NETWORK租税史料

 今回ご紹介する史料は、明治35(1902)年頃に作成された砂糖(粗糖、原料糖)の関税及び白糖(精製糖)消費税の増税を求める意見書です。
チラシ作成者は、「台湾・沖縄及び四国・大阪の糖業同志」とあり、伝統的な在来製糖業者であったと思われます。そのような製糖業者自身が増税を求めていることが注目されます。以下、この意見書の概要及びその背景を見ていきます。
 もともと日本には、サトウキビ栽培に適した土地が少なく、輸入砂糖に大きく依存していました。明治時代半ばの日本は、綿織物、毛織物、鉄鋼等に並び、砂糖を重要な輸入品としていました。
 このような状況は、明治20年代後半以降、次第に変化していきました。明治27(1894)年以降、各国と通商条約を結び、幕末以来の懸案であった関税自主権を改善させ、明治32(1899)年に関税定率法が施行されました。また、明治28(1895)年に日清戦争が終結し、下関条約によって台湾が日本領になりました。
 外国からの砂糖輸入をコントロールできる関税の条約を結べたこと、サトウキビ栽培に適した台湾を領有したことで、サトウキビの栽培から砂糖の精製まで一貫して国内で行える条件が整ったことになったのです。
 ただし、サトウキビは伐採してそのまま放置すると、すぐに糖度の低下が始まるという植物としての性質があるので、栽培地近くの工場ですぐに加工を始める必要がありました。栽培地の工場で圧搾した糖汁を飴状に煮詰めて固形化し、粗糖にしました。そして、消費地の工場で液状に戻し、結晶と糖蜜に分離し、白糖にしました。この糖蜜は再び砂糖の原料とされるほか、酒精(アルコール)の原料としても流通しました。このように、砂糖の取引では、原料、半製品、副産物、製品が混在していましたが、砂糖というカテゴリーで括られ、流通していました。
チラシ 一般的に、生活必需品に重く課税することは、日常生活に大きな影響を与えます。日本では、石油への関税、醤油税、郵便電信料、鉄道運賃に至るまで増税あるいは増額が実施されていました。しかし、砂糖の関税と消費税の場合、同じ増税・増額でも、状況は大きく異なると意見書では主張されているのです。
 明治34(1901)年に公布された砂糖消費税法を見てみると、第11条には、砂糖消費税を課せられた砂糖・糖蜜を原料として砂糖・糖水・酒精を製造した者は、原料となった砂糖・糖蜜の消費税に相当する金額の還付を政府に申請できると定められており、砂糖の原料分の消費税は当初から還付される規定になっていたことが分かります。国内の業者は、原料分の消費税が全額還付されることになるので、増税の影響をほぼ受けない状況にあったのです。
 さらに、明治35(1902)年には、輸入原料砂糖戻税法が施行されました。国内の業者は、原料の関税に相当する金額が還付されることになりました。関税が増税されることになっても、その影響はほぼ受けないことになるのです。
 砂糖の関税及び消費税の増税は、その税額の還付制度により、国内の業者に対しては、保護策として機能しました。そのため、さらなる効果を期待して意見書では増税が主張されているのです。
 日本の糖業は、サトウキビの品種改良、工場の技術改良、様々な奨励策、関税及び消費税の優遇措置により、目覚ましい発展を遂げました。 かつては、30万トン以上のジャワ糖を輸入していましたが、昭和7〜8年には5万トンにまで減少しています。 なお、砂糖への関税と消費税は、ともに「オランダ標本」という色相標本を使って等級を付け、関税額や消費税額が決められていました。また、砂糖消費税は、いわゆる庫出税で、生産工場や倉庫から商品を出荷するタイミングで課せられました。
 「オランダ標本」と砂糖消費税の課税については、国税庁ホームページ租税史料コーナー内の、菅沼明弘「1 文明開化と税」(令和元年度特別展示「暮らしの変化と税」、2019年10月)渡辺穣「砂糖への課税方法」(税の歴史クイズ、2017年2月)でも紹介しています。

(研究調査員 舟橋明宏)