浅草御蔵は、地租が金納となったのちは米廩(べい りん)、または米蔵と呼ばれ、明治11年(1878)、大蔵省の常平局が管理し、浅草御蔵の地に本局をおきました。常平局は大阪など全国の米蔵を掌握し、米価の調節など貯蓄米にかかわるすべての事務を行いました。
 浅草御蔵は、隅田川の西岸、神田川北側の一画に、南は現在の浅草柳橋2丁目より、北は浅草蔵前3丁目にかけて位置していました。敷地は、弘化年間(1844〜48)がもっとも広く、およそ3万6000坪で、南北が580メートル、東西が広いところで830メートル、狭いところで230メートルあり、この広さは、東京小石川の「東京ドーム」が2つ楽に入る計算になります。
 地租が金納となった後は、いち早く蒸気精米機を取り入れ、大規模に精米を行い、米蔵も40棟近くありましたが、明治末年には2、3棟となり、関東大震災で消滅しました。
 昭和31年(1956)10月に、浅草南部商工観光協会が江戸開都500年を記念して、「浅草御蔵跡」の記念碑を、浅草蔵前2丁目37番地に建立しました。

「浅草御蔵跡」記念碑

隅田川沿いの浅草御蔵

隅田川沿いの浅草御蔵(東江源鱗「墨水一覧」東京都公文書館所蔵)

 浅草御蔵は隅田川の左岸、浅草橋の北方一帯に展開していました。八つの堀割があり、年貢米は到着の順番に陸揚げされます。四番堀と五番掘の間に、現在は蔵前橋が架かっています。

「浅草御蔵絵図」

「浅草御蔵絵図」(江戸東京博物館所蔵)

地方落穂集1
地方落穂集2

地方落穂集 明治3年(1741)

 『地方落穂集』は、地方書の一つです。地方書には、江戸時代の地方制度にかかわる規則や、取締、慣例などが収録されています。
 『地方落穂集』の「巻之八」は、年貢米の輸送にかかわる巻で、米積船や船主、輸送方法、運賃などを詳細に伝えています。
 「巻之八」の「各所河岸(おのおの ところ か し)より浅草蔵前(あさ くさ くら まえ)まて運賃(うん ちん)の事(こと)」には、関東地方の年貢米が各地の河岸から、舟運により、浅草御蔵に納められたことが記されています。

御回米出船等留帳(覆刻)

御回米出船等留帳(覆刻) 享保17年(1732)

 原本は、金沢市玉川図書館近世史料館の加越能(か えつ のう)文庫にあり、加賀藩の藩政史料を、豊富に伝えています。「御回米出船等留帳」は、加賀藩領内から積み出される年貢米について、規則や慣例を書き留めています。
 加賀藩では、年貢米を敦賀に運んでから、大坂あるいは江戸に回送しました。難破船の対処法を定めた〔破損仕節所々御奉行支配(は そん つかまつる せつ ところ どころ ご ぶ ぎょう し はい)〕には、現在の石川県から富山県にかけて、主に能登半島の浦(港)うらが記され、海船で、浦伝いに年貢米を運んだことがよく分かります。