平成二十一年十二月に刊行した租税史料叢書第四巻『酒税関係史料集T』は、明治時代の酒税および酒税の執行を中心とする関係史料を収録した。同巻が明らかにした成果などを駆使して、税務大学校税務情報センター租税史料室の平成二十一年度特別展示は『明治の酒税』を実施した。明治期の酒税の位置づけ、税源の涵養、間税職員による酒税の執行ぶりなどに関する見学者の意見は大方が好評で、酒税史料集を刊行する意義のひとつは果たせたのではないかと自負している。
ところで、租税史料叢書第五巻は、前巻に引続き『酒税関係史料集』として、大正時代から昭和終戦直後、すなわち昭和二十四年六月の国税庁発足頃までの範囲で酒税関係史料を収録した。それに附録一として明治初期から昭和二十四年までのおよそ八〇年間にわたる酒税・納期などと酒税執行機関の改正沿革、附録二として同期間の府県別酒類統計を収録した。附録一は酒税及び酒税執行機関の変遷を概観できるし、附録二は酒税・酒造などについて地域的な相違と変化が概観できる力作ではないかと、自負している。
明治二十九年(一八九六)三月制定の酒造税法は四五年の長きにわたり実施されたが、昭和十五年(一九四〇)三月制定の酒税法(史料1)により廃止された。
酒税法は税制の簡易化を図るため、従来の酒造税法、
酒精及び酒精含有飲料税法、
麦酒税法、
酒母、醪及び麹取締法、
工業用酒精酒類その他酒精含有飲料戻税法、
明治三十四年法律第一〇号酒精、酒類、その他酒精含有飲料輸出下戻金に関する件、
明治四十一年法律第二四号沖縄県及び東京府小笠原島、伊豆七島における酒造税に関する件、
明治四十三年法律第六号酒精造石税徴収猶予及び免除に関する件、
支那事変特別税法中酒類の物品税に関する規定、
臨時租税増徴法中酒税に関する規定、などの各種酒税法令を整理集約し、単一法規に纏めた法令である。
また、酒税法は酒類造石税に加えて酒類庫出税を採用した。庫出税は明治三十六年に「目賀田蔵出税法案」として導入が試みられたが、日露戦費調達のため非常特別税法を優先させる必要から、同案は三十七年議会未提出に終った。「目賀田蔵出税法案」の概要は、『租税史料叢書 第四巻 酒税関係史料T』に登載した「蔵出課税主義採用の件」により知ることができる。
庫出課税は最初、昭和十三年三月制定の支那事変特別税法に導入された。同法により酒類は物品税として製造場から移出するとき、または保税地域から引取るときの庫出高(移出高)に課税することになったが、これを昭和十五年酒税法の制定に際し、「消費税の性質からいって、消費に接近したところで課税するとすれば、造石税よりは庫出税のほうが望ましい」(松隈秀雄『私の回想録』一九八二年)という見地から、酒税法に統合したのである。その際、酒類蔵出税と酒類造石税と併用したわけは、酒類業界に与える影響に配慮して、漸進的に庫出課税に移行する措置とするためであった。
昭和十八年四月からは、酒税法に酒税の級別課税を導入した。これは酒類の品質に応じ一級から数級の等差を設け、各級に応分の税率を配分して、等差に準じた応分な酒税負担額を設定する制度であり、これにより酒類庫出税を増徴した。
なお、酒類の級別課税制度は四十五年後の昭和六十三年十二月に廃止され、酒類の課税は従量税率による課税に移行した。
昭和十九年四月、課税方法の簡素化を図るため酒類造石税を廃止し、酒税は庫出税に一本化された。
政府は昭和十六年七月、「財政金融基本方策要綱」を決定、戦費の膨脹に応じて「国民各層が負担を分担する如く、税種の新設及び改廃を為し、又税率を改定する」として、必要な税制改正を行って、増収を確保する方針を明白にした(大蔵省昭和財政史編集室『昭和財政史』第五巻 一九五七年)。税収確保策としての税制改正は酒税も例外ではなく、増徴が繰り返し行われた。昭和十五年酒税法の制定時から同二十八年酒税法大改正の時期にかけて、酒類のうち清酒に限りその増徴ぶりを整理すると、次のようになる。税率は一石当り。
(改正施行年次) | (税種) | (税率) | |||
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昭和十五年四月一日 | 造石税 | 四五円 | ||
庫出税 | 二五円 | ||||
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〃十六年十二月一日 | 造石税 | 四五円 | ||
庫出税 | 五五円 | ||||
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〃十八年四月一日 | 造石税 | 四五円 | ||
庫出税 | 一級 | 四七〇円 | |||
二級 | 二九五円 | ||||
三級 | 一六五円 | ||||
四級 | 一五五円 | ||||
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〃十九年四月一日 | 酒税 | 一級 | 九九五円 | |
二級 | 六二〇円 | ||||
三級 | 三四〇円 | ||||
