平成30年度の特別展示は、「江戸時代の年貢とその担い手たち〜検地から納入まで〜」と題し、年貢に関する仕事の内容を整理し、その実務を担った人々が果たした役割、そして彼らが身に付けていた能力について展示しています。
年貢に関する様々な仕事は、村を単位に年貢を納める責任を負う村請制の下にありました。ところが、本来であれば武士が担うはずの検地、検見、そして納入後の年貢米の取扱いに関しても、武士以外の人々が重要な役割を果たしていたのが実態でした。村請制を超えた部分でも、多様な仕事を任されていたのです。
江戸時代は、兵農分離政策が採られたので、武士たちは城下町にまとまって住むことになり、自分の所領であっても、領主直営の農場や家屋敷、蔵などを置くことが禁止されました。武士がいない村には、城下町から様々な指示・命令が文書の形で伝えられ、文書を受け取った村では、担当者が決められ、実務が遂行されたのです。
一方、その指示を出す領主役人の側を見ると、幕府の代官所の場合、長官である代官は幕臣(旗本)でしたが、実務を担う手代は、浪人、下級武士の子弟のほか、武士以外の人々も代官所の経費で雇われており、幕臣ではありませんでした。また、18世紀の後半以降になると、幕臣(御家人)が手附として代官所に出向するようになりますが、手附と手代は明治まで同僚として代官所に勤務し、担当する仕事の内容に違いはありませんでした。
そもそも江戸時代は、諸侯が割拠する封建社会だったので、領主や地域ごとに制度の差も大きかったうえに、同じ領主が支配する村同士でも、村での仕事の進め方が大きく異なることも珍しくありませんでした。しかし、石高制(経済力を米で表示する制度)、兵農分離制、年貢村請制などは、全国で採用されており、年貢に関する仕事が武士以外の人々に支えられていたことは、共通していたと考えられます。
このような視点から年貢に関する検地、検見、年貢賦課、年貢勘定、年貢納入、そして納入後の年貢の取扱いに至るまで、村人がどのような役割を果たし、どのような能力を発揮していたのか、租税史料室が所蔵する全国各地の史料を用いて展示していきます。
平成30年度の特別展示は、「江戸時代の年貢とその担い手たち〜検地から納入まで〜」と題し、年貢に関する仕事の内容を整理し、その実務を担った人々が果たした役割、そして彼らが身に付けていた能力について展示しています。
年貢に関する様々な仕事は、村を単位に年貢を納める責任を負う村請制の下にありました。ところが、本来であれば武士が担うはずの検地、検見、そして納入後の年貢米の取扱いに関しても、武士以外の人々が重要な役割を果たしていたのが実態でした。村請制を超えた部分でも、多様な仕事を任されていたのです。
江戸時代は、兵農分離政策が採られたので、武士たちは城下町にまとまって住むことになり、自分の所領であっても、領主直営の農場や家屋敷、蔵などを置くことが禁止されました。武士がいない村には、城下町から様々な指示・命令が文書の形で伝えられ、文書を受け取った村では、担当者が決められ、実務が遂行されたのです。
一方、その指示を出す領主役人の側を見ると、幕府の代官所の場合、長官である代官は幕臣(旗本)でしたが、実務を担う手代は、浪人、下級武士の子弟のほか、武士以外の人々も代官所の経費で雇われており、幕臣ではありませんでした。また、18世紀の後半以降になると、幕臣(御家人)が手附として代官所に出向するようになりますが、手附と手代は明治まで同僚として代官所に勤務し、担当する仕事の内容に違いはありませんでした。
そもそも江戸時代は、諸侯が割拠する封建社会だったので、領主や地域ごとに制度の差も大きかったうえに、同じ領主が支配する村同士でも、村での仕事の進め方が大きく異なることも珍しくありませんでした。しかし、石高制(経済力を米で表示する制度)、兵農分離制、年貢村請制などは、全国で採用されており、年貢に関する仕事が武士以外の人々に支えられていたことは、共通していたと考えられます。
このような視点から年貢に関する検地、検見、年貢賦課、年貢勘定、年貢納入、そして納入後の年貢の取扱いに至るまで、村人がどのような役割を果たし、どのような能力を発揮していたのか、租税史料室が所蔵する全国各地の史料を用いて展示していきます。