ここでは、年貢の納入、納入後の年貢の取扱いを取り上げます。納められた年貢は、村から領主の管轄に移り、年貢の運送や売却などは領主の手で実施されることになります。しかし、その一部で、村人たちが関わることがあったのです。
 年貢は、領主指定の蔵に納めるまでが村の責任でした(詰米)。年貢全体の3〜4割が金銭で納める年貢金(石代納)でしたが、その納入も領主に指定された受付窓口に納入するまでが村の責任でした。納入に際し、米・金ともに厳しい品質検査を受けたので、村は良質の米・金を用意する必要がありました。村人は、必要に応じて周辺の村々と協議し、相場を見ながら、不足分の年貢米を買い足し(買納)、年貢米を売却して年貢金を用意しました(石代納)。このように村人には、判断能力などが求められていたのです。
 年貢の納入に際し、村々の大きな負担になったのは、年貢米の輸送でした。基本的には城下町や港町に置かれた蔵まで輸送して納入しましたが、最も負担が重かったのは幕府領でした。原則的には、幕府領の年貢米は、江戸の浅草(東京都台東区)にあった御米蔵まで運んで納める必要がありました(廻米)。河村瑞賢が幕府の命令で整備した西廻海運、東廻海運は、出羽国(山形県)にあった幕府領の年貢米を江戸に廻米するための航路で、ともに酒田町(山形県酒田市)を起点としていました。
 出羽国では、俵詰された年貢米は村に近い郷蔵に納められ、翌春に酒田町まで運んで廻船に積み替え、酒田から出航しました。廻船は西に下り、関門海峡から瀬戸内海に入り、大坂を経由して江戸に向かいました。酒田から江戸までの年貢米の輸送は、最短でも半年、天候によって1年以上かかることもありました。江戸に到着すると、村の責任で輸送中の欠損分が補填され、米俵も詰め直して浅草御蔵に納められました。
 村々は、輸送費の大部分を負担するほか(海運は幕府負担)、実際の人馬や川船など業者も含めた輸送手段の手配、経費の立替や精算という実務全般を担当するとともに、選出された責任者二人が付き添い、江戸まで引率しました。
 このような年貢米輸送のほか、領主から様々な指示で各地に出張することも珍しくありませんでした。地元を離れた出先では、手紙以外の通信手段はなく、相談相手も少ないなかで、情報収集能力、交渉力、判断力、行動力などが求められ、臨機応変に対応していたのです。

文久3(1863)年8月 「相封手形」


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(渡部 清繁 氏 寄贈)

 これは、伊予国越智郡仁江村(愛媛県今治市)の村役人が今治藩(久松松平氏)に提出した誓約書です。仁江村は、瀬戸内海の大島にあり、海上交通の盛んな地域に位置していました。
 年貢米は、領主指定の蔵(この村では庄屋の蔵)に納入され、完了すると蔵は封印されました。一般的には、領主役人が封印したのですが、今治藩では村役人と相封の者が立ち会い、封印していたようです。そのため、このような誓約書を藩に提出していたと考えられます。
 相封の者は、年貢を納める期日には、早朝から庄屋宅に詰め、御米、縄、俵、内札(俵に入れる証明書)などを検査し、蔵に納めました。そして、藩の指示(差紙)があり次第、売却(御払)、御登米(藩の蔵に納入)、藩士俸禄分の売却の実務を担い、売却の際に撥ねられた米の数量を把握して藩に報告する必要がありました。また、相封の者は、私利私欲なく 務めることが求められ、藩の指示がない年貢米の売却は禁止されていました。年貢米の売却が全て終わると、売却の明細を勘定書にまとめ、藩に提出しました。
 今治藩では、村々が年貢米を蔵まで運んで納入するだけではなく、年貢米の売却にも深く関わっていました。

明治4(1871)年「年貢米の中札」


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(浜田 宏輔 氏 寄贈)

 これは、山形県が管下の羽前国村山郡の村々に廻達した布達です。時期は明治に入り、領主ではなく県が指示を出していますが、まだ地租改正の前なので、租税制度は江戸時代と大きな違いはありませんでした。租税の基本は年貢で、米俵に詰めた年貢米を県指定の蔵に納めていました。
 この布達では、年貢米の米俵に同封する中札(証明書)の雛形が明示され、必ず全ての米俵に中札を入れるように命じています。
 様式を見ると、米俵の容量を記すとともに、米主(納入者)、米見(品質検査責任者)、桝取(米の計量責任者)、名主(村の責任者)が署名捺印することになっています。この時期は、まだ村請制が健在で、年貢は村単位で納められていたので、署名を求められた各役割の人々は、同じ村民だったと考えられます。
 つまり、年貢米を俵に詰める際には、県の職員は立ち会わず、俵の検査自体も村人が行い、蔵詰の後に県の職員が(米俵に竹筒を挿す)サンプル検査を行っていたことになります。そのため、検査で問題が発見されたときのために、このような中札を必ず米俵に入れることを命じていたのです。