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〃二十年四月一日 | 酒税 | 一級 | 一二四五円 | |
二級 | 五八五円 | ||||
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〃二十一年九月一日 | 酒税 | 一級 | 二七五〇円 | |
二級 | 一九一〇円 | ||||
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〃二十二年四月一日 | 酒税 | 一級 | 八八三〇円 | |
二級 | 六四〇〇円 | ||||
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〃二十二年十二月一日 | 酒税 | 一級 | 一万九八〇〇円 | |
二級 | 一万五三五〇円 | ||||
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〃二十三年七月七日 | 酒税 | 一級 | 三万三〇〇〇円 | |
二級 | 二万四五〇〇円 | ||||
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〃二十四年五月六日 | 酒税 | 特級 | 三万五四〇〇円 | |
一級 | 二万五七〇〇円 | ||||
二級 | 一万八〇〇〇円 | ||||
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〃二十五年四月一日 | 酒税 | 特級 | 四万一一〇〇円 | |
一級 | 三万五〇〇〇円 | ||||
二級 | 二万二六〇〇円 | ||||
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〃二十五年十二月一日 | 酒税 | 特級 | 三万五〇〇〇円 | |
一級 | 三万円 | ||||
二級 | 二万二三〇〇円 | ||||
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〃二十八年三月一日 | 酒税 | 特級 | 六万二五〇〇円 | |
一級 | 四万六五〇〇円 | ||||
二級 | 二万二五〇〇円 |
しかし、終戦後の増徴は悪性インフレに対処することに主眼があったことから、酒造業界などの酒税増徴反対などは一切なく(酒造組合中央会沿革史編集室『酒造組合中央会沿革史』第三編 一九七四年)、酒税の価格転嫁は極めて容易に行われた。
昭和二十四年以降、悪性インフレも終息に向かい、食糧事情も好転し始め、酒の生産や販売の統制も緩和されるようになったが、一方で、極端な酒不足から販売目的の密造酒が横行した。これらに対処するため、昭和二十五年、ついで同二十八年、酒税は大幅に減税されることになった。
従来、内国税の執行機関は中央の大蔵省主税局を頂点として地方に税務監督局と税務署を配置する機構組織であった。この地方の執行組織を利用して、大正十一年四月からは国有財産管理事務、昭和七年十一月からは預金部資金の運用及び経理事務を実施し、さらに昭和十四年十月からは、会社職員給与臨時措置令、翌十五年十月からは会社経理統制令などによる統制事務も加わった。
昭和十六年七月、財務局官制を制定(史料2)、税務監督局は財務局と改称され、預金部資金局支部を廃止してこれを合併し、さらに金融をも併せて行う地方組織としたのである(大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史』財政機関)。
財務局の下部組織として税務署と出張所を置き、税務署は従来の内国税事務を執り行い、出張所は国有財産管理、会社経理統制、預金部資金の運用及び経理の事務を受け持った。しかし、出張所は独立の役所があった訳ではなく、税務署の建物のなかに置かれ、所長は税務署長の兼務であった。
昭和二十二年、所得税に申告納税制度を導入し、事務量の増加から税務職員の増員や税務署の増設が相次いだ。昭和二十四年六月一日発足の国税庁は(史料3)、その発足理由を「申告納税制度を支え、全国統一的な税務行政を推進していくことは困難な状況にあり、高い道徳心と専門的知識を持つ職員を備えた専門的な税務機構の確立が望まれ」たことにあると指摘している(国税庁『目で見る税務署百年史』)。
国税庁は内国税を賦課徴収することを主たる任務とし、全国に東京(東京都)、関東信越(東京都)、大阪(大阪市)、札幌(札幌市)、仙台(仙台市)、名古屋(名古屋市)、金沢(金沢市)、広島(広島市)、高松(高松市)、福岡(福岡市)、熊本(熊本市)の十一局と、四九七署の陣容で発足した(史料4)。
こうした組織体系の下で、酒税は国税庁間税部酒税課、国税局間税部酒税課、税務署間税課に属する税務職員により執行されることになった。
明治三十三年(一九〇〇)二月に導入された間税職員の服制は同四十五年一月に改正され、従来の「背広式」(ダブル型)から「詰襟式」(シングル型)に変わった(史料5)。旧式は明治四十五年末まで着用を認めたが、同年七月三十日、明治天皇の崩御により大正と改元されたことに伴い、大正元年末まで着用容認となった。
