江戸幕府は諸藩を圧倒する財源を持ちました。幕府財政は、全国各地の直轄領からの年貢米収入をはじめ、都市や鉱山からの収入、長崎貿易や貨幣改鋳による収益などがありました。支出は、切米と役料が大きな割合を占めていました。これらは、幕府の家臣と役人に対する人件費です。このほかに、将軍家や役所の経費、寺社や河川に関する修復費などに充てられました。
 江戸時代、将軍や大名は、給付として領地やお米を家臣に与えました。領地を与えられた家臣は知行取といい、お米を支給された家臣は蔵米取といいます。さらに、蔵米取には、切米取や扶持米取などがありました。多様な給与方法は、武家の格式や身分の指標にもなりました。
 有力な家臣は与えられた領地(知行地)を支配し、村から年貢を納めさせました。このような仕組みを地方知行制といいます。その一方で、多くの家臣は幕府や藩から年貢米を支給されました。

(研究調査員 吉川紗里矢)

【 目次 】

3-1 慶長6(1601)年 伊備前守殿御手形

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 遠江国敷知郡大福寺村阿弥陀領(現静岡県浜松市)の安堵状です。差出人の伊奈忠次は、代官頭として徳川家康に仕えた人物です。関東地方から東海地方にまでの広域な支配領域で、検地や治水など民政全般に尽くしました。さらに、寺社領や交通制度の政策にも腕を振るいました。

(研究調査員 吉川紗里矢)

3-2 元禄14(1701)年 陸奥国内南部領海辺際絵図(南浜)

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 江戸幕府が日本全国の地理を把握するため、大名や代官は一国単位(武蔵国など)の国絵図を提出しました。国絵図には各村の名称と村高が記されており、各地の生産力が分かります。
 この史料は、盛岡藩が幕府の指示により作製した海辺際絵図です。海辺際絵図に描かれた海岸線を基にして、国絵図は作られました。中央の帆船は、寛永20(1643)年に漂着したオランダのブレスケンス号です。

(研究調査員 吉川紗里矢)

3-3 元文3(1738)年 諸士知行境并産物書上

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 江戸幕府や諸藩は、新田開発を推し進め、年貢を増やすことに成功しました。しかし、18世紀には新田開発に適した土地が少なくなりました。そこで、商品価値のある産物を対象にして、その生産を奨励しました。
 この史料は、盛岡藩が家臣の知行所に関する調査報告書です。知行所の境界を始めとして、村高や年貢、産物などをまとめています。

(研究調査員 吉川紗里矢)

3-4 文化15(1818)年 遺扶持切米

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 岡山藩主池田斉政が家臣に発給した宛行状です。
 内容は、徳田重介の給与として、切米18俵と扶持米3人扶持を与えることを証明したものです。切米は年3回に分けて支給されました。扶持米は、1人分の1年間の食料が目安とされ、毎月支給されました。

(研究調査員 吉川紗里矢)

3-5 嘉永5(1852)年 御領所子免相帳・給所子免相帳

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 松代藩の真田家は、地方知行制を採用して家臣に土地を支配させました。この史料は藩直轄地(御領所)と知行地(給所)の免相帳です。免相帳とは、年貢の税率や年貢高などを書き上げた帳簿です。その年貢額は毎年藩が決定しました。「給所子免相帳」には、幕末の思想家・兵学者として知られた佐久間象山の知行所も含まれています。

(研究調査員 吉川紗里矢)