会津南山御蔵入の廻米

 概要

 福島県会津地方南部に「会津南山御蔵入」と呼ばれる幕府領がありました。この年貢米も江戸に輸送する時期があり、荷物の数量は、年貢米1000〜2500石と欠米(輸送中の欠損補填)が40〜100石でした。日数は、3〜4週間ぐらいかかり、必要経費は金250〜400両を要しました。これらの経費は、村の負担でした。
 仮に年貢米1800石の規模だったとすると、重量は300トンに達し、馬に載せると、駄数2000頭に相当し、膨大な規模になりました。それらの手配を村々が行い、江戸まで引率して行ったのです。

 経路

 陸奥国会津郡南部(福島県)の田島陣屋を出発し、日光方面に向かい、国境の峠を越え、下野国(栃木県)に入ります。東に進み、奥州街道の氏家宿にある上阿久津河岸まで陸送し、ここで川舟に積み替えました。
 上阿久津河岸は鬼怒川最上流の河岸として栄え、宇都宮藩などの下野国の諸藩のほか、陸奥国南部の白河藩、二本松藩、会津藩も廻米に利用しました。
 鬼怒川を南下して利根川に合流し、遡上して関宿で積み替え、江戸川を下り、行徳河岸で更に積み替え、墨田川に入り、浅草に至りました。

天保13(1842)年7月「田野口村の年貢皆済目録」


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(中條 武吉 氏 寄贈)

 信濃国佐久郡田野口村(長野県佐久市)は、奥殿藩(大給松平氏、愛知県)の信濃国佐久郡にあった飛地でした。これは、同村が納めた年貢の領収書です。年貢を完済したことが確認されると、このような正規の領収書が発給され、年貢を納めた証明として村で大切に保管されました。
 このような年貢皆済目録には、年貢をどのような形で、どこに納めたのか詳しい内訳が記載されていました。この領収書では、年貢自体は天保12年分ですが、翌年の天保13年7月に発給されています。年貢を納める場所が遠い場合、翌年の夏に皆済となりました。
 田野口村の年貢は、総計で米317.047石(約50トン)になりましたが、その3分の1を金納にすることが古くからの仕来り(定式)でした。残り3分の2の「津出し」(河岸まで陸送すること)が米納分です。
 年貢全体の18%が江戸に送られています。佐久郡から鰍澤河岸(山梨県南巨摩郡富士川町)まで馬で運び、富士川を高瀬舟で岩淵(静岡県富士市)まで下り、廻船で江戸に向かいました。
 そして、役所用と普請人足扶持の現地使用分、中山道松井田宿(群馬県安中市)送付分、現地換金分を除き、米納の残り40%は、改めて金納を命じられています。定式と合わせ、年貢の6割近くが金納になっていたのです。

安政5(1858)年1月9日「買替米の延納願書」


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(入間 幸補 氏 寄贈)

 これは、出羽国村山郡(山形県)の村々が、松前藩(松前氏、北海道)に提出した買替米の延納願書です。当地に所領を得た松前藩は、東根陣屋(山形県東根市)に年貢を金銭で納めさせ、その年貢金を村に預けて米を調達させ、酒田町(鶴岡藩、山形県酒田市)に置いた廻米役所に買替米を納めさせました。本領の蝦夷地では稲作ができなかった松前藩は、本州の所領から米を調達することを目指したのです。
 この願書によると、安政4年分の買替米のため、東根陣屋で資金を預かった惣代(代表)二人は、同年11月に酒田町に出役し、米の調達を始めました。しかし、他領の年貢米は流通しておらず、米の調達はできませんでした。情報を得て、新庄藩(戸沢氏、山形県新庄市)の年貢米を確保することを目指し、年末に同藩の御米掛役人に面談で交渉しましたが、翌年の2月上旬から売却を始めるという返答でした。そのため、安政5年2月中旬まで買替米の延納を願い出ているのです。
 買替米の指示を出し、調達資金を渡したのは、松前藩の役人でしたが、新庄藩との交渉など、調達の実務を担うのは惣代で、松前藩の役人は調達の過程には関与しませんでした。

安政5(1858)年5月「買替米の領収書」


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(入間 幸補 氏 寄贈)

 これは、鶴岡藩(庄内藩、酒井氏)領の酒田町(山形県酒田市)に置かれた松前藩の廻米役所が、買替米を納めた沼山村(山形県西村山郡西川町)名主善右衛門に渡した領収書です。安政5年1月に買替米の延納願書が出されていましたが、無事に納めることができ、この領収書が発給されたのです。
 領収書の中味を見ると、入間村ほか10カ村が調達した買替米は、米592石(俵数1600俵)とあり、重量に換算すると、100トン、馬に積む荷物に換算すると、800駄に達しました。
 この規模の米を調達するには、個々の小売店や問屋から買い集めることは難しく、他領の年貢米の売却に合わせて調達する必要がありました。これらの過程に、松前藩の役人は関与しておらず、村々に任されていました。
 松前藩の所領替えは、安政2年に内示が出され、安政3年の春に実際の引き渡しが行われました。松前藩は領内の状況把握を進め、同年は幕府領時代を踏襲した形で年貢が納められました。そして、安政4年分から買替米を始めたのです。入間村清右衛門と沼山村善右衛門の二人は、前例のない買替米納惣代という初めての仕事を任され、金600両を超える資金を手に約100トンの米を調達し、命じられた分量の米を廻米役所に無事に納めることができたのです。