この服制も大正十四年四月には廃止された(史料8)。服制廃止の背景には、大正デモクラシーの影響により、大正十二年には税務監督局に税務相談部が開設されるなど民衆に開かれた税務行政が実施されるようになり、間税職員の制服がデモクラシー的風潮に相応しくなくなった事情が伏在していた。
農村における酒類の自醸自飲という風習は江戸時代に始まるが、明治期に入ると酒類製造業には酒税法令により免許制度が導入され、酒税が課税されることになった。自醸自飲の酒類も自家用料酒税法により一定の造石数、納税などを条件に許されていたが、日清戦争後は戦後経営の財源を確保するため、酒税も増徴することになり、明治三十二年、自家用料酒税法は廃止、自家用料酒の製造も禁止した。そのため無免許による酒類の醸造は酒税法令の犯則行為となり、密造は取り締りの対象となった。日露戦争及び戦後の国家財政はさらに膨脹したため、酒税も相次いで増徴され、酒類の密造取り締りも一層厳重に執行されるようになった。
酒類密造の矯正については、明治四十三年春、丸亀税務監督局管内における高知県下の事例が最初である、と指摘されている(仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』一九二〇年)。本稿ではこの高知県下密造矯正事業に関わると考えられる明治四十三年「高知県下密造酒取締規程」と、その改正規程である大正二年「高知県下密造酒取締規程」を収録した(史料6)。
昭和戦後は食糧事情の悪化に伴う酒類の供給不足、インフレや酒税増徴による酒類価格の高騰、社会的混乱や国民道義の低下などにより、販売を目的とした大掛かりな密造が激増し、まれにみる酒類密造時代が到来した(国税庁『国税庁五十年史』二〇〇〇年)。密造の取締りも警察の協力を得て周到な計画に基づき執行されるようになったが、戦後の民主化政策のもとでは、酒類関係機関の協力を得て密造対策も民主的に行われるようになった。本稿では、「酒類密造対策協議会設置の件」(史料12)を収録した。
口絵の「密造酒対策宣伝紙芝居(お神輿)」は、昭和二十四に創設された国税庁の広報課が翌二十五年頃、密造対策協議会の活動の一環として、密造対策の宣伝とするために作成したものである。
酒類業者の犯則行為は、酒類生産の実際と諸帳簿との突合により発見される場合が圧倒的である(史料7)。帳簿の記載方指導は犯則行為を未然に防止することを目的としたが、大正期における納税者に開かれた税務行政の一環に位置づけられる施策でもあった。
織物消費税では大正八年四月から徴税上必要な設備を設けるなどの織物組合に対し交付金の制度を導入して、官民共に便宜を得ていたが、全国酒造組合連合会でも酒造組合に同様な便宜を得るためとして、大正十四年十一月、政府に「酒造組合に交付金交付方」を陳情した。
大正十四年から十五年にかけての第五一回帝国議会では、「酒造組合に対し徴税上必要なる設備又は補助を為さしむることを条件として、一定の交付金を交付するの制度を設くること。此の制度は既に織物消費税に就き之を実行し、徴税上官民共に頗る便宜を得つつあるのみならず、一面酒造組合の健全なる発達を助長し、醸造業の進歩改善上相当の効果あるべきを以て、酒造税法の改正を機として之を設くることと為したり。而して右交付金の額は命令を以て定むることと為し、当該酒造組合員の製造に係る酒類一石に付十銭を交付するの予定なり」(『酒造組合中央会沿革史』第二編)という法律案要綱に基づき、貴衆両院で審議が行われた。
大正十五年三月二十七日に成立した法律第十四号では酒造税法中を次の通り改正し、「第三十五条ノ三 政府ハ酒造組合法ニ依リ設立シタル酒造組合ニ対シ徴税上必要ナル設備ヲ為シ又ハ徴収事務ノ補助ヲ為スヘキコトヲ命スルコトヲ得、前項ノ酒造組合ニ対シテハ命令ノ定ムル所ニ依リ交付金ヲ交付スルコトヲ得」として、酒造組合交付金制度を創設した。交付金額は同年三月三十一日勅令第三十二号により、税務署長が「毎酒造年度間ニ於テ所属組合員ノ製造酒類中造石数ヲ査定シタル酒類ノ査定石数(滓引減量又ハ貯蔵減量ヲ控除シタルモノ)十石ニ付一円ノ割合ヲ以テ計算シタル金額」(『法令全書』)を定める、と規定された。
本稿では、交付金制度の導入を知らせる通達(史料9)、翌昭和二年における東京税務監督局管内の「酒造組合交付金ノ利用状況」(史料10)を収録し、交付金の各酒造組合における具体的な使い途を見ることにした。
昭和二年の金融恐慌、昭和五年末に始まる昭和恐慌は酒造業界、酒類販売業界を直撃し、長引く不況のために経営難に陥る業者が続出した。
不況下の危機的な状況を打開するため、酒造組合中央会(昭和四年設立)や地方の酒造組合では、昭和十年頃から、政府に対し酒造組合法に酒類の生産統制に関する規定を設けるよう請願や陳情を繰り返し行った。
