されます。
(キリン株式会社、サッポロビール株式会社 提供) |
明治20から30年代にかけて、日本のビール業は個人経営から大資本による企業経営へと転換していきました。明治39年 には、札幌麦酒と日本麦酒、それに大阪麦酒(旭ビール)の3社が合同して、大日本麦酒(株)が誕生します。
明治10年に公布された売薬規則に売薬営業税がありました。薬の販売等には営業・請売・行商それぞれに鑑札があり、鑑札の表面には販売する薬名、裏面には営業人名が記されています。同16年から、薬の価格に応じた売薬印紙を貼付するようになります。
薬の行商を行うための鑑札の発行を申請したもので、岡山県窪屋郡長に提出されたものです。鑑札については、明治14年の売薬規則の改正により府県が許可することになりました。
売薬印紙は明治31年に廃止され、これ以降は収入印紙に統一されます。陀羅尼助(だらにすけ)は奈良県天川村洞川(天川村)、万金丹は三重県四郷村朝熊(伊勢市)で製造された薬です。売薬の需要が多かったことから、負担軽減のため売薬税は大正15年に廃止されました。
江戸時代に庶民の間で流行した番付は、明治以後に引き継がれ、地価や所得金額、営業金額等をもとにした番付類が発行されます。紳士録などにも各種の納税額が記載されています。
戦後の申告納税制度のもとでは、シャウプ勧告により高額納税者が公示されましたが、個人情報の保護等を理由に、平成18年に廃止されました。
明治13年の長者番付です。持丸とは金持ちのことで、相撲の番付表のような形式になっており、大関として岩崎弥太郎や五代友厚の名前があります。中央は、この時期に各地で創立された国立銀行の一覧です。これらの銀行は、明治15年の日本銀行設立により普通銀行に転換していきました。
○持とは金持ちのことです。明治23年の最初の貴族院議員及び衆議院議員に、海防献金者を加えたものです。海防献金とは、明治20年の明治天皇の海防費下賜を契機に、全国に広がった献金運動で、献金額千円以上が許可されました。
地租や所得税・営業税の多額納税者の一覧です。欄外に、各税の納税額から、田地の所有高、所得額、営業の取引額等を推計する計算法が記されています。
発行者が売上げを増やすため、いろいろな番付表を工夫して作ったものと思われます。
講談社発行の大衆文芸雑誌『講談倶楽部』新年号の附録です。金満家大番付は、昭和4年の附録が初めてで、展示した分と併せて3回刊行されています。金満家大番付は帝国興信所、全国多額納税者一覧は東京尚文社の調査によるものです。
八瀬天満宮社境内(京都市左京区)に建てられた記念碑の拓本です。八瀬村は、延元元年(1336)に足利尊氏に追われた後醍醐天皇を京都から比叡山まで輿を担いで守ったことから、租税免除となったという由緒を持つ村です。地租改正後、岩倉具視の計らいで宮内省から下賜金(かしきん)があり、八瀬村の租税免除は実質的に維持されました。
この木札は、明治32年分の所得金高届の申告済証です。裏面には、「明治丗一年第三月吉日 益々盛大を祈る 宮田姓 所得税届済札板」と記されています。また、「この家の繁栄のしるし」という意味の記載もあり、所得税の納税が、家の繁栄を示すという意識がうかがえます。
雪国と暖国の生産性や諸負担などの比較図です。作成したのは、雪害救済運動の提唱者松岡俊三が設立した「雪の日本社」です。雪害とは、大雪による例外的な被害ではなく、雪国での生活面の諸負担を指し、その負担軽減のため産業や土木・教育の助成、税の特別措置などの幅広い対策を訴えました。当時の雪国の負担の深刻さが伝わってきます。
主税局は所得税や営業収益税の取扱通牒で、営業兼用の場合の除雪費の必要経費の算入方法について指示しています。
著者の松岡俊三は、昭和元年の山形旅行中に肺炎を発症し、連日降りしきる雪を病床で眺めながら雪の恐ろしさを痛感し、雪害救済運動を提唱するに至ったと記しています。「正道会」は雪害救済を目的とする団体で、雪国の地租軽減等を要求しています。
昭和17年の広告税導入に際して、花王石鹸(現・花王株式会社)が小売店に、看板やポスターへの印紙貼付を依頼した文書です。広告税は広告主に課税するもので、印紙代だけでなく撤去費用も花王が負担するとしています。ただ、店名が記されている看板は非課税なので、撤去するかどうかは小売店に任せていました。
鈴木食料工業(現・味の素株式会社)が取引先に宛てた看板の取り外し依頼状です。広告に対する広告税の申告は広告主が行う必要があることから、同社は調査の困難を理由に愛着ある看板を撤去することにしました。その際、取り外した看板等は、クズ鉄として献鉄するよう付け加えています。
昭和13年の支那事変特別税法により、演劇や映画等の入場料に入場税が課税されました。その後、昭和15年に入場税法となり、同23年に地方税法に移管され、同29年に再び国税となりました。入場税は平成元年の消費税導入により廃止されました。
五代目桂文枝(1930-2005)が、小文枝時代に使用した下足札を模した独演会の入場券です。「税務署から、板には直接検印できないと断られ、急遽、紙の入場券を裏面に貼り付けた」と本人が回顧しています。指定席券や特殊な印刷などの特別入場券には、税務署長の検印が必要でした。
佐賀県武雄税務署管内の写真業組合の納税組合規約です。帳簿や申告書作成の指導、税金の一括納付などを目的に設立されました。特別行為税については、同業組合等による納税協力が奨励され、徴税補助団体として交付金が交付されました。
特別行為税は、昭和18年から同21年まで、写真撮影や現像、理容、印刷、衣服の仕立て等に課税された税金です。最初の税率は料金の20から30%で、毎月営業の種類ごとに申告し、翌月に納付しました。
農村不況により府県財政は悪化し、栃木県でも前年分の県税未納額は100万円以上に上りました。土木事業や職員の給料にも不足する事態となったため、栃木県は県税検査員を増員して滞納処分の促進を図るなど、歳入の増加に努めています。
戦前のポスターとしては保存状態が大変良く、貴重な史料です。
苦情相談所は、納税者に対する税務職員の態度や取扱い等の改善を目的に、昭和24年8月に国税庁に設置され、翌年には各国税局に支所が設置されます。その後、苦情から一般の税務相談へと相談内容が大きく変化したため、同36年に税務相談所と改称されました。
NHKのラジオ番組「私たちの言葉」に寄せられた投書から、税に関する不平や不満等を選び、国税庁の回答を付けて刊行したものです。当時、最も多い投書内容は税関係で、苦情相談所開設の趣旨に則り、放送で取り上げられなかった投書にも回答しています。
協力機関一覧
本展示の開催にあたり、下記の機関の御協力をいただきました。厚く御礼申し上げます。
味の素株式会社
花王株式会社 花王ミュージアム・資料室
キリン株式会社
サッポロビール株式会社 ビール文化広報室
真田宝物館
たばこと塩の博物館