全国初の税務署分室

昭和16年(1941)7月に財務局が開庁しました。当初の財務局は7か所で、現在の国税局よりも広い範囲を管轄していました。財務局は昭和24年(1949)に国税局と財務部に分割改編されましたが[この財務部が1年後の昭和25年(1950)に財務局へと改称され現在に至ります。本稿で説明する財務局は、現在の財務局ではなく、国税局の前身である「旧・財務局」を指します。]、その短い期間の中で新潟財務局が存在したことは、あまり知られていません。また、東京財務局新潟支局という組織があったことも、ほとんど知られていないと思われます。今回は、この二つの組織について、設置や廃止の経緯などを紹介します。

財務局の開庁から2年余を経た昭和18年(1943)11月に、四国4県を管轄する松山財務局と北陸4県及び長野県を管轄する新潟財務局が新設されました。財務局の管轄が広範囲なので、四国と北陸への新設は妥当と思えます。しかし、なぜ松山と新潟だったのでしょうか。また、長野県が北陸を管轄する組織に含まれていたことにも違和感を覚えます。
 財務局の新設は、「地方行政協議会」が設けられたことと深い関係があります。地方行政協議会とは、地方行政の推進を図り、関係府県の相互連絡や各種地方官庁の所管行政をも総合的に運営することを目的として、昭和18年(1943)11月に設置されました。その協議会を構成する委員に、府県知事などと合わせて財務局長も含まれていました。地方行政協議会は九つのブロックに分かれていましたが、四国地方行政協議会(松山市、会長は愛媛県知事)と北陸地方行政協議会(新潟市、会長は新潟県知事)だけは対応する財務局がありませんでした。この二つの地方行政協議会に合わせるため、松山及び新潟財務局を新設しました。また、北陸地方行政協議会の管轄に長野県が含まれているため、新潟財務局の管轄も一致させて北陸4県と長野県になりました。
 昭和20年(1945)6月に至り、地方行政協議会は「地方総監府」という組織に改編され、財務局もその指揮下に入ることとなりました。この地方総監府への改編に際して、北陸地方行政協議会が分割(近畿・東海北陸・関東信越地方総監府に3分割)されて消滅し、北陸地方行政協議会に合わせて設置されていた新潟財務局も分割(大阪・名古屋・東京財務局に3分割)されて廃止となりました。ちなみに、四国地方総監府が高松市に新設されたため、松山財務局は高松へ移転し、高松国税局への改編を経て現在に至っています。新潟財務局は約1年半で廃止されましたが、比較的に大きな組織だったため、租税史料室でも関係する史料が散見されます。写真1は、新潟財務局が発行した辞令と職員録です。

新潟財務局の廃止と同時に、東京財務局新潟支局が新設されました。その理由は次のようなものです。
 関東信越地方総監府(総監は東京都長官の兼務)は最も広範な地域を管轄していましたが、その範囲は10都県(茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・山梨・長野・新潟)に及んでいます。東京財務局は関東信越地方総監府と同一の範囲を有することになり、その管轄も極めて広大なものとなりました。広大な管轄区域となった東京財務局の中で、新潟県と長野県は最も遠隔地に存在していました。新潟財務局から分割編入されたばかりであったこととも合わせて、新潟県と長野県を対象とした東京財務局新潟支局を新設したと考えられます。
 昭和20年(1945)8月に終戦を迎え、地方総監府は終戦から3か月を経た11月に廃止となりました。財務局支局も昭和21年(1946)2月に廃止となります。僅か8か月という短期間の存在で管轄範囲も広くなかったため、史料も極端に少ない状態にあります。写真2は、東京財務局新潟支局処務細則です。写真3は、新潟支局の発簡文書ですが、この文書を含めて3部しか確認できていません。

昭和23年(1948)12月に、関東信越財務局が東京財務局から分離しましたが、新潟県と長野県は関東信越財務局に所属し、関東信越国税局への改編を経て現在に至っています。

(研究調査員 渡辺 穣)