また、昭和十年からは長野県の松本税務署管内で酒類販売価格の自主的な統制が実施され、翌十一年には県下一円に広がった。さらに統制に統一性を持たせるため酒造業者と酒類販売業者が一体となって税務署単位の販売組合を組織する動きも顕著となり、昭和十二年には名古屋税務監督局管内の長野・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多数結成され、それは県単位連合会の設立、中部六県酒類販売統制組合連合会の設置を計画するまでに発展した(史料13)。
このような請願・陳情や自主的な統制が強まるなか、昭和十二年七月の日中開戦直後、酒造組合法が改正され、酒造業界は、酒造組合中央会―府県酒造組合連合会―酒造組合(一税務署ないし数税務署単位で設立)という組織系統のなかで、酒造組合中央会が各酒造年度の統制計画を樹立し、大蔵大臣の認可を受け、かつ税務監督局長(昭和十六年からは財務局長)及び税務署長の指示のもと、生産統制が実施できるようになったのである。
本稿では、昭和十二酒造年度(史料14)、同十三酒造年度(史料15)、同十四酒造年度(史料16)、同14酒造年度改正(史料17)、同十五酒造年度(史料19)、同十六酒造年度(史料25)、同十七酒造年度(史料26)、同十八酒造年度(史料30)、同十九酒造年度(史料33)、同二十酒造年度(史料37)の生産統制、統制方針などを収録した。
昭和十八年には酒造組合法を酒類業団体法に改め、酒類販売業者にも酒販組合が設立できるようにした上で、政府が酒造組合・酒販組合に介入して、生産と販売を直接統制できるよう強化を図った。この改正は、酒類企業の転廃業を実施し、余剰設備を戦力増強のために転用する企業整備に備えた措置であった(『酒造組合中央会沿革史』第三編)。
ところで、生産統制初年の昭和十二酒造年度は、昭和十一酒造年度における各組合員の実績生産石数を基準とし、これに減醸率を算当して求めた「生産石数」を各組合員に割り当てた。十三酒造年度以降は、十一酒造年度の実績生産石数を「基本石数」と称することとし、これを累年の生産統制石数の基準としたのである。
次いで昭和十五酒造年度からは、戦時食糧確保の見地により酒米を制限することになり、酒類の生産統制は原料米(玄米)を各組合員に割当てる方式に切り替えた。十五酒造年度の原料米割り当て数量は、各組合員に割り当てる全量の五割を十四酒造年度の原料米使用実績比により、残りの五割を十五酒造年度の生産配分石数比により、算出した。累年の割り当て数量は十五酒造年度の数量を基準とし、これに減醸率を算当して求めたのである。
次に示すのは昭和十二酒造年度から二十七酒造年度における清酒の統制石数で、十四酒造年度までは生産石数、十五年度からは原料米石数である(『酒造組合中央会沿革史』第三編)。
(酒造年度) | (統制数) |
昭和十二酒造年度 | 四二八万一五五九石 |
昭和十三酒造年度 | 三七九万五七八八石 |
昭和十四酒造年度 | 二二八万九九一九石 |
昭和十五酒造年度 | 二〇〇万石 |
昭和十六酒造年度 | 一五九万二三二二石 |
昭和十七酒造年度 | 一二六万二三三三石 |
昭和十八酒造年度 | 七九万六一七五石 |
昭和十九酒造年度 | 八〇万七〇五五石 |
昭和二十酒造年度 | 六二万七七一七石 |
昭和二十一酒造年度 | 六二万六二九五石 |
昭和二十二酒造年度 | 三二万三九九〇石 |
昭和二十三酒造年度 | 四一万九四五六石 |
昭和二十四酒造年度 | 四六万六七七六石 |
昭和二十五酒造年度 | 五七万五三四三石 |
昭和二十六酒造年度 | 七一万八〇〇〇石 |
昭和二十七酒造年度 | 九〇万六五四〇石 |
昭和十四酒造年度の清酒生産石数の極端な落ち込みは、西日本を中心とする干害のため、酒米の使用量を大幅に削減、前年の三七五万石から一七五万石減じて二〇〇万石とした結果である。四割八分減というまさに半減であった。十五酒造年度からは原料米統制に切り替るが、同酒造年度の割当数二〇〇万石は、前年度数の踏襲であった。
昭和十六年十二月、太平洋戦争に突入、緒戦の優勢は短期間におわり、戦局の悪化にともない、主要食糧の米不足が顕在化、台湾米の移入、満州からのキビ・高粱・トウモロコシなど代用穀物の輸入をもってしても、その解消は困難を極めた。当然、酒米も使用制限が強化され、その苛烈さは十五酒造年度二〇〇万石が二十酒造年度六二万石あまりと、三分の一強もの激減によく示されている。深刻な酒不足時代の到来である
昭和二十年八月十五日の終戦により、日本は連合国軍総司令部の占領下に入った。総司令部の指令により、政府は私的独占の禁止、経済の民主化を加速させるため、昭和二十二年四月、独占禁止法を制定した。制定前の同年一月には酒造組合中央会を閉鎖機関に指定して活動を止め、三月には酒類業団体法を酒類業組合法に改めて統制に関する諸規定を廃止、酒類の生産は国家統制に移行した。さらに同年七月、酒類業組合法を廃止したため酒類業組合は解散、急遽設立された日本酒造協会(後に社団法人日本酒造協会)が、独占禁止法に抵触しない範囲内で生産の統制行為を行うことになった(『酒造組合中央会沿革史』第三編)。
