江戸時代の租税は、年貢と諸役に分けられます。年貢は本途物成ともいって、最も基本的な税です。村は年貢と諸役を納める責任がありました。これを村請制といいます。
年貢は土地に対する税で、村ごとに課されました。幕府や諸藩の役人は、土地一筆ごとの耕作者や田畑の等級などを調査した検地帳を作って、年貢を徴収しました。村では、検地帳から一人ずつ集計した名寄帳に基づいて、年貢割付状を村人に通知しました。村が全ての年貢を納めると、代官から年貢皆済目録を受け取りました。
諸役は年貢以外の小物成と、労働力を提供する伝馬役や助郷役などがありました。小物成は多様な雑税で、自然からの収穫物が対象になりました。伝馬役は、宿場町が公用通行者への人馬提供を負担しました。助郷役は、伝馬役の分量を超える時に、宿場町の近隣農村に課されました。また、実際に人足や馬を出せない場合は、その分の金銭を負担しました。これらの賦課基準は、検地で算出された村高で決まりました。
(研究調査員 吉川紗里矢)
【 目次 】
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寛文12(1672)年、代官松平親茂は幕府領の出羽国村山郡入間村(現山形県西村山郡西川町)で検地を命じました。検地とは、領主による土地調査です。この史料は、代官が検地役人や名主に出した指示などを、名主がまとめたものです。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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下総国葛飾郡根本村(現千葉県松戸市)の検地帳です。検地帳は、一筆ごとに面積や土地の等級を記載し、最後にまとめて村全体の合計石高(村高)を算出した台帳です。検地帳は2冊作られ、領主の役所と村に1冊ずつ管理されました。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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加賀国能美郡新保村(現石川県小松市)の年貢割付状です。年貢割付状とは、領主が村に対して1年間に納税する年貢高を通知した納税指示書です。ここには「今年の年貢は一昨年の定免の通りに」とあり、定免法が適用されていたことが分かります。定免法は、その年の豊凶に関わりなく一定の年貢を納める方法で、18世紀以降に定着しました。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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武蔵国比企郡下熊井村(現埼玉県比企郡鳩山町)の年貢皆済目録です。年貢皆済目録は、年貢を完納したときに領主から村に交付されました。この史料では、領主が年貢米を受け取ったことを村に伝えています。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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信濃国筑摩郡青柳町村(現長野県東筑摩郡筑北村)の年貢掛札です。この史料は一年間の年貢を村人に伝えるため、高札場に掛けられました。代官所が年貢額を公開することで、村役人の不正を防止する役割があったと言われています。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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主要街道の宿場には、幕府や諸藩の仕事で通行する者のために人馬の常備が義務付けられていました。人馬の不足時には、宿場と周辺の村々が負担(助郷役)し、負担した村は代わりに他の税の一部が免除されました。
この史料は、甲斐国都留郡田野倉村(現山梨県都留市)のほか2か村が負担した人馬の数を幕府に報告したものです。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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盛岡藩勘定方が作成した検地・検見作法書です。
19世紀には、対外関係の緊張により、東北諸藩は幕府から蝦夷地警備を命じられました。盛岡藩は警備費などを確保するため、検地・検見の方法を見直しました。
(研究調査員 吉川紗里矢)
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慶応2(1866)年、出羽国村山郡入間村(現山形県西村山郡西川町)は凶作の被害に遭いました。当時は定免法が適用されていたため、通常の年貢を納める必要がありました。そこで、村は東根陣屋(現山形県東根市)に破免検見を求めました。破免検見は、凶作時に役人が作物の実地調査を行う検地です。検地の結果、村の年貢を軽減しました。
付木は、この検地で実際に使われた木片です。役人は検地の結果を付木に記して、田畑に差し込みました。書上帳には、付木と同じ文章が書かれています。そのため、村では付木を回収して、書上帳にまとめました。
(研究調査員 吉川紗里矢)