NETWORK租税史料

【昭和38年日本シリーズ入場券】
 第8戦までもつれた日本シリーズは、史上唯一、
昭和61年のライオンズ対カープのみです。


【昭和29年入場税
ポスター】

 入場税が、国税に戻された時のポスターです。
 写真のチケットは、昭和38(1963)年の日本シリーズのものです。このチケットには「税」の文字が見られます。消費税の導入されたのが平成元(1989)年ですが、それより前の時代に発行された、このチケットに記されている「税」は入場税です。
 入場税は、昭和13(1938)年に日中戦争の戦費として徴収が始まった国税で、劇場・活動写真・演芸場・スタジアムでの鑑賞・観戦のほか、ゴルフ場・スケート場などの遊興場への入場につき、料金の10%で課税されました。戦後、地方自治の実を挙げる目的で各都道府県に移管された警察・消防・教育の見合い財源として、入場税は地方に委譲されます。しかし、法人税などの直接税減税を間接税で補填する必要が生じたことと、入場税収入が大都市を抱える都道府県に偏っていたことを理由に、昭和29(1954)年、入場税は国税に戻されました。
 国税への再移管後、入場税は昭和36(1961)年のピーク時に190億円もの税収を計上しますが、以降は徐々に減少の一途を辿ります。昭和36年を境に税収減に転じた背景は、白黒テレビ普及に伴う映画入場者数の減少が考えられます。白黒テレビの普及率は、高度経済成長の好景気の波にのり、昭和36年を機に上昇していきました。昭和38年には白黒テレビを所有する世帯は全世帯の80%に達し、家に居ながらに娯楽を享受できる時代が到来したのです。また、昭和30年代の映画界では黒澤明監督「七人の侍」のヒット以降、三船敏郎主演「椿三十郎」などを筆頭に時代劇が量産され、コンテンツが固定化されていきました。他方で、テレビは、連続テレビ小説の第一作「娘と私」(昭和36年)、丹波哲郎主演「キイハンター」(昭和43年)などのキラーコンテンツが作成されて、シリーズ化や長寿番組化するほどの人気を博し、主要メディアの座は映画からテレビへと移っていったのです。
 その後、娯楽への課税を緩和する動きが見られ、昭和60(1985)年の入場税法改正で免税点が大幅に引き上げられた(映画:1500円→2000円、スポーツ:3000円→5000円)結果、多くの催物が課税対象から外れました。入場税は高額な入場料金や競馬場など公営ギャンブルへの入場に限定された後、平成元年に廃止されました。
 ちなみに、写真の昭和38年の野球チケットは「幻に終わったもの」です。この年の日本シリーズは後楽園と平和台の両球場で開催された巨人―西鉄でした。南海ホークスのホームである大阪球場開催とあるのは、直前まで南海にリーグ優勝の期待がかかっていたからでした。この年、野村克也・杉浦忠・スタンカを擁する南海は、開幕から首位を独走、7月には西鉄に14.5ゲーム差をつける程に引き離したのです。しかし、8月に入ると、西鉄は打線を組み換え、反転攻勢に出ます。ロイ・ウイルソン・バーマの3外国人を揃えたクリーンナップ、6番に怪童中西太を据えるオーダーとし、南海ににじり寄り、最終戦で逆転。1ゲーム差で西鉄が優勝したのです。
 この年は西暦奇数年に該当しており、日本シリーズ第一・二戦の開催はパリーグ出場チーム本拠地球場でした。そのため、南海はチケット印刷をシーズン中に「見切り発車」せざるを得なかったのです。通常、日本シリーズは最大で第七戦までですが、第八戦までとなった場合、この年はパリーグ出場チーム本拠地球場の開催でした。第八戦までもつれた場合に備えて、印刷されたチケットを事前に準備する必要がありました。しかし、シーズン最終戦で南海は日本シリーズ出場を逃したため、写真の見本品だけが残りました。
 なお、1ゲーム差で苦汁をなめた南海は、翌昭和39(1964)年にペナントを奪還。日本一にも輝きますが、日本一決定が東京五輪の開幕日と重なったことから南海の日本一達成の新聞報道は低調。この年が南海ホークスとしての最後の日本一となってしまったのです。

(2024年3月 研究調査員 大庭 裕介)