終戦後の極端な食糧不足のなかで、二十一酒造年度の原料米割当数は前年度並みに落ち着いたものの、国家統制に移行後の二十二酒造年度は統制史上で最低を記録した。これには朝鮮・台湾・満州など食糧供給地の喪失、復員や引上げによる人口膨張という諸事情があった。二十三酒造年度は国内産米の豊作など食糧事情に好転のきざしがみえたためおよそ一〇万石増の四一万石あまり、二十四酒造年度ではさらに食糧事情が好転したため漸増し、割当数は四六万石あまりとなった。二十五酒造年度以降も割 当数は確実に拡大し、清酒の生産数量も緩和されていった。
なお、清酒用原料米の割当制度は食糧管理制度が根本的に改正されて自主流通米制度に移行したため、導入から三十年後の昭和四十五年三月、廃止された。
昭和十一年十一月に提出された酒造税法改正案では、酒類販売業者に免許制度を導入することを決め、昭和十二年度からの実施を明らかにしたが、翌十二年の第七〇再開議会は「腹切り問答」で広田内閣が倒閣したため廃案となり、同年度からの実施は見送られた。免許制度の導入理由は、信用力のない小売業者の乱立で多数の競争倒れが発生し、醸造業の経営にも波及して酒税の転嫁が不能となり、酒税確保に支障を来たすことが多く、密造あるいは不正品の混入などで不当利益をえる悪徳業者の多発など、販売面の弊害除去にあった、とされる(東京小売酒販組合『東京小売酒販組合四十年史』一九六三年)。
昭和十三年三月、「酒税の保全を期する為」(大蔵省主税局調査課編『昭和の税制改正』一九五二年)、酒造税法などを改正し、酒類の販売業(仲介業も含む)を営まんとする者は政府の免許を受ける、
酒類製造場での販売業は含まない、
免許は販売場一か所ごとに受ける、
免許を受けないで酒類の販売業を営んだ者は五〇〇円以下の罰金に処す、
二年以上引続き酒類を販売しない者に対しては酒類販売業の免許を取り消すことができる、など酒類販売業免許制度に関する規定を定め、十三年四月一日から実施に移した。酒類の製造免許制度に加えてこの酒類の販売免許制度により、大蔵省は生産から販売に至る強力な統制力を得ることになったのである。昭和十四年三月、商工省告示第四八号をもって、政府は清酒ほか十二品目を物品販売価格取締規則(昭和十三年商工省令五六号)の指定物品とし、これら物品は三月四日現在の販売価格に固定した。これがいわゆる三・四価格で、清酒価格統制の始まりである。ついで三月三十日、清酒物品税が一石につき五円から十円に増徴されたため、商工省告示第七〇号により、四月一日から清酒は三・四価格に物品税の増徴分を積み増す価格と定めた。
昭和十四年十月、国家総動員法(昭和十三年勅令第七〇三号)に基づき、価格・運送賃・保管料・損害保険料・賃貸料または加工賃、これらを価格等とし、価格等は昭和十四年九月十八日の価額を超えて契約・支払・受領することはできないという、価格等統制令を公布した。これがいわゆる九・一八価格で、一部の例外を除き、一般の商品は九・一八価格に固定し、これを公定価格としたのである。
価格等統制令の発令により、物品販売価格取締規則は廃止、酒類価格統制の所管は商工省と大蔵省の共管となったが、清酒は依然、昭和十四年商工省告示第七〇号の価格に据え置き、焼酎・味淋・その他は九・一八価格に据え置いた。昭和十四年十二月、東京税務監督局長は「販売価格ハ公定価格若クハ九・一八価格ヲ厳守スルコト」(史料18)として、各税務署長に対し販売業者の公定価格厳守を特に注意している。
九・一八価格は日付を基準とする価格停止令であったところから、酒価さえ守れば酒質など問題ではないとばかりに、金魚もスイスイ泳げるほどアルコール分の低い悪質な「水酒」などが出回るようになり、大きな社会問題に発展した。
水酒問題に対処するため、昭和十五年四月、商工省・大蔵省告示第一号により、清酒・合成清酒・焼酎・味淋の公定価格を改訂し、昭和十四年商工省告示第七〇号を廃止した。清酒については、大消費圏である東京市場および大阪市場別に、代表的な銘柄を選定し、卸売価格・小売価格別に、その標準最高販売価格を公定価格に設定する、いわゆる銘柄列記主義を廃し、酒質の「アルコール分」と「エキス分」の規格によって上等酒・中等酒・並等酒の三等級に区分し、等級別に生産者販売価格・卸売価格・小売価格を定めこれを公定価格とする、いわゆる規格別三等級主義を採用、これを全国一律に適用することにした。これが酒類の本格的な価格統制の始まりである。酒質による価格設定方式の採用は、同年四月の酒税法施行に併せた措置であった(鈴木憲三「清酒配給統制に就て」『税』第一八巻第八号)。
酒類の公定価格はその後、実勢価格の騰貴、酒税増徴分の価格上乗せ、戦後のインフレ、原材料費や労賃の上昇などにより、公定価格は度重なる改訂をよぎなくされた。
次は清酒小売公定価格(一升当り)の推移である(『酒造組合中央会沿革史』第三編)。
なお、大蔵省と商工省、次いで農林省との共管であった公定価格は、昭和十八年四月一日以降、大蔵省単独の所管となり(史料27)、戦後は昭和二十一年九月から物価庁へ移管、同二十七年八月から再び大蔵省の所管となった。
(改正年月日) | (公定価格) | |||
昭和十五年十月二十二日 | 上等酒一円八五銭 | 並等酒一円六五銭 | ||
〃十六年十一月二十九日 | 上等酒二円一九銭 | 並等酒二円〇四銭 | ||
