江戸時代の土地は、個別の領主の支配下にあり、それぞれのやり方で租税は賦課・収納されていました。明治時代に入っても、過渡的な措置として従来のやり方がしばらく継続されました。そうした状況下において、全国的に統一された基準に租税の仕組みを改正することは、明治政府の大きな課題であったのです。

明治政府は、近代的な土地制度と租税制度の確立を目指し、明治6年(1873)に地租改正事業に着手しました。地租改正は、地籍調査(一筆ごとに所有者・地番・地目・境界・面積などを調べること)で、土地とその所有者を確定し、さらに物価や収穫量から土地に地価を付けていくという手順で進められました。

地籍調査では、土地所有者自らが測量などを行うこととされており、それを町村の代表者が地引帳(ぢびきちょう:一筆ごとに列記した実地検査用の地籍帳簿)や地図にまとめ、府県に申告しました。府県は、土地所有者からの申告内容を検査し、所有者の再調査や修正申告を受け、地籍を確定しました。

次いで、地価調査が行われました。地価も土地所有者からの申告が原則でしたが、地価調査には数年間の収穫量や物価のデータ、土地の等級など近隣の村々でバランスを保つ必要があったため、町村の代表者の合議や共同作業で行われました。調査結果は、町村ごとに代表者が地価帳という帳簿にまとめて府県に申告し、府県の検査を受けて土地一筆一筆の地価が確定していきました。この地価が、地租の課税標準でした。

地価が確定すると、府県は、地籍台帳と地租の課税台帳を兼ねる地券台帳を作成するとともに、土地所有者に地券を交付し、土地所有と納税義務者の証書としました。

写真1は、地租改正の過程で、明治8年(1875)7月14日に岡田村ほか7か村(新潟県柏崎市)が地租改正掛(係)に提出した「実地御検査受書(うけがき)」の控です。各村の用掛・改正用掛と戸長が署名しています。この時期の村々は、大区小区(だいくしょうく)という単位に編成されており、村役人の統一された呼称はありませんでしたが、この地方では村の代表者が用掛、小区の長が戸長と呼ばれていたようです。

この史料にある8か村では、地籍の申告が遅れていたようです。新潟県の担当者から直接「督責」を受けたため、8か村で相談してこの受書を記したと書かれています。冒頭に記された各村は、期日までに、「地引帳図押通シ番号ニ引直シ、畝杭(せぐい)打立、速ニ御検査受可仕候」(通し番号を付け直し、地引帳と地図を作り、畝杭を立て、速やかに実地検査を受けます)と誓約しているのです。畝杭とは、地引帳の内容を一筆ごとに記載した木の札で、実地検査のときにその土地に立てられ、目印とされました(写真2)。

一般的に、実地検査は、土地登録に漏れや重複がないか確認する地押(ぢおし)検査、申告された面積と実際の面積との差を確認する測量検査の二段階がありました。府県の検査員は2人一組の班となり、各班が手分けをして管内の町村を回りました。

地押検査では、1人が地引帳を持ち、1人が地図を持ちます。そして、現地を案内する土地所有者が土地に立てられた畝杭を読み上げ、地引帳・地図と実地の内容が一致するのかを確認していきました。

8か村のうち7番目に記載されている栃ケ原村は、9月20日を実地検査の期日としています。しかし、実際に検査が入ったのは10月10日のことでした。このことから、必ずしも誓約書の期日が厳守されていなかったことがわかります。

なお、租税史料室では、毎年テーマを決めて特別展示を行っております。平成27年度の特別展示は、「土地をめぐる税の歴史〜測量・地図とのかかわりあい〜」と題して、地租などの税をめぐり、作成された地図や当時の測量法などを紹介しています。

是非とも一度ご覧ください。

(研究調査員 舟橋 明宏)