ここでは、検見と年貢勘定を取り上げます。検見は、年貢量を決めるための作柄調査のことで、年貢勘定は、村単位に課された年貢を村内で分担することです。
 検見では、まず村内で内見と呼ばれる下調査を行い、坪当たりの収量も算出し、内見帳と耕地絵図にまとめ、領主に提出しました。領主は、内見帳と耕地絵図をもとにサンプル検査を行い、年貢量が決められました。検地と同じように、検見でも村人の能力を前提に実施されていたのです。
 従来の村請制のイメージでは、年貢納入の連帯責任の側面のみが強調されてきました。しかし、村単位に課された年貢は、あくまでサンプル検査による概数であり、そのまま個々人に割り当てることはできませんでした。そのため、村単位に課された年貢を各戸に割り当てる際の調整は、村に委ねられていたと考えられます。
 一方、このような年貢勘定の在り方は、村内で対立を生むことになり、数多くの村方騒動が起きました。騒動が頻発することは、領主の事務を圧迫することになり、領主は騒動の抑制を図るようになりました。17世紀の後半には、年貢量を村内で公開すること、年貢勘定に村人全般が立ち会うこと、年貢勘定の結果の承諾書を集めておくことが法令で義務付けられました。
 領主は、裁判官の立場から主張内容の理非を判断しましたが、年貢勘定の分担方法などに介入することはありませんでした。

検見要具之図


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(安藤博編『徳川幕府県治要略』柏書房、1971年)

 検見の道具として、1間四方(1坪)を囲う木枠の「枠竿」、一筆ごとの情報を記した建札(立札)のほか、一般的な農具としても使われる品々もあります。
 稲を刈る鎌、稲を脱穀する稲扱、脱穀した籾を広げる筵、枡などの計量用具、そして、その計量した籾を盛って領主の検査に供する膳も描かれています。

検見の様子

 検見 坪刈之図


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(安藤博編『徳川幕府県治要略』柏書房、1971年)

 検見は、場所を選定し、坪刈を行います。1間(1.8m)四方を木枠で囲み、その1坪分の稲を刈り取ります。各所に立札が刺してあります。
 道の中央で床机(簡易腰掛)に座り、作業を監督しているのが代官です。後ろに代官の太刀持ちが控え、布製の袋(皺文革)に入れて担いでいます。その隣では槍持ちが槍を立て、代官の武士としての格式を誇示しています。
 図中で、股引と脚絆(脛当て)、あるいは裁着(山袴)を履き、脇差を帯びているのが代官所の役人で、素足で着物の裾を端折っているのが村人です。

 舂法と枡様


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(安藤博編『徳川幕府県治要略』柏書房、1971年)

 舂法は、坪刈した稲を脱穀し、籾にすることです。千歯扱きを使って脱穀し、籾を筵に並べ、異物を取り除きました。
 このとき代官は奥の広間に座っている姿が描かれているので、作業の監督はしていません。
 舂法で得た籾は、代官の前に運ばれ、監督下で計量が行われ、米質が吟味されました。

慶応2(1866)年「当寅田方立毛内見合付取調書上帳」

 表紙


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(浜田 晴子 氏 寄贈)

 これは、出羽国村山郡入間村(山形県西村山郡西川町)が、検見の下調査(内見)を行った結果を領主に提出した作柄調査の報告書です。
 入間村のような一定期間同じ年貢率を維持する定免の村では、不作になると、領主に破免(定免破棄)を願い出て、村が検見の下調査をした報告書を領主に提出しました。この報告書を基に領主がサンプル検査を実施し、年貢量が決まりました。
 内見帳の中味を見ると、表紙の後に、村による内見の結果が一筆ごとに列挙され、先頭から通し番号が付されています。
 そして、署名部分があり、帳簿の末尾に、実際に検見が行われた場所が記されています。
 入間村が5ヶ所、入間村から分村した兵助新田が3ヶ所で、合計8ヶ所が選ばれ、検見の結果もそれぞれ記されています。
 検見の結果に使われている「合」は、米の量ではなく、割合を示す単位で、1合が1割で、10合=1升が10割になります。

 内見のリスト89番


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 検見のリスト89番


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 村による検見及び領主による検見のリストのうち、89番の土地を詳しく見てみます。
 村による内見では、「皆無」と報告していますが、領主による検見では、株数が56とカウントされ、「御改五合」と評価されています。
 株数は、実際にある稲株の数と思われます。また、検見の「五合」は、米の数量ではなく、作柄の指数です。1升=10合=100%とし、五合は50%になります。
 現代でも米の作柄は、平年作(過去5年間の最高と最低を除いた3年間の平均)を100とした作況指数で表しています。

慶応2(1866)年「検見の立札」

 立札8枚の全景


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(入間 幸補 氏 寄贈)

 これは、慶応2(1866)年に出羽国村山郡入間村と兵助新田で行われた検見で使われた立札です。実際に検見を受けた8枚だけが残されていました。
 村の下調査が終わって内見帳と耕地絵図が提出されると、領主役人による検見が実施されました。巡回する領主役人は村役人の案内を受けますが、村では内見帳に記載された情報を一筆ごとに木札に記し、篠竹に挟んで対応する土地に立てておきました。この木札は、檜の薄い木片の端に硫黄を塗った付け木が転用されています。本来の付け木は、火を他のものにつけ移すときに使われました。
 領主役人が検見で巡回する際、案内する村人が個々の立札を読み上げ、一人の領主役人は内見帳を開き、もう一人が耕地絵図を広げ、村による下調査の内容を照合したのです。
 立札は、検見が終わると廃棄されるものなので、実物がこのように残されていることは非常に珍しいことです。

 89番の立札


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 内見帳の89番の情報が記された立札です。表面が村による内見の結果、裏面が領主による検見の結果が記されています。
 内見では皆無と報告していますが、検見では50%という評価を受けています。かなりの開きがありますが、50%でもかなりの凶作です。
 また、この検見では、坪刈、舂法、枡様を行った形跡はなく、おそらくその場で目測と株数により、「合付け」をしていたと考えられます。「合」は割合の単位です。
 現場で合付けしたからこそ、検見の対象になった立札の裏に検見結果を記し、持ち帰り、内見帳の末尾に検見結果を追記したと考えられます。

慶応2(1866)年 「仮免状」


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(入間 幸補 氏 寄贈)

 慶応2(1866)年の検見の後に、入間村に出された仮免状です。このような短冊型の文書で、年貢の総量だけが通知されました。
 入間村は、本郷と枝郷に分かれていましたが、分村した兵助新田も一緒に仮免状が送られたようです。入間村本郷と兵助新田の分は、上端に割印が捺してあり、東根陣屋に備え置かれた帳簿と照合して発給されました。
 一方、入間村枝郷分は、割印がなく、紙質も異なっています。これは、おそらく本紙は枝郷に転送され、写が本郷に残ったと考えられます。入間村本郷と兵助新田は同じ名主でした。