〃十八年四月一日 | 第一級七円 | 第二級五円 | 第三級三円五〇銭 | 第四級三円三〇銭 |
〃十九年三月三十一日 | 第一級一二円 | 第二級八円 | 第三級五円 | |
〃十九年十一月三十日 | 第一級一二円三〇銭 | 第二級八円三〇銭 | 第三級五円三〇銭 | |
〃二十年三月三十一日 | 第一級一五円 | 第二級八円 | ||
〃二十一年一月十八日 | 第一級一七円 | 第二級九円五〇銭 | ||
〃二十一年三月三日 | 第一級二三円 | 第二級一五円 | ||
〃二十一年九月一日 | 第一級四〇円 | 第二級三〇円 | ||
〃二十二年二月二十七日 | 第一級四三円 | 第二級三三円 | ||
〃二十二年三月三十一日 | 第一級一一九円 | 第二級八九円 | ||
〃二十二年八月二十七日 | 第一級一三二円 | 第二級一〇二円 | ||
〃二十二年十二月一日 | 第一級二五〇円 | 第二級二〇〇円 | ||
〃二十三年七月七日 | 第一級四五〇円 | 第二級三五〇円 | ||
〃二十四年五月六日 | 特級五五四円七九銭 | 第一級四四八円四六銭 | 第二級三四六円七五銭 | |
〃二十四年七月二十九日 | 特級一〇七二円六〇銭 | 第一級八五五円三一銭 | 第二級五九六円四〇銭 | |
〃二十五年一月一日 | 特級一〇八五円七二銭 | 第一級八六六円六七銭 | 第二級六〇九円五三銭 | |
〃二十五年四月一日 | 特級一一七五円 | 第一級九五〇円 | 第二級六四五円 | |
〃二十五年十二月十四日 | 特級九五〇円 | 第一級七五〇円 | 第二級四六〇円 | |
〃二十六年三月二十三日 | 特級九八〇円 | 第一級七七五円 | 第二級四八五円 | |
〃二十六年十二月六日 | 特級九八三円 | 第一級七七八円 | 第二級四八八円 | |
〃二十七年三月一日 | 特級一〇五〇円 | 第一級八三五円 | 第二級五三〇円 | |
〃二十八年二月二十八日 | 特級九八五円 | 第一級七八五円 | 第二級四八五円 | |
〃二十八年十二月十日 | 特級九八五円 | 第一級七八五円 | 第二級四八五円 |
なお、清酒の公定価格制度は昭和十五年の導入から二十年を経た昭和三十五年十月に廃止された。
昭和十四酒造年度の酒類生産統制はいわゆる酒造半減令の実施となり、当然、欠乏する酒類の適正な消費を促す配給統制が顕在化することになる。昭和十四年十月、大蔵省は「昭和十四酒造年度酒類生産統制並に配分方法の件」(史料17)において、「昭和十四酒造年度ニ於テ生産激減ノ結果販売数量ノ欠乏ト偏在ヲ調節シ関係業者ノ安定ヲ図ル為メ、既往三ヶ年以上継続シ堅実ナル販売取引ヲ為セル向ニ対シテハ其ノ三ヶ年平均数量ノ五割ヲ優先的ニ配給スルコト」とし、酒類販売数量の欠乏と偏在を調節するため、堅実なる販売業者には前三か年平均数量の五割を優先的に配給する酒造組合中央会の付帯決議を局署に発令した。同年十二月には「酒類配給等の件」(史料18)により、「製造者及販売業者ガ其ノ取引ヲ為スニ当リテ売惜若クハ買溜ヲ為シ、又ハ不当ナル価格ヲ以テスル等ノ虞モ有之」として、従来の取引系統を守り、過去の実績に応じて毎月の庫出数量を調節し売惜をさせないよう、局署に注意を促した。
酒類の配給統制が業者間取引の規制を中心とする段階から、消費者を直接相手とする段階に強化されるのは、昭和十六年後半に入ってからである。昭和十六年八月、大蔵省・農林省は「酒類配給機構整備の件」(史料20)で、「酒類配給機構整備案要綱」「地方酒類配給協議会内規」を公表、酒類の配給統制を会社方式によることとし、十一月一日からの実施を予告した。
両規則の概要は、次のとおり。
昭和十六年十月一日、中央に大日本酒類販売会社が設立され、同十一月一日までに各道府県の酒類販売会社も設立され、一元的な酒類の配給統制時代に突入していった。主に首都東京の家庭用酒と業務用酒の統制状況や推移を見るため、昭和十六年「東京市内清酒指定配給の件」(史料21)、同年「新機構による酒類配給実行方法の件」(史料22)、同年「接客業者に対する業務用酒配給方等の件」(史料23)、同年「十二月分及び一月分一般用清酒及び合成清酒配給方の件」(史料24)、昭和十八年「家庭用酒類の末端配給の件」(史料28)、同年「酒類販売業者配給受持世帯再登録等の件」(史料29)、昭和十九年「国民酒場開設準備事務の件」(史料31)、同年「国民酒場増設の件」(史料32)を収録した。
昭和十八年三月、明治三十八年制定の酒造組合法を酒類業団体法に改め、酒類販売業者に初めて酒販組合の設置を許し、酒販組合の目的を「酒類販売業ノ整備発達及統制運営ヲ図リ、且当該事業ニ関スル国策ノ遂行ニ協力スルコト」とした。また、道府県酒販組合連合会、全国酒販組合連合会、酒販組合中央会の設置も許し、酒販組合中央会傘下の連合会、組合員に統制を強制できるようにしたところから、配給統制は格段に強化された。
昭和十九年後半から次に示すように、局署の移転が相次いだ。移転の理由は、大都市では大部分が空襲のためと判断できる。アメリカ軍の空襲は十九年十一月下旬から本格化し、特に二十年三月以降、東京、大阪、名古屋を執拗に爆撃したが、その激しさは局署の移転事情からも窺える(附録一)。
(移転年月日) | (局署名) |
昭和十九年八月一日 | 名古屋局名古屋西署同局中川署 |
〃九月一日 | 東京局立川署 |
〃十月十五日 | 名古屋局 |
〃十月二十一日 | 熊本局那覇署 |
〃十一月十日 | 仙台局楯岡署 |
〃十一月十五日 | 東京局神田署 |
〃十二月二十五日 | 仙台局遠野署 |
昭和二十年一月二十七日 | 大阪局大阪福島署 |
〃二月二十日 | 名古屋局熱田署 |
〃二月二十六日 | 東京局同局麹町署 |
〃三月十日 | 仙台局平署 |
〃三月十三日 | 名古屋局名古屋中署同局熱田署 |
〃三月十四日 | 大阪局同局西署 同局北署 同局阿倍野署 同局港署 同局此花署 大阪局浪速署 同局西成署 |
〃三月十七日 | 東京局本所署 |
〃三月十八日 | 東京局麹町署 |
〃三月二十日 | 東京局亀戸署 |
〃三月二十四日 | 大阪局西成署 |
〃三月二十六日 | 東京局深川署 |
〃四月一日 | 名古屋局名古屋東署同局栄署 同局熱田署 同局中川署 |
〃四月十日 | 東京局豊島署 |
〃四月十四日 | 東京局荒川署 |
〃四月十六日 | 東京局川崎署同局蒲田署 大阪局浪速署 |
〃四月十七日 | 東京局仙台局久慈署 |
〃四月十九日 | 東京局足立署 |
〃五月一日 | 仙台局平署 |
〃五月七日 | 東京局横浜西署名古屋局浜松署 |
〃五月十二日 | 大阪局 |
〃五月二十七日 | 東京局渋谷署 |
〃五月三十日 | 東京局荏原署名古屋局名古屋西署 |
〃六月一日 | 東京局淀橋署 |
〃六月十八日 | 東京局向島署 |
昭和二十年四月、大蔵省は「酒類の防衛疎開の件」(史料34)を局署に通牒し、酒類防衛上必要の措置として分散貯蔵を容認して、空襲の被害を最小限に止めるよう指令した。次いで同年五月、「罹災酒類業団体員救護措置の件」(史料35)を通牒し、空襲被害を受けた酒類業団体員に対し諸種な救護指針を周知徹底させて、「決戦下ノ配給業務等完遂上支障ヲ来スガ如キコト」なきよう指導した。
終戦後は、進駐軍部隊が国内各地に駐留した。進駐軍部隊員のなかには、「直接酒造業者ニ対シ酒類ノ販売方ヲ要求スル向モ有之、斯クテハ之ヲ拒絶シ得ザル場合モ有之」と、酒造業者に困惑が広がったところから、昭和二十年十月、ごく少量ならば進駐軍部隊員に対し公定価格による酒類販売を許した(史料36)。
昭和二十二年三月、酒類業団体法は酒類業組合法に改められ、統制に関する諸規定を廃止したため、大日本酒類販売会社を中心とする配給は廃止、酒類の配給は国家統制に移行することになり、同年十二月、酒類配給公団法が制定された。酒類配給公団は、経済安定本部総務長官の定める割当計画及び配給手続に基づき、酒類の適正な配給に関する業務を行うことを目的とし、酒類製造者の酒類を一手に購入しこれを販売する機関であり、翌二十三年三月から業務を開始した。
これ以前の昭和二十二年七月、大蔵省は「家庭用酒の配給実蹟解消の件」(史料38)により、家庭用酒の配給解消を公表し、次いで同年八月には、「近く実施せられる酒類配給規則制定の準備のため」として、家庭用酒の自由登録制を実施に移した(史料39)。自由登録制とは、消費者が自由意思により自己の居住区域内において最適とする酒類小売業者を選定、これに消費する酒類の購入を予め登録(購入の予約)する制度で、予約をすることにより家庭用酒の購入を自由にしたのである。
昭和二十三年三月、大蔵省は「酒類配給規則」(史料40)を制定、消費者の自由登録制に小売業者の購入割当証明書による規制を加えて酒類の配給統制とし、酒類配給公団の業務開始に併せて実施する措置とした。
酒類配給規則では、酒類の小売業を営もうとする者は、小売店舗のある所轄税務署に申請し、営業の登録を受け、税務署長は登録を受けた者の小売店舗所在地、名称などを公表し、小売業者は登録番号、税務署長の指示事項などを店頭など見易い場所に表示し、小売業者は消費者から受け付けた予約券を所轄税務署に提出して購入割当証明書の交付を受け、この証明書により酒類配給公団から酒類を仕入れる、とした。
酒類配給公団は昭和二十四年六月に解散、僅か一年三か月の存続期間であった。酒類配給公団法では成立の当初から、公団の存続期間を一年としていた(法令文の誤植を指摘する『酒造組合中央会沿革史』第三編 五八三頁(注)参照)。存続期間を一年とした理由は、大日本酒類販売会社から酒類配給公団に移行したとはいえ、酒類の一手購入一手販売という独占的形態は全く同じであり、私的独占の禁止、経済民主化を推し進める占領軍の意向に相反するところから設けた、と考えられる。
酒類配給公団解散後の二十四年七月、大蔵省は酒類配給規則を全文改正し、家庭用酒類の配給及び小売業者の登録制を廃止、酒類の販売を自由とし、大蔵大臣の定める産業用、冠婚葬祭用などの用途に供する酒類のみ規制することになった。
大蔵大臣の定める用途酒は臨時物資需給調整法に基づくとされたが、昭和二十七年四月、同法が失効したため、酒類配給規則も廃止、配給酒はここに消滅した。
昭和二十六年九月、日本がサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結により占領を離れたのを機会に、政府は占領政策の見直しを始めた。大蔵省は昭和二十二年七月の酒類業組合法廃止以来、酒税の確保、酒造の改良、取引条件の規制など、酒類行政の対象となるべき酒類業団体を喪失したが、占領政策の見直しを好機として、昭和二十八年二月、第十五国会に「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律案」を提出、同案は二月二十八日、修正可決の上公布された。
同法では、酒税の保全のため酒類製造業者等が組合を設立して酒類の適切な需給調整を行うことができるとするともに、政府が酒類製造業者等に対し必要な措置を講ずることができるようにして、酒税の確保および酒類の取引の安定を図ることを目的とし、酒税法の規定により酒類の製造免許を受けた酒類製造業者、酒類の販売業免許を受けた酒類卸売業者または酒類小売業者は、酒税の保全に協力し、および共同の利益を増進するため、原則として、酒類の種類別、卸売小売別に、それぞれ酒造組合または酒販組合を組織できる、とした。ここに再び大蔵省は酒税の確保、酒造の改良、取引条件の規制などの酒類行政が可能となる酒類業団体法を成立させたのである。ここに戦時中、戦後と行われた酒類統制は完全に終止符をうち、民主的な酒類行政の行われる時代に移行したのである。
昭和酒税史に占める昭和十二年の日中開戦から同二十四年の国税庁発足頃まで実施された酒類統制は、解明を要する極めて重要な酒類行政である。本論叢では酒類の消費統制を解明する一端として、首都東京に関わる配給統制史料を多数収録した。そのなかには、家庭用酒の配給を行う小売店舗や配給実施日、配給方法などは、町会・隣組を通して購入希望者に連絡する、とある(史料21)。この町会・隣組と東京市について概略解説して、おわりにとしたい(東京都『東京百年史』第五巻 一九七二年)。
東京市における町内会の発足は、大正十二年(一九二三)九月一日に発生した関東大震災が契機となった。大震災の被害のなかで、被災町民が混乱や不安、生活苦を克服するために団結したところから、自然発生的に生まれた小自治組織である。昭和七年五月、東京市一五区と東京市を囲繞する荏原・豊多摩・北豊島・南葛飾・南足立の五郡下全町村が合併し、東京市三五区が誕生した。
昭和十二年七月、盧溝橋事件をきっかけとして日中は全面戦争に突入し、同年九月から国民を戦争に協力させる国民精神総動員運動が始まった。同年同月、東京市ではいち早く各町会に一二、三世帯を単位として隣組を設け、隣組長を選任、市長―区長―町会―隣組―世帯を通して、東京市民一三〇万世帯、六〇〇万人を統合できる自治実践組織を整備した。
国民精神総動員運動ではこの東京市自治実践組織をモデルとし、昭和十四年四月から、全国の町村に町会あるいは村会、そのもとに隣組を結成させ、町村のすみずみにまで運動事項を浸透させる組織づくりを進めた。
翌十五年九月、内務省は訓令第一七号で「部落会町内会等整備要綱」を布告、市町村の区域を分けて、市街地には町会、町制施行地では町内会、村落では部落会を組織して、市区町村の補助的な下部組織とし、町会と町内会、部落会のもとには一〇戸ほどの戸数で隣組を結成し、全戸を強制加入として、町会、町内会または部落会の隣保実行組織とし、さらに市町村長(東京市は区長)を中心に、町会長、部落会長、市町村内各種団体代表者からなる市町村常会を設置して、行政運営と町会部落会などの目的を達成する協議機関とする、とした。ここに、国民の生活統制を実践する隣保組織づくりが全国的に行われることになったのである。同年十月、大政翼賛会が成立すると、市町村常会―町会・町内会・部落会―隣組の国民生活統制組織は大政翼賛会の下部機関に位置づけられた。
昭和十六年五月、東京市は町会・隣組を介した家庭用酒の配給に着手した。配給事項は「回覧板」というかたちで、町会長―隣組長を介し、隣組員間を回覧して周知が徹底され、実行されることになった。
昭和十八年七月一日、東京市と北多摩・南多摩・西多摩の三郡下全市町村が合併、東京府域を確定域として東京都が成立した。都制制定の目的は、国家と首都東京の行政を一元化し、国防体制の強化を図ることにあった。
同十八年、地方制度の改正により、市町村長には町会・町内会・部落会の財産や経費の管理、区域の変更について必要な措置を講ずる権限を与え、さらには町会・町内会・部落会の長に市町村事務の一部を処理させることができるようにしたため、町会・町内会・部落会は市町村の末端行政機関となった。 終戦後の占領政策により、市町村の末端行政機関で国民の戦争協力や生活統制の組織であった町会・町内会・部落会―隣組の組織は時代に副わない点を指摘され、昭和二十二年一月、内務省は町会・町内会・部落会の廃止を宣言し、同年四月一日にこれらの組織は解散となった(高木鉦作『町内会廃止と新生活協同体の結成』東京大学出版会 二〇〇五年)。同年八月に家庭用酒の販売を自由登録制としたのには、家庭用酒の配給を可能としてきた町会・町内会・部落会―隣組の解散という背景があったのである。
(鈴木芳行)