かつて、「税務署分室」というものが存在していました。その先駆けとなったのは、昭和23年(1948)に設置された氏家税務署烏山分室(栃木県)です。今回は、この分室の設置経緯について、「烏山分室設置事情」(写真1)という史料からご紹介します。
 昭和22年(1947)に、所得税等に申告納税制度が導入され、さらに、それまで市町村が担当していた一部の国税徴収も国が直接行うこととなりました。このような事情もあり、昭和22・23年には税務署の新設が相次ぎ、137署が誕生しました。
 栃木県北部を管轄していた大田原税務署も、管轄区域が広大であることから分割することとなり、新設税務署候補地である塩谷郡氏家町(現、さくら市)・那須郡烏山町(現、那須烏山市)・塩谷郡矢板町(現、矢板市)で激しい誘致合戦が繰り広げられました。最終的には氏家町に税務署が設置され、烏山町に分室が設置されたのですが、その経緯を氏家税務署長に烏山分室長が報告(写真2)しています。
 「(前略)大田原税務署分割問題が起きた際に、氏家、烏山、矢板の3町で猛烈な争奪戦が演ぜられたのであります。然し最後の土壇場において当局の方針が氏家に設置することと決定したので矢板は遂に断念したが、独り烏山だけは執ように食い下がり、氏家に設置されるなら烏山町以下南那須11ケ町村は元の大田原署に復帰したいと強力に交渉したさうであります。折から開会中の議会に税務署新設の件を上程する期日も切迫し、上程不可能となる恐れもあったので(中略)最後の懇談会が開かれたのであります。(後略)」
 この懇談会に出席したのは、烏山町の代表数名と、主税局長の代理として東京財務局長・総務部長等だったようです。懇談会では、「新税務署は氏家町に設置する、その代り烏山町には全国にもその例の無い『分室』と言ふものを設置するから、それで手を打ちたい。(中略)全国にも例の無い未曾有の税務署分室を設置すると言ふことは本署に昇格する足掛かりである(後略)」ということが提案されました(※)。
 (※)原文に、一部、送り仮名等を加筆しています。
 懇談会での提案を烏山町代表は了承し、「猛烈な争奪戦」も円満に解決され、昭和23年4月に氏家税務署が開庁しました。そして、翌5月に全国初となる氏家税務署烏山分室が設置されたのです。しかし、「本署に昇格する」ことは実現せず、昭和25年8月に烏山分室は閉鎖されました。写真3は、烏山分室が閉鎖された時の職員の集合写真です。
 烏山分室の他にも、租税史料室所蔵史料で5ヶ所の分室の存在が確認できます。
 昭和39年(1964)に高田税務署安塚分室(新潟県)が設置されましたが、翌年には閉鎖されています。この安塚分室の他にも、昭和41年(1966)に阿南税務署牟岐分室(徳島県)・柏原税務署篠山分室(兵庫県)、昭和42年(1967)に八幡浜税務署卯之町分室(愛媛県)、昭和45年(1970)に大館税務署花輪分室(秋田県)が設置されました。これら5ヶ所の分室は、いずれも税務署を廃止した際に規模を縮小して設置した施設でしたが、すべて数年で閉鎖されました。
 このうち、租税史料室では牟岐分室を廃止(昭和44年)する際に作成された「お知らせ」(写真4)を所蔵しています。恐らく、他の分室でも同様のチラシなどが作成されていたことでしょう。
 税務署分室は、税務署の新設と廃止に深くかかわっていました。分室同様に「廃止された税務署の規模を縮小した代替施設」として「支署」というものがありました。「支署」として設置されたのは、唯一、昭和42年に設置された岩見沢税務署夕張支署(北海道)で、永続的な機関として考えられていたようです。しかしながら、その夕張支署も、平成8年(1996)7月に閉鎖され、現在では、分室・支署ともに存在しておりません。

(研究調査員 渡辺 穣)