問い

 現代ではほとんど見かけませんが、鎌倉時代や室町時代、そして江戸時代に盛んに取引された青苧(あおそ)という商品がありました。江戸時代には専売制の対象商品にする藩もあったほどです。その用途は何でしょうか?
 また、中世には青苧(あおそ)を取引する商人たちは同業者の団体(青苧(あおそ)座)を結成し、販売する権利を得るために金銭(座役(ざやく))を上納しました。その納め先は、丸1武家、丸2公家、丸3寺社、のどれでしょうか?

答え

用途:衣服(布)の原料
納め先:丸2公家

解説

 青苧は衣服の原料で、繊維の一種です。日本列島には山野に苧麻(ちょま)という植物が自生していました。そこから取り出した繊維を青苧あるいは苧(からむし)といいます。古くから衣服の原料として利用されていましたが、鎌倉時代には畑に植えて栽培されるようになりました。2〜3メートルの背丈に達したものを刈り取り、水に浸した上で筵(むしろ)で覆って蒸すことで、繊維化するのです。麻などに比べると細くて柔らかい繊維なので、上質の布を織ることができました。中世の末から戦国時代にかけて、木綿が朝鮮半島から日本に移入され、広く普及して衣料の主原料となります。青苧は木綿以前の主原料のひとつなのです。
 衣料の原料として青苧は広い地域で利用され、流通しました。商業や流通が盛んになると、青苧に限らず中世の商人の多くは座を結成し、本所(ほんじょ)(支配者的な存在)に座役を納めて独占的な売買権を得て、自分たちの権益の確保に努めました。
 青苧の場合、座役を本所として徴収したのは、公家のうちの三条西(さんじょうにし)家でした。藤原氏の分流で、摂家(せっけ)・清華家(せいがけ)に次ぐ大臣家(だいじんけ)の格式の家です。しかも三条西家は青苧の座役だけではなく、青苧の関役(せきやく)(関所の通行税)も徴収しています。青苧の売買だけではなく青苧の流通からも収入を得ていたのです。中世後半の三条西家の財源をみると、もちろん各地の荘園からの年貢収入が中心でしたが、青苧の座役・関役、そして淀(大阪府)の魚市(魚の市場)の座役(西園寺(さいおんじ)家〈藤原氏の分流、清華家〉と共有の本所)も含まれており、こうした商業に関する課役(かやく)も重要な地位を占めているのです。
 青苧座としては、天王寺青苧座(大阪府)を中心に京中青苧座(京都府)・坂本青苧座(京都府)・越後青苧座(新潟県)などがありましたが、生産地としては越後が有名でした。室町時代の天王寺青苧座の商人たちは、三条西家に座役を納めて専売の許可を得ていました。天王寺の商人は、越後まで行き、他の商人を排除して優先的に青苧を買い付けていました。しかし、15世紀後半になると、越後の守護上杉氏の下で「越後衆」(えちごしゅう、実態不明)と呼ばれる人々が台頭し、天王寺商人の優先的な集荷体制が崩れていきます。さらに、遅くとも16世紀初めまでには、天王寺座は越後での優先権を失います。守護代長尾氏の財政担当者で御用商人でもある蔵田五郎左衛門が「越後衆」を束ね、三条西家に直接座役を納めるようになります。そして、守護代長尾為景(ためかげ、上杉謙信の実父)が享禄3年(1530)に越後の実権を握ると、蔵田は責任者として越後全体の青苧の流通および課税の統制強化を図るようになります。  また、越後にも青苧座がありましたが、商人側が結成した天王寺座などとは異なり、守護上杉氏や守護代長尾氏の課税や他地域に対する対抗のために組織された座だったと見られるのです。
 しかし、越後青苧座も蔵田も三条西家に座役を納めて独占権を認めてもらっていることは注意が必要です。一連の動きは、本所・座役・座の関係を否定するものではありません。本所からの離脱ではないのです。特権および商業の担い手が生産地の越後に移り、現地の戦国大名と結びつく、という形なのです。
 このような商業座のあり方は、江戸幕府によって明確に否定されます。商業に関する諸税は、近世の租税体系の中に組み込まれていくのです。
 なお、商業以外の座では、久我(こが)家(村上源氏の一流、清華家)を本所とした当道(とうどう)座(目の不自由な人の職能集団、琵琶法師・鍼灸・按摩・金融)のように、江戸時代以後も存続し、大きく発展した